09 胡散臭いからの脱却
「――沖矢、さんっ!!」

 休日、自分の寝室でくつろいでいる時だった。ベッドに置いていたスマホが鳴って、デスクから離れてスマホの画面を見ると、沖矢さんからのラインの通知。画像を送信しましたとだけ表示されていて、何を送ってきたのか内容を見た直後だ。ドアを蹴破る勢いで部屋を飛び出し、沖矢さんがいるだろうリビングへ走り出した。
 声を荒げると同時にリビングのドアを勢いよく開けると、沖矢さんはお茶を飲みながらテレビを鑑賞してまったりとしている。まさかこの男、数十秒前にあんなことしておいて、本人を目の前にしてそんな態度をとるなんて。

「綾瀬さん」
「ななななんなのこれ!?」
「すみません、間違えて綾瀬さんに送ってしまいました」
「そ、そうじゃなくてっなんでこれが沖矢さんのスマホに入ってるの!?」

 そのままにしていたスマホの画面を沖矢さんに突きつける。映っているのは私が爆睡中の顔の写真、さらによく見ると、私の頭の下には自分以外の膝らしきもの。完全に、私が体調不良で沖矢さんの膝を枕にしてうっかり寝ちゃったときのやつだった。
 わざとではないにしろ、人が薬の副作用で仕方なく寝ちゃった時に、この男はこんな、呑気に遊んで……!!

「……」
「沖矢さん、なんか言ったらどうですか?」
「……い人」
「え?」
「あ、いや……」

 沖矢さんの反応がどうにもおかしい、さっきから険しい顔つきで私のスマホをじっと見ている。写真以外に見えるものとしたら、沖矢さんとのトークくらいしかな……

「――!へ……部屋戻りますっ!」

 沖矢さんの表情の理由に気付き、スマホを引っ込めた。目線は沖矢さんの顔から脇へ泳ぎ、更に泳いで、遠くへ逃がす。
 目線だけじゃあだめ……リビングから、沖矢さんから体も逃がさずにはいられない。踵を返し、リビングのドアまで走ろうとしたけど、その時には沖矢さんは私の手首を掴んでいて、逃げ出すという選択肢は断たれてしまった。

「“うさんくさい人”ですか」
「……ハイ」

 とても面倒なことがバレてしまった。沖矢さんのユーザ名を私が実は、「沖矢さん(うさんくさい人)」に変えていたことを、知られてしまった……

 リビングで借りてきた海外ドラマのDVDを2人で観ている時も、夕食を2人で作っている時も、沖矢さんの眼鏡越しの目線が、常に痛く刺さり続ける。どうしてわざわざあんな面倒なことをしたんだと目で訴えている。

「介抱までしたというのに、それでも胡散臭いと思っているんですか」
「あ゛ー……」
「聞こえないふりですか……つまり否定しない、ということですね」
「はい」
「濁しもしないなんて……少しは申し訳ないと思って頂けていると考えていたのですが」

 今、こうして夕食を取っている時もだ。目だけでは飽き足らず、不満をとうとう口にまで出し始める。もうこれで掘り返されるのは3回目だ。
 適当に流そうとすれば、私が手を伸ばして取ろうとした醤油さしを横取りしてくる……私が言うのもあれだけど、子供か。大体その、沖矢さんが私を介抱したって記憶がない。どのタイミングで私にそんなことをしたの?

「何故、未だにそう思うんですか」
「正直沖矢さんのこと、今でもよく分からないんです」
「1ヶ月もいるのに?」
「ええ」
「僕はその1ヶ月で、結構知れたつもりだったんだが……少なくとも、それは君を知ろうとしたからだ」

 誰かと違って、と沖矢さんは最後に付け足した。
 沖矢さんの怒っている声を聞いたのはこれが初めてだった。というか、沖矢さんでも怒る時があるというのが少し意外だった。声も、コナン君達には角のない声で話しているのに、さっきのは随分ときつい声調だったように聞こえた。
 そんな声でわざとらしく、私に棘っぽい言葉を使ってくる。そのすぐ後に、小皿に入った大根下ろしに醤油を1周させ、私にそれを差し向けた。今日のおかずにいつも付けるやつ……まるで君の食べる時の嗜好も知っている、と言ってるみたいだった。

