18

 眠れない少年の足取りは、自然と外へと向かっていた。戻ろうとも逃げようとも思っていない。特に何を目的とした訳でもなく、秋の虫の声だけが響く静謐な夜の世界に溶け込んだ。
 偶然にも知っている人間がそこに居たので、うろ覚えの彼女の名前を呼んでみる。

「ユシライヤ、さん」

 じっとその場にしゃがみ込んでいた彼女は、慌てて少年に振り返った。

「どうした、眠れないのか」
「あなたこそ、そんな所で何をしていたんですか?」

 ユシライヤは答えない。少年が黙って近付こうと数歩踏み込んだ所で、彼女に歩みを止められる。その足元には、小さな花が一輪、静かに佇むように咲いていた。少年は知らずのうちに踏んでしまうところだったのだ。

「私の好きな花なんだ」

 顔を綻ばせてユシライヤが言った。今までの彼女を見る限り、そんな風に笑うとは思わなかったので、少年は思わず言葉に詰まった。
 彼女の隣に少年もしゃがみ込んで、その花を眺める。彼の居た森では見掛けた事が無いものだ。

「というより、私の両親が好きだった。不思議な事に、夜にしか花弁が開かない。他とは違うし、小さくて目立たないだろう?」
「ユシライヤさんの、ご両親って……」
「父は私が生まれる前に亡くなったと聞いた。母が今どうしているかはわからない。何処に居るのか、そもそも生きてくれているのかも。それでも、この花を見ると、どこかで二人に見守られている気がする」

 強風に煽られれば、折れてしまいそうな細い茎だ。その存在にすら気付かない者もいるだろう。その命はあまりにも儚い。しかし、種子が蒔かれれば何処にでも花を咲かせる事が出来るのだという。
 少年は、心の底から思ったことを口にした。

「生きてる、絶対に生きてますよ。その花があるなら、きっと、この近くに居ると思います」

 ユシライヤはしばらく黙っていたが、冷たい風が頬に触れて、宿に帰ろうと促した。そして、二人の足音に紛れ込ませるような、彼に聴こえたかどうかわからない位の小さな声で、「ありがとうな」とようやく返した。
 朝日が昇る頃には、身を隠すかのように、その花は自らを閉ざしてしまうだろう。

* * *

「名前! 決まったか!?」

 翌朝、挨拶もろくに済ませないままのエルスの少年への第一声は、それだった。
 対する少年は、期待に満ちた視線に萎縮しながらも、たどたどしく応じた。

「き、決まりました。あの……エニシス、です」

 提示されたその名前を、唸りながらエルスは何度も繰り返し口にする。

「うーん、なんか僕の名前とちょっと似てるけど、まあ長くないし、忘れないだろうし……それでいっか!」
「素敵な名前だね。宜しくね、エニシス」

 エルスの許可が下りて、ターニャも喜んでくれた。その様子を、壁に背中を預けて無愛想にして眺めるユシライヤに、エニシスは近付いていった。

「ユシライヤさん。あなたも、そう呼んでくれますか?」
「まあ、別に何でも良いけど」

 誰かが側に居てこそ、呼ばれてこその名前だ。だからエニシスは今後その名を名乗る為の自信がついた。自分と境遇の似た、小さな花の名を。
 彼は今まで、思い返す事の出来ない過去の記憶を辿ろうとしてきた。それはすぐに叶うものではないだろう。しかし、彼は別の道を選んで辿る事も出来るのだ。たとえその先に繋がる終着の地が、何処であるかがわからなくとも。



_Act 2 end_

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