失敗したな、と思った。
 じくじくと薬指が痛む。少し前取り損なったボールの受け方が悪かったのだろう。当たったときのようなひどい痛みはないものの、慢性的な痛みがある。あのときはすぐ引くだろうと高をくくってそのまま練習を続けたのだが、思った以上に悪かったらしい。
 左手を軽く握って、チッと舌打ちをする。痛むが、耐えられないほどではない。このまま引いていくような気もする。とにかく今日は大丈夫だろう。
 このまま練習を続けようと心を決めたところで、花宮、と名前を呼ばれた。この声は、と思わず肩が震えてしまった。
 振り返ると、離れたところにいる眼鏡の奥の糸目と目があった。思った通りだ。間違うはずもない。気づかなかった振りをしようと思ったが、視線を元に戻す前にちょいちょいと手招きされたのをみてしまった。仕方がないので駆け寄る。
「なんですか、今吉センパイ」
 どうでもいいことだったらバックれようと思っていたのだが、わりと神妙な面もちをしていたのでその考えを改める。珍しいな。いつもはへらへらしてる癖に。
「左手、みして」
 今吉の言葉に体がぎくりとした。思わず左手を隠そうとするが、その前に手首を掴まれてしまう。そうして俺の手をじっと見ると、今吉は少し安堵したような顔を見せた。
「ん、腫れてはないな」
「なら用は済んだでしょう、手、放してください、っわ、」
 いきなり手を引かれて前へつんのめる。それを気にする様子もなくずんずん進んでいく今吉に転ばないよう歩調を合わせる。今吉はそこら辺にいた後輩に、ワシらちょっと保健室行ってくるから、と声をかけてやはりずんずん進んでいく。手を放す気配はない。
 俺は仕方なくそのまま今吉に引かれて保健室まで行った。