 放っておいてもいいけど、いつまでもこの話をされるのは御免だ。多分、一度消化させればもう言ってこなくなるはず。それにちょうど、懐にも余裕が少しだけどあるし。

「沖矢さん」
「……」
「一緒に出掛けましょう、と言うつもりだったんですが。聞いてくれないならなかったことに」
「すみません、詳しくお聞かせ下さい」
「先月の出費を計算していたんですが、家賃がなくなったのと、沖矢さんが生活費を半分出してくれたおかげで、私にも少し余裕が出来ました。で、その余ったお金で安い日に映画を観に行こうかと思っていたんですが……暇なら、沖矢さんが観たいやつでどうでしょうか」
「水曜日ですよね?」
「レディースデー、よくお分かりで……」
「……」

 沖矢さんが私の作った味噌汁を啜って、3、2、1。

「シャーロックホームズの洋画が公開されていましたね、確か。あれを観ましょう」
「分かりました、チケット後で買っておきます」

 よし、かかった!ちょろい!

「気を遣っていただいてありがたいんですが、他にも寄って構いませんか?僕が運転するので」
「全然問題ないですよ。お好きなところへ」

「では、その日は夕食の支度は不要ですね」
「……え」

 それ、本当に寄り道で済む?もしかして沖矢さん、映画館より遠いとこへ連れて行こうとしてない?
 まさか……はめられた?

「楽しみです。あ、コートと手袋を忘れないようにして下さいね」

 本日2回目の、時すでに遅し。沖矢さんはさっきとは打って変わって、機嫌が良さそうな顔で指を組んでいた。
 と、とにかく2人でいないようにしないと……ご飯食べてる場合じゃない、すぐに手を打たなきゃ!



「昴さん、こんにちは!」
「やあコナン君、今日は学校じゃあないのかい?」
「今日は午前中で終わったんだー」
「来てくれて悪いけど、僕ら今から出かけるんだ」
「うん、映画でしょ?」
「……」
「あ、コナン君こんにちは!」
「綾瀬さん、ちょっと」

 沖矢さんと出かける当日の正午、ちょうど出かけるタイミングでインターホンが鳴って昴さんが玄関を開けると、コナン君が玄関口で立っていた。良かった、間に合ったんだ……私が玄関までコナン君を迎えに行こうとすると、沖矢さんはコナン君が目の前にいるにも関わらず、突然玄関扉を閉めた。
 あ、この顔最近見た……私に少なからず怒ってる時の顔だ。

「呼んだのは、君だね」
「……はい」
「チケット、坊やの分も買ってあるんだろう?仕方ないな……」
「すみません……」
「……急に閉めて悪かったね。さ、車に乗って」

 溜息をわざとらしく吐きつつも、沖矢さんは私の要望を飲んでくれた。その後、沖矢さんはスマホを取り出すと何か操作をし、それをしまうとそそくさと玄関のドアを開け直した。……コナン君への態度はさっきのとは打って変わっていつも通りだった。
 ……沖矢さん、最近分かったことだけど、私に怒る時は敬語外すんだなあ。

「そういえば、コナン君もホームズが好きなんだよね」
「うん!ボクホームズ大好きっ!――あ、莉乃さん」
「ん?」

 沖矢さんの車の後部座席にコナン君を乗せ、車は映画館へ向かい始めた。
 最初は運転する昴さんと話していたコナン君だったけど、途中から助手席に座る私に体を寄せる。そして沖矢さんに聞こえづらいように、口を手で覆い顔を私の耳に近づけた。

「奢りなのはさておき、なんでオメーらのデートに付き合わなきゃなんねーんだよ」
「あれ、それ本音だね。……だって2人で出かけるの怖い緊張する、それにデートじゃない、沖矢さんのガス抜き」
「同じ家住んでんのに2人でいるのが怖ェはねえだろ」
「まあ、少なくともデートではありませんね。綾瀬さんには、頼もしいボディガードが付いていますし」

 くくっと沖矢さんが正面を見たまま笑みを漏らす。後ろにいる小学生に振り帰り、ボディガード……と呟くと、コナン君はわざとらしく眉を八の字にして沖矢さんに顔を向けた。

「昴さん、ボクお邪魔ならやっぱり」
「いやいや、こないだのお裾分けのお返しがまだだったからね。これはそのお返しってことにしてくれないかい?」
「分かった……ところで、ホームズの映画って聞いただけなんだけど、どんなやつ?」
「あ、待って、調べるから」

 そういえば、沖矢さんが観たいって言うから何も調べないでチケット買ったんだった。今更ながら、映画の概要を公式サイトで確認する。コナン君は早く言えと言わんばかりに目を輝かせる。

「……『ホームズが』」
「うん」

「『当時不治の病と称された病にかかり、医療技術が発展し、病気が治ればと助手が願いを込め、彼を現代までコールドスリープさせた』……」
「……え」
「『現代で目覚めたホームズ、彼はFBIに保護されながら、現代の難事件に挑む』……なにこれ」
「ねえ、ホームズイギリスから出国してない?」



「なーんか、コールドスリープって聞いた時点で期待はしてなかったけど……」
「もう、そういうの観終わってからね」

 コナン・昴・莉乃の順でチケットで取った席に座り、映画の上映が始まった。
 車内で莉乃から映画のあらすじを聞いてから、コナンのテンションはダダ下がりだ。照明が暗くなっていく中、大きなあくびを1つし、頬杖をつきながらスクリーンをぼんやりと眺め始めた。

「……おっ」

 しかし、あらすじ通りの展開ではあるが、推理要素を物語全体に散りばめた洋画の演出に反応を示し始める。上映開始時点で既に半開きだったコナンの目は開ききり、頬杖をやめ、中盤の時点で拳を作り高ぶりを表していた。
 昴越しに莉乃は、半ば強引に誘ってしまったコナンの様子を何度も窺っていた。スクリーンをまじまじと見つめるコナンの顔を見て、ほっと一息吐く。上映前の“ハズレ映画を観させられる”顔が気になってずっと仕方がなかったのだ。
 不安が1つ解消したことで、莉乃自身も映画鑑賞に集中することが出来るようになった。自宅で捜査官モノの海外ドラマを何本も視聴しているのだ、ホームズだろうが助手だろうが、捜査官に関与していれば、彼女にとっては大体“当たり”だ。

「……まあ、今は良しとするか」
「ん?」
「ああ、気にしないで下さい」

 昴がどのような経緯でこの映画を観ようと思い至ったのか不明だが、自分を挟む2人の楽し気な様子を見て、一応は満足した顔でスクリーンを眺める。ただし、終始組んだ腕が解けることは一度たりともなかった。



「なかなかいい終わり方でしたね」
「あとは自分で想像してねって解釈っぽかったね。ああいうの好き」
「莉乃さん、昴さん、誘ってくれてありがとう!映画面白かったよ!」

 映画の上映時間を終え、3人でフードコートでちょっとした軽食を注文。コナン君は映画のパンフレットも買って、完全にご機嫌だ。私も久々に良作に会えた気がする……DVDが出たらすぐに借りに行こう。
 そういえば、外食自体も久々かもしれない。安上りだから大学にはお弁当持っていってるし、家にいる時は基本作って……

“その日は夕食の支度は不要ですね”
“楽しみです”

 だ、大丈夫だって。妙なこと考えたってコナン君いる状況で何かするわけないし、そんなこと考えるだけ無駄……

「あ、ゴメンちょっと電話」

 コナン君のスマホが鳴り出し、電話に出ようとコナン君は席を一度離れた。数時間振りに、沖矢さんと2人だけになった。
 テーブルを挟んで、沖矢さんを見てみる。まだ映画の余韻に浸かっているのか、笑顔を崩さずにこちらをじっと見てくる。そんなに観たかったんだ……今回はあまりよくない動機で誘ってみたけど、またお金に余裕が出来たら話を振ってみよう。
 しばらくすると、通話を終えたコナン君が戻ってきた。そのまま席に着くのかと思いきや、自分の荷物を手に取ってそそくさと出口へと向かっていった。

「ごめんなさい、博士が新しい発明品試してほしいって……ボク、帰るね!」
「じゃあ、僕が送るよ」
「博士が近くまで来てるから大丈夫!今日はありがとー!」
「ええ!?」

 ちょっとコナン君、ここからが不安なのに帰っちゃうの!?何のために奢ってまで誘ったと思ってるの、これじゃあ映画タダ見させただけじゃん、この力量不足!!

 ――チャリ

「……!」
「では、僕らも行きましょうか」

 沖矢さんは車のキーを手に取り、キーホルダーのリングに指を通し、くるくると回し始めた。指の周りで振り回されるキーとアクセサリーを目で追ってしまう。なんだか沖矢さんに弄ばれているそれが、今後の私の姿を示しているような気がしてならない。
 今まで沖矢さんの車に乗ることは何度かあったけど、それは全部昼の話。夜に乗るのとでは状況が違ってくる。
 お昼から上映時間が3時間の映画を観て、今は……16時。2月の空はこんな早い時間から夜へ移り変わろうとしていた。

「……」

 予想通り、沖矢さんは工藤邸に向かう方向へ道を曲がらなかった。それどころか、東京からも離れる車線に車を走らせている。強引に車から降りようにも気付いたら高速道路に入っていて、降りるタイミングは既に逃していた。どこへ行くのかと尋ねても、沖矢さんは“男1人で行くのもアレなんですよ、何も聞かずに待っていて下さい”と返され、行先は分からず仕舞い。

 ……そもそもこの外出って、沖矢さんを知るためにやってるんだよね。ということは沖矢さんが、私が沖矢さんを知るために必要な場所に連れてってるんだよね?

“僕はその1ヶ月で、結構知れたつもりだったんだが……”

 沖矢さんは私をそれなりに知れたって言ってた。でもそれって、例えば何?沖矢さんだけが一方的に知っている、私のことって。

“綾瀬さんはお店をいくつも回った割に、何も買いませんでしたね”
“なんか沖矢さんの買い物って……付き合ってみたけど面白くなかったです”

 買物の嗜好じゃない。

“おや、海外ドラマよく観るんですか?”
“しかも、こないだ有希子さんを待ってた深夜に観た海外ドラマのシーズン1。沖矢さんきっとハマったな”

 好みの番組じゃない。他に、なにか……

“さすがに大人ですから。仮にわざと入ったとしても、隣の部屋で女性がシャワーを使っているくらいで動揺しませんよ”
“あ、綾瀬さん……今日はまた、前より滴って……”

「っ!?」
「どうされました?」
「あ、ちょっとのどの調子が……」

 結論に辿り着いた瞬間、思わず噴き出しそうになる。誤魔化そうと口を手で覆い、小さな咳を何度もしてバックミラー越しに沖矢さんを見据えた。
 私さえもなんでこの結論に至ったのか、本当にどうしたんだと頭を疑いたい。でも可能性は低いけど絶対にないってわけでもない、だからまずい。
 大人ですから”なんて涼しい反応してたけど、あれから1ヶ月経って沖矢さんの反応は随分と変わっていた。前と同じで何も思ってないなら、私がタオルで体を隠していようがいまいが、あんなこと言うはずない……それに、男1人で行くのに抵抗があるっていうのも、なんだか納得できてしまう、あそこは1人で行くような場所じゃない。

 ――じゃあ、納得してないで車停めた隙に降りて逃げなきゃやばいよ!
 大丈夫、まだ私は落ち着いてる。とにかく、今いるところから工藤邸とまでは言わず、最寄り駅までタクシーで……あれ、財布の中身思ったより少ない?そっか、無駄遣いしたくなかったから、あんまりお金財布に入れてなかったんだ。ICカードも財布の中にあったけど、最後にチャージしたのはいつだったか、もしかしたら電車の運賃すらも入っていないかもしれない。

「それにしても、空が黄昏ていてきれいですねえ」
「ソウデスネー……」

 紫色に変わっていく空の様は、私に手の打ちようがないことを恐ろしいほどに表していた。恐いくらいきれいで、涙出ちゃいそう。



「綾瀬さん、外は冷えるのでコートを着て下さい。あと手袋も」
「え……外、ですか?」

 車が完全に止まったのは、駐車した場所は私の予想から外れた、駅の地下駐車場の中でだった。
 助手席のドアを開けてくれた沖矢さんに頷き、車から一旦降りる。背もたれを倒して今度は後部座席に入り、出かけてからずっと置いていたコートと手袋を手に取って車から再び降り、そのまま外へと足を向けた。

「おや、着なくていいんですか?」
「ちょっと暖房効き過ぎてたみたい……後で着るから」
「確かに耳、赤いですね」
「し、知ってるっ」

 良かった、ただの杞憂だった。そう安心すると同時に、あんなやましい発想までして、勝手に詰んだと思い込んでしまったことが恥ずかしくて恥ずかしくて、顔や耳が火照って仕方がなかった。
 沖矢さんと外を歩くこと10分、やがて見えてきたのは赤レンガ倉庫、赤一色に光るイルミネーション、それに広場に臨時で設置されたスケートリンク。そこは、冬にテレビを点ければ一度は必ず観る光景で、初めて直接目の当たりにした風景だった。
 こんなところまで来たのかとぼおっとしていると、沖矢さんに腕を引かれ、スケート靴のレンタルスペースまで連れていかれた。

「すみません、靴のサイズは?」
「23.5……」
「じゃあ、それと27.5を1組ずつお願いします」
「でっか!」

 レンタルスペースのすぐ隣のベンチに座り、沖矢さんが私の足元にサイズが小さい方のスケート靴を置いていく。沖矢さんは私の隣に腰掛けると、手際よく自分の靴紐を結び始めた。……さっきも思わず声に出しちゃったけど、本当に足大きいな、男性の足って感じ。足だけじゃなくて、手もだけど。

「ところで、スケートは初めてですか?」
「うーん、小さい時にやったような気がするけど……」
「けど?」
「なんっかいい思い出ない気がするんだよねえ」

 思い出したくないのか、思い出せないのか。十中八九、兄が原因には違いないけど、何があったんだっけ。
 思い出そうと考えが巡り、靴紐を結ぶ手の動きが緩くなっていく。すると沖矢さんが私の正面で片膝をつき、私の手から靴紐を奪うとせっせときつく、スケート靴のフックに通して結び終えてしまう。先に立ち上がった沖矢さんに腕を引かれ、私の体は強制的に立たされた。

「僕もあまりやったことはありません。しばらく手摺り伝いに滑ってみましょうか」
「沖矢さんは転んで眼鏡壊さないようにね。帰り運転できなくなっちゃう」

「お、おおぅ……」
「綾瀬さん、もう少し、姿勢よく」
「う、うるさいい……!」

 両手で必死に手摺りを掴みながら、ゆっくり、ゆっくりとスケートリンクを進む。そんな私の背後で沖矢さんはくく、と笑いを堪えながら何か助言らしきことを言ってくる。

「……綾瀬さん、手助けしますよ」
「え、え!?」
「ああ、右手はそのままで」

 しばらくすると、痺れを切らした沖矢さんが、私の背後から左側に移動する。左手を沖矢さんの右手によって手摺りから離され、私は条件反射で沖矢さんの右手を堪らず握り返した。左右に負荷を散らせたからか、さっきより姿勢は随分とマシになった。
 実質、沖矢さんにほとんど引っ張られている状態になり、少しだけ周囲を見る余裕が出来始めた。リンクを滑る周りの人の様子、ビルの照明や街頭で星が見えない日が落ち切った空、イルミネーションの派手だけど柔らかい光、今までテレビで観るだけだった、氷上の景色。その未知の領域に沖矢さんが私を連れてきてくれた、そんな事実にはっと我に返り、思わず握ってしまった沖矢さんの手を今度は離したい気持ちでいっぱいになろうとしていた。

「あ、あのっもう、手離して大じょ……」
「おや、飲み込みが早いようで」
「え、いや、手摺りじゃなくてっ――ちょ、ちょっとっ!!」

 離すつもりだったのに沖矢さんはさっきよりも強く私の手を引いて更にリンクの上を滑っていった。
 靴底にはエッジがあるし、小さい時になんとなく聞いた減速する方法なんてもう覚えていない。もう沖矢さんの思うがまま、大人しく振り回されるしかない。
 体をリンクの中央へと少しずつ移動させていた沖矢さんによって、その内私の右手は完全に手摺りから剥がされていった。
 沖矢さんは私の手を掴んだまま、自分のペースでどんどん加速していく。遅いとは言えない速度で周りの人達の間を起用にすり抜けていく。私はと言えば、周りの人にぶつからないかただただ心配で、沖矢さんと手袋越しに手が繋がっていることに全然気が回らなかった。

「お、沖矢さん手摺りまで戻して!」

 我慢できずに私が必死に叫ぶと、沖矢さんは滑るスピードを少しずつ落としていき、私に振り返った。

「もう疲れましたか?」
「沖矢さん速すぎ!ぶつかりそうで怖い!」
「大丈夫ですよ、そのまましがみついていて下さい」
「しがみついてって、もうほとんど掴まれてるし……――!?」

 沖矢さんが再び加速しようとした瞬間、私は背後から誰かにぶつかった。
 正面へ体が倒れていき、リンクにぶつかる……ことはなく、静かに両膝を着いた。沖矢さんが私の上体をうまいこと支えてくれてたみたいで、大事にはならなかった。

「おう、悪ィな……って」
「いったー……――え」

「莉乃じゃん」
「お兄ちゃん!」

 謝り、手を私に差し伸べてきた相手は、1番上の兄だった。正月以来、全く会っていなかったのにこんなところで会うとは。
 ――スケートをした時のことを、思い出してしまった。このバカ兄、私が小さい時にスケートリンクで転んですごく痛かったのに、リンクの清掃が始まるからとか言ってさっさと外に出たんだ!……思い出すんじゃなかった!

「なんでいるの!?」
「ちょっとここの店に用があったんだよ……アレか、さっきのでかい連れはコレか?」
「ち、ちがっ……というか、お兄ちゃんこそ何?お正月に来た彼女とは終わったの?」

 沖矢さんが私に気を利かせてどこかへ行ってから、兄はにやけながら、沖矢さんの背中を見ながらわざとらしく小指を立ててみせた。……沖矢さんがすぐに離れてくれてよかった、沖矢さんが兄と話始めたら、絶対に後で弄られる。
 沖矢さんの話を逸らすために、私は兄の上着の袖を強く引っ張り、強引に兄の頭を下げさせる。内容が内容だから、目の前にいる彼女らしき人に聞こえないように耳元に口を寄せて小声でその人について尋ねてみる。兄は苦い顔をしながらも私の質問に対して首を縦に振った。

「あー、そんなとこ」
「もう、お兄ちゃんの女性遍歴やばいって。いつか絶対恨まれるよ」
「うっせー」



「綾瀬さん、どうぞ」
「ありがと……」

 兄と別れてから、休憩がてらスケートリンクの外に出て、手摺りに頬杖をついて倉庫に飾り付けられたイルミネーションを眺める。しばらくすると、沖矢さんが紙コップに入ったコーヒーを両手に持って戻ってきた。
 確かあの倉庫の店舗の1つに輸入食品店があったはず、よく店頭で試飲をしているところだ。さすがにスケート靴では入れない場所だから、靴は一度履き直さないといけない。靴紐結ぶの面倒なのに、よくやるなあこの男は。

「いやあ、たまにはこうやって動きに行くのもいいですね」
「それにしたって、いきなり横浜なんて……都内だって出来るところならあるのに」
「たまには食事を作らない日があっても、誰も文句なんか言いませんよ」
「それでこんな遠くにきたの?」
「あと、ここのイルミネーションについてテレビで紹介されていてね。いつもは3色のところを、今日は特別に赤一色にしてあるとか」
「へえ、なんででしょうね?」
「……こういうイベントは、女性の方が敏感だと思ったんですが」
「……あれ、今日14日!?」

 チケットを買う時に日付を確認したはずなのに、今日がバレンタインだという認識が今まで抜け落ちていたことに気が付いた。道理でスケートリンクの内外でもいちゃついている人が多かったはずだ。多分兄も、今の彼女に行きたいとか言われたんだな。
 そういえば今日、バイト交代してって随分と頼まれてたっけ……ちょっと申し訳ないな、帰りにお土産でも買っていこう。

「……」
「……」

 で、この人は私をじっと見て、何を待ってるのか。
 いや、そもそも予想させてくれなかったじゃん。行先だって教えてくれなかったし。仮に期待しているとしても、馬鹿正直にチョコレートをあげればいいってわけじゃない。きっと沖矢さんは受け取らな……

 ――そういう、ことか。

「沖矢さん、そんな見つめたって何もあげませんよ」
「おや、残念」
「あげたってどうせ、“毎日十分、戴いているので”とか言って、受け取らないんでしょ?」
「……実に、残念だ」

 そんなことを口にする沖矢さんの表情は、言葉と異なり穏やかなものだった。
 きっと沖矢さんがほしかったのは、私が沖矢さんのことを“知ろうとした”という事実。沖矢さんならどう思うか、今まで見てきた沖矢さんから少しでも推測しようと努力していることが沖矢さんに伝われば、それで十分だったんだ。それが外れていようがいまいが、それだけで良かったんだ。
 ……いや、まだ1つ残っていた。

「あ、でもこれくらいは貰っていただけると」

 コートのポケットからスマホを取り出し、沖矢さんの目の前でいくつか操作をする。操作を終えると、スマホの画面を沖矢さんに見せつけた。

「おめでとうございます。脱・うさんくさい人です」

 沖矢さんのラインのユーザ名から“(うさんくさい人)”が消えた画面を、本人に見せた。そもそもここに来ることになってしまった原因は、この画面から始まったんだ。
 さっきの件で、沖矢さんの考えを少しでも理解できたんだ。あの名前のまま放っておくのは、私の中で不適切という結論に至った。

「……ありがとうございます。しっかりと受け取りましたよ」
「こんなところまで来ちゃったけど、やっと目的達成できましたね。じゃあそろそろ帰りましょうか」

「いえ、まだ全て達成していませんよ」
「え?」
「夕食の支度は不要、と言いましたよね?実は、駅の近くでアクアリウムが観られる美味しいイタリアンレストランを見つけたんです。ご一緒にどうですか?」
「……いいですよ。もうお店に連絡入れてあるんでしょ?」
「断られると思ってなかったので」
「サラッと凄いことを……」
「でもその前に、もう少しお腹を空かせておきましょうか」
「え、ま、待って!?」

 コーヒーが空になった紙コップを私から取ると自分の分と一緒に潰し、沖矢さんはそれをゴミ箱に投げ入れる。入ったのかどうか確認する間もなく、沖矢さんは私の両手を引くと、再度スケートリンクの中に連れ込んだ。リンクの外へ戻ろうにも、沖矢さんは私の抗議に耳を貸さずにどんどんリンクの中央に進んでいくから遠ざかっていく。
 繋がれた両手はいつまでも離れず、沖矢さんは私に体の正面を見せたままリンクを滑り続けた。

「沖矢さんっ」
「はい」
「バックで滑るの怖くないんですか!?」
「綾瀬さんが知り合いと話している間に何度か試してみました。ちゃんと停まることも出来るので、ご安心を」
「でも、それだと見えるもの変わんなくて、つまんないんじゃないんですか!?」

「つまらないということは、ありませんよ」

「……?」
「……」
「……ぶっ!」

 緩やかにスピードが減速していく。その内止まるんじゃないかと思いきや、その時は思ったよりも早く訪れた。沖矢さんが私の両手を離し、スケート靴のエッジで速度を一気に落としたのだ。
 そのことに気付く前に、私は沖矢さんの胸に思い切りぶつかった。

「そろそろいい時間ですし、行きましょうか」
「……はい」
「すみませんが、動きづらいのでしがみつくのをやめていただけると」
「お、沖矢さんが手を離したからでしょ……」

 どのタイミングかは覚えてないけど、途中から気付いてた。
 映画、イルミネーション、イタリアン。私が雑誌でチェックしていたところ、好みとぴったり一致していた。さすがにそれを見るなとは沖矢さんに言っていないし、言うつもりもなかった。
 沖矢さんが正直に“ここに行こう”と誘っても、私が何かしらの理由を付けて、沖矢さんと行くことを断るのを見越して、沖矢さんは外出先のことを言わなかったんじゃないかな。
 ……どうやって、私に“出かけよう”と言わせるつもりだったのか。それは流石に、今回の件に関しては偶然なんだろう。沖矢さんのユーザ名があんなことになってるなんて、沖矢さんは知らなかったんだから。
 それで、そんなに私の希望ばっかり飲んで、飲み尽くして……

「沖矢さんはどうしたいんですか……」
「なにをだい?」
「……知りません」

++++++++++
謎デート回。
はめられたわけではない、墓穴を掘っただけだ。
ちょっと莉乃さんの毒抜きが必要だったんです←

女性向けの雑誌に目を通す沖矢昴。
というかお前風呂で読んだんかい。
しかし調査に抜かりはなかった。
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