鏡の少女

 両親に沢山の愛情を受けて大切に育てられてきた一人娘には、一つだけ不満がありました。
 自由に歩けないことです。
 婆やか、爺やか、お庭の兄やか、とにかく誰か大人の人と一緒でないと、外の世界はおろか、住んでいる屋敷の中ですら、歩くことは許されていませんでした。
 家族三人がもて余す位の、大きな屋敷です。娘一人では回りきれず、迷ってしまいます。婆やは大きな台所を、爺やは大きな浴室を、兄やは大きな寝室を、それぞれ案内してくれました。
 しかし、誰も一緒に行ってくれなかった場所があることに、娘は気付いていました。

 下へ続く階段です。
 ロープが張られて、暗く閉ざされていました。娘はその先に何があるのか、気になって気になって、大人の人に問い詰めましたが、誰もが皆、はぐらかしたり、口を閉ざしてしまうのです。
 ですから、娘の好奇心は更に増して、どうしてもその階段を降りてみたくなったのです。


 誰の手も行き届いていない、放っておかれてしまった通路でした。明かり一つありません。
 暗がりの中、娘は悲鳴をあげました。目の前に突然、誰かが飛び出してきたのです。
 娘はうずくまっていました。しかし、相手は何もしてこないので、恐る恐る、目を開けました。

 そこにいたのは、娘にそっくりな少女でした。目も、鼻も、口も、背丈も、そして美しい金髪を彩るように飾られた、蝶のような髪止めのリボンも、娘とまったく同じものでした。
 娘が手を差し出せば、少女も同じようにして手を差し出してきて、二人は手を取り合う事が出来ました。

「あなた、お名前は?」

 娘の問いに、少女は首を横に振って、こう答えました。

「わたしは鏡の中のあなた。あなたの片割れ。あなたを受け止める為に、此処に居るの」

 大人の人としか接してこなかった娘にとって、初めての女の子のお友達です。
 娘は喜びました。本当なら、ずっとお友達と遊んでいたいのですが、部屋に戻らないと、両親に叱られてしまいます。
 娘は彼女にまた会いに来ると約束して、惜しみながら、その場を離れました。


 それからは、誰にも内緒で部屋を抜け出しては、鏡の中の少女に会いに行きました。
 嬉しい時には嬉しい感情を、悲しい時には悲しい感情を、少女は娘と共有してくれました。それは一人娘にとって、家族も知らない、特別な時間でした。

 しかし娘は、ある事に気付いていました。
 鏡の少女が、日に日に窶れていくのです。
 本来ならば鏡とは、自分自身を映すものなのですから、その向こうに見えるものが消えてしまうことは、すなわち自分が消えてしまうことを意味していました。
 娘がそれを恐れないはずはありません。
 自らの死の恐怖に耐えきれず、娘はお庭の兄やに、鏡の少女のことを話してしまいました。
 兄やは優しい人なので、娘の言葉を信じてくれました。君は死んだりはしない、もう怖くなんかないのだと、兄やは一日中、慰めてくれました。


 次の日、娘が目覚めると、母親が何やら怒っています。

「あの庭師だね。勝手にあの部屋に誰かを入れたのは」

 娘は、はっとしました。
 きっと、兄やの優しい言葉に連れられて二人で入った、あの部屋のことです。食べ掛けの林檎と、散らして遊んだ薔薇の花びらを、片付けるのを忘れていました。
 このままでは、自分も疑われてしまいます。
 娘は、兄やが母親に捕まってしまう前に、どこかに逃げてしまおうと思いました。誰もが知らないところへと。誰もが忘れてしまったところへと。


 気が付けば、娘は鏡の前にいました。
 勿論、鏡の少女も、不安そうな顔付きで娘を見つめながら、そこに立っています。

「お願い。助けて」

 娘が少女の肩を掴んでお願いすると、少女は笑顔で頷いてくれました。

「わたしはあなたの片割れ。わたしはあなたの悪い部分を、すべて受け止める為に生まれたの。だって、わたしはあなたの、」

 言いかけて、少女は自らを閉じ込めている鏡を、内側から割ってしまいました。
 破片が体に突き刺さって、娘はその場に倒れ込みました。


 娘がその次に目覚めたのは、自分の部屋でした。
 体はどこも痛くありません。まるで夢から覚めたかのような気分でした。母親は顔をくしゃくしゃにして、泣きながら、娘の無事を喜びました。
 お庭の兄やは、辞めてしまってどこかへ行ってしまったそうですが、娘が母親に叱られることはありませんでした。

 娘はその日の夜、こっそりと階段を降りて、灯りを持って、鏡の部屋へ向かいました。しかし、鏡などはどこにもなく、破片も落ちていませんでした。


 以来、どんな鏡を覗いても、鏡の少女が現れることはありませんでした。
 それでも娘は、鏡に映った彼女とお揃いのリボンで、少女のことを思い出すのです。

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