「よく気づきましたね」
 ソファに座って薬指を保冷剤で冷やしながら、用具箱を漁っている今吉にそう声をかける。
 養護教諭は出張だかなんだかでいなかった。開いていたのは誰かが使ったまま鍵を閉めるのを忘れてしまったのだろう。不用心だが職員室に行く手間が省けたのでよかったと思っておく。
「まぁなー。なんかいつもと動きがちゃうなぁ思ぉて呼んでみたらビンゴだったってワケや…お、あった」
 テープを手にした今吉がこちらへ戻ってくる。俺の隣へ座ると手を出せと目で要求してきたので、おとなしく左手を差し出す。
「アホやなー、したらすぐ冷やさな。治り悪なるやん」
「…すみません」
 ビッとテープを引き出すと、今吉は俺の薬指の付け根の辺りと指先のほうにぐるりと巻きつけた。
「うわーすぐ謝るとからしくないわー」
 今吉が笑いながら言うのに、うるさいと返して黙る。なんとなく居心地が悪かった。誰もいなくて、二人きりで。そんなことに胸が騒いでいる自分が気に食わなかった。
「でもホンマ気ぃ付けてや?」
 騒ぐ胸を押さえることに集中していた俺はその言葉に我に返る。今吉は迷いなくテープをクロスに巻いていく。
「花宮はうちの要なんやから、抜けてもらったら困るんや」
 じっと俺の指を見つめていう今吉に、俺は思わず目を丸くさせてしまった。
 はぁ。なるほど、ね… 体から力が抜けるような感覚。右手の近くにある保冷剤が触れているあたりが急に痛んだ。
 はっとして慌てていつも通りの表情を作る。テーピングに夢中で今吉がこちらを向いていないのが幸いだった。こちらを向いていたら確実にバレていた。
 そうだ、この人はこういう人だったじゃないか。なにを今更。
 そうした落胆と同時に、襲ってきたのは安堵だった。この人は変わらない。きっと、俺がこの人の中で使える存在である限りはこうしてくれるだろう。
「ふはっ、そうですよね。」
 俺はいつもよりも明るくそう口に出した。皮肉っぽく聞こえればいい。今吉が顔を上げる。それに向かってせせら笑ってやる。
「俺が抜けたら、痛いですもんね。」
 言わなきゃいいのに口が回る。いいながら自分で傷ついているのだから滑稽だ。ばからしい。バカらしい!!
 今吉はすこし考えるように間をあけて、頷いた。
「おん。せやから、気ぃつけてな?」
 その一言に俺はもう喋るまいとぎゅっと唇を固く結んだ。もういい。
 俺がそうして口を閉ざしたからか、今吉も黙った。かちこちと時計の音がやけに響く。今吉は黙ってからはただ黙々とテープをクロスに巻いていた。今吉は俺の指先だけを見ていて、それを俺はじっと見ていた。主に手つきを。
 それからさして時間もかからず、今吉は上と下にテープを一周ぐるりと巻き付けた。そしてテープを持った手を下へおろした。
「できたで」
 今吉の言葉に、ありがとうございますと一応言おうとしたところで、ふいに今吉がテーピングを終えた指に顔を寄せた。そして、ちゅっ、と軽い音。なにが起きたのか本当に理解できなかった。は?と間抜けた声が出てしまったのも仕方がないと思う。
「何ですか、今の」
 訳の分からないままそう問うと、顔を上げた今吉がこちらをみてにこりと微笑んだ。
「まこちゃんがはよ治るように、おまじないや」
 はぁ、と間を埋めるように声を出す。おまじないって、テーピングの上からキ、スする、こと、が?
 ワンテンポ遅れて羞恥がきた。ぶわあっと顔に血液がいく感覚。心臓が早鐘を打ち始める。
 不覚だ。一生の不覚。何だコイツ。どうしてこの人はこういうことを平気でするのだろうか。天然か。そうか。なら死んでしまえ。
 悔しくて、バレたくなくておもいっきり顔をしかめる。そうでもしないと、動揺が表に表れてしまいそうだった。
「うわっ、そんな顔せんでや、冗談やんか」
 俺の顔を見た今吉がぱっと俺の手から手を離す。それに放された手を思わず胸に引き寄せた。すこし、震えている。
「そりゃ、こんな顔にもなります。…てゆーか、まじないとか。子供かよ」
「ん?子供やろ?ワシも、おまえも」
 そういって今吉は俺の頭をぽんぽん叩いた。突然のことに思わずきょとんとした顔をしてしまう。すると今吉は俺の顔をみてわはは、と笑った。
「大事とって今日はもう帰り。みんなにはワシがゆうとくから。あ、悪化しそうやったらちゃんと病院いくんやで?」
 口うるさい親みたいなことを言いながら今吉は立ち上がる。俺はそれに、はいはいと返事をする。するとホンマにわかっとるん?と今吉が怪訝そうにするものだから思わず笑った。
「はいはい、わかってますよ。」
「もー…ホンマちゃんとするんやで?」
 あきれたようにそういって歩き出そうとした今吉の服の裾を、思わず掴む。今吉が振り返る。しまった、と思いつつ手を離した。いかないで、とうっかり口に出そうだったのだ。唇を引き締め直した。
「…ありがとうございます、今吉センパイ」
 珍しく今吉が驚いた顔をして固まった。それに不審な目を向けると、今吉は我に返ったようにいつもの笑みを浮かべた。
「あー…うん。どういたしまして」
 今吉はそういうと、さっさと保健室から出て行ってしまった。そんなに早くここから出ていきたかったのだろうか。まあ、どうでもいいけど。
 俺はなんとなく立ち上がりたくなくて、座ったままその今吉がでていった開きっぱなしの扉をじっと見つめていた。そのまま手首からゆっくり辿って左手の薬指に指を這わせる。皮膚とは違うざらりとした感触。そしてそのまま、薬指をきゅうっと握りしめた。とたんに襲う激しくじくじくするような痛みと、どくどくと血液が流れる感覚。先ほどまでふれていた、そう考えるとそのスピードが速くなるような、痛みがさらに激しくなるような、そんな気がする。
 薬指から手を離して、今度はそこを手をかざして眺める。きれいに巻かれたテープは、しっかりと薬指を固定している。あれだけ手慣れていたんだ、自分にも他人にも、同じように処置を、何度もしたことがあるのだろう。
 ゆっくり、かざした左手を口元へ近づける。白いテープ。薬品のつんとした匂い。どくどくと流れる血液の音。あのときの今吉の顔。声と、言葉と、

(チームの要なんやから)

 ふいにその言葉が蘇ってきて、そこに口付ける前に手をおろした。そうしたら、あのセンパイがいうところの「おまじない」がとけてしまいそうな気がしたのだ。ふは、バカっぽい。
 なんとなくまだ蟠っている気持ちを立ち上がることで振り切る。
 別に特別なことはなにもなかった。俺はただ今吉に突き指の処置をしてもらっただけ。
 そう言い聞かせるように心の中でつぶやいて、俺も保健室から出た。


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