じっとり、ぽたぽた。髪も制服も何もかもをぐしゃぐしゃに濡らしたまま、いっそ憎らしいくらいに微笑むお日さまを仰ぐ。このまま乾いてくれたらいいのになあ、と溜め息をつきながら、思い出すのはつい先ほどの事。
今日はとても暑い日だった。何もこんなに頑張らなくてもいいじゃないか、太陽さんよ……と手を煽ぎ少しでも風を感じていた、サッカー部の帰り道。今日は休日だから、午前から午後、ずっとグラウンドを駆ける羽目になったのだ。そりゃあサッカーは大好きだし、テスト明けで総帥の指導を受けられるのも久々だった。それ自体は嬉しい、嬉しいんだけれど、しかし運動後にこの熱はきつい。 …………そう思っていた矢先の事だったので、これは神様が俺にプレゼントしてくれたイベントなのだろうかとは思うものの。無言で歩いていた俺を襲ったのは、やはりこんなに暑い日なのだから気持ちも分からないではないのだが、……ホースから送りこまれた大量の打ち水であった。
「…謝ってくれたし、仕方ないけどね」
へまをやらかした相手は、よりにもよって見知らぬ人間、しかも(しかも…というよりこっちが本命なのだろうが)着ている制服はあの帝国学園のそれであり、つまりその人間は帝国学園の学生という事になる。その上、突然の出来事にそいつがぽろりと落としたのはサッカーボール。まあ大体察しの良い人間なら、その時点でそいつが帝国学園のサッカー部の人間だということが分かるだろう。そして、思い出す。帝国学園のサッカー部を取り巻く黒い噂を。……全く以て不名誉な事ではあるのだが、現在のサッカー部は歴代できっと一番凶悪だろうと思われるくらいには危険人物が多く、学園の近隣住民には白い目で見られる事もあったのだ。 全て気づいて、顔を青くし必死に謝ってきた見知らぬおばさんの顔を思い出す。今にも頭がぱかりと取れてしまいそうなほどに謝罪の言葉を述べる彼女には流石に俺も強くは言えず、曖昧に笑みを返して早々にその場から立ち去ったのであった。
そんな訳で、このからりと晴れ渡る空の下を俺はびしょ濡れで歩いているのであった。まるで土砂降りの中を歩いてきたかのような自分の姿に苦笑する。しかも、不運に不運が重なって、先程まではあんなに暑く日光が照りつけてきたというのに、今は晴れてこそいるもののそこまで気温は高くなく。ようやっと太陽は今の季節を思い出したのだろう、風が吹き、柔らかな光が射しこめる、夏の終わりに相応しい天気へと様変わりした。 …………本当に、タイミングが悪い。もう少し早い内にこの天気へと変化していたら、俺は暑い暑いと汗を流す事なく、おばさんも打ち水をする事なく、穏やかで素敵な休日を過ごす事が出来ただろうに(神様が俺を虐めているようにしか思えない)。 今では時折やってくる風がたっぷりと水のしみ込んだ制服を容赦なく襲ってくるし、とにかく、寒い。いや、まさかこの時期にこんな寒さを味わう事になるとは思わなかった。
「莢さぁん!」 「…円堂じゃないか。どうしたんだ」 「京ちゃんと遊んできた帰りなんだー」
はあ、ともう一度溜め息をついた俺の名を呼んだのは、前方からにこやかに駆け寄ってきた円堂だった。見ているだけで元気になれそうな笑顔を貼りつけたまま、力なく応答する俺を見上げる。 「今日も制服なんだな」「部活があってね」そう答える俺の異変にやっと気づいたのだろう、
「あれっ、どうしてそんなにびしょびしょなんだ?川にはいったのか?」 「どうしてだと思う」
やっぱそうとしか見えないよな。笑いたいなら笑ってくれ。 首を傾げていた彼は、しかし、不意に訪れた冷たい風にぶるりと体を震わせた。俺も、悪寒を感じて同じようになる。ああほんと困ったな……家が恋しい。
「寒いのか!?だいじょうぶ?」 「……まあ、うん」 「だいじょうぶそうには見えないけどなー!うーん」
「よし、決めた!」と俺を置いてきぼりにして勝手に頷き、円堂は俺の手を掴んだ。「お、おい?」あまりの急展開に、彼に引っ張られたせいでぐらつく体を慌てて落ち着かせる。 「な、何だ?円堂」説明をしてくれなくては分からない、そういった意味を込めて言うと、円堂はさも当然といったように目をぱちくりさせる。
「俺ん家こいよ!」 「は、え、ええ?」 「寒いんだろ?だいじょーぶ!今母ちゃんもいるしさ!」 「いや、いやいや、大丈夫じゃないよ」
全然だいじょばない。 しかし円堂の中では既に決定事項のようで(俺の意思が存在しない)、戸惑う俺におまかいなし、と手を握ったまま走り出す。 困った事に、こうなってしまった以上、猪突猛進な円堂に抗うすべはない。一体どうしようか、と思考しつつ、俺は帰り道を迷わないように(円堂の家の方は行った事がないので、周辺の地図が頭にないのだ)前を見据えた。
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「何が、なんだか」
さっきの打ち水とは別種の水……いや、というか、シャワーを浴びながら、そう呟いてみせるが、そんな俺の呟きに答えてくれるような人間はこの空間には存在しない。さっきまで円堂がいたが、彼は母親に呼ばれ早々に離脱していったのだ。他人の家の風呂に入ってみるなんて体験は俺の人生の中ではきっと最初で最後だろうなあと考えながら、あっという間に駆け抜けていった出来事を一つずつ思い返してみる。
あれから、円堂の歩幅に合わせ必死についていった俺が行きついたのは、彼の、円堂の家だった。至って普通の一戸建てである彼の家とは、これが初対面である。 「ただいまー!」とやはり明るく大きな声で玄関に靴を脱ぎすてる彼に苦笑しながら、続けてお邪魔しますと声をあげると、円堂が駆けていった部屋から彼の母である温子さんがひょいと顔を出したのだ。
「あら、莢君じゃない!こんにちは!」 「ああ、ええと、こんにちは、温子さん」 「……って、あらら?どうしてそんなにびしょ濡れなの?川にでも飛び込んだ?」 「(デジャビュ……)いえ、あの…実は、かくかくしかじかで、え……守君に連れて来られてしまって」 「あらあら、それは災難だったわね」 「母ちゃん!莢さんが風邪ひいちゃう!」
焦れた円堂がそう叫ぶと、温子さんも合点がいったというようにああ、と頷いて、玄関を汚してしまわないだろうかと地味に困っている俺ににこやかに笑いかけてくる。
「莢君!脱ぎなさい!」 「……!?」
…………と、いう訳で。俺は半ば強引に身ぐるみを剥がされ(流石に下着は死守したけれど)、俺の最後の砦であるシャツを引っぺがしながら風呂に入れと仰る温子さんに泣きながらシャワーでいいですからと譲歩しつつ、円堂と共に風呂場へと押し込まれて、冒頭に至る、という訳である。波乱万丈である。今日は水難の相やら女難の相やらが出ているのだろうか、とまた少しだけ泣きたくなった。 体を駆け巡る雫は心地よく、ほっとした。それが唯一の救いだ。……いや、出会って間もない俺にここまで優しくしてくれる温子さんにはとても感謝しなきゃいけないんだけど(勿論、円堂にも)。普通、息子と仲良くしてくれたからといって、年齢も違う男を家に上げて、こんなに世話してくれるものだろうