「……」
朝、いつもと同じ時間に目が覚めた。
あまり揺らさないように、布団がずれないようにベッドから下りる。振り返って、まだ目を覚ましていないことを確認すると、ベッドの脇に落とした衣類を掻き集めていく。
それと自分の着替えと変装道具を手にすると、音をなるべく立てずに寝室を抜け出した。
洗面所に入り、洗濯物を放り込んで洗濯機を回す。機械の定期的な音を聞きつつ、洗面台に変装道具を並べる。
……そろそろ来るはずだ、玄関を開けに行こう。程なくしてスマホが一度振動し、メッセージが届いたことを伝えた。
「おはよー秀ちゃん♪」
開錠した玄関扉を静かに引いていく。外で待っていた女性は朝日を背にし、早朝にもかかわらず不満を一切表に出さず、俺に笑みを送った。
「おはようございます、今日も朝からご足労掛けました」
「いいのいいの、秀ちゃんの顔も見たかったし」
同居人が目を覚ます約1時間前、この家の家主の妻である有希子さんが訪れてきた。
一時的に身に着けていた眼鏡とウィッグを外し、更にマンダリンカラーのシャツを脱いで洗面台に置く。上半身は襟口の広いシャツだけになり、一歩離れたところからこちらを見る有希子さんを横目に、沖矢昴の顔を作り始めた。
もうかれこれ何ヶ月も、1日欠かさずこなしてきた作業だ。有希子さんは変装の途中から何も言わなくなっていった。仕上がりは良くなっているらしい。
ちらりと目線を注げば、有希子さんは明らかに俺の手際以外を見ている。何を思ったのか、俺の襟足に手を伸ばした。
「秀ちゃんちょっと髪伸びた?」
「……どうでしょう。特に何かしていませんが」
「今度こっそり切ろうか。昴君の髪の色が途中から変わったら、あの子びっくりしちゃうだろうし」
「お願いします」
「まあ、髪少し伸びた秀ちゃんもちょーっと見てみたか……あら」
「どうしました?」
「秀ちゃん、ここどうしたの?」
ほら、と有希子さんは持ってきていた手鏡を俺の背後に当て、合わせ鏡で俺に背後を見させる。……左右に数本、背中に走る引っ掻き痕がシャツの襟から覗いていた。
心当たりは1つしかない。俺のベッドで今も寝ている同居人が、昨晩しがみついた時に付けられたんだ。
「ああ、大したことではありませんよ」
特に問題なく化粧を終わらせると、心配そうに背中を見つめる有希子さんをよそに、シャツを掴んで袖を通していく。
地毛をまとめてウィッグを被り、違和感がないように調整する。ああ、眼鏡を忘れるところだった。
「ようやくな吐いたと思った猫に反撃を食らったんです。まだ扱いが慣れなくてね」
「でもその爪痕、どう見ても人……あっ」
「その猫には……」
チョーカー型変声機を首に付け、スイッチを入れる。有希子さんの方へ振り向き、綻んだ口元の傍で人差し指を立てた。
「内緒ですからね?」
「ふふ、りょーかい」
沖矢昴の声での要望に、有希子さんは快く首を縦に振った。
……そろそろ起きる時間だ。ここを片づけて朝食を作っておくか。
「でも秀ちゃん、それ付けててなんにも言われないの?」
「……それについては俺も、少し理解に苦しむところです」
……変声機は外して及んでいるが、付けていることにする。
有希子さんに更に聞かれたとして、答えられるはずがない。赤井秀一としての声を抑えなくても、特に何も言ってこない彼女の感性については、俺にも分からんのだから。
「ところで今日は朝食、ご一緒になりますか?」
「え、さすがにそれはないかなあ……ベッドまで持ってって、2人でゆっくり食べなよ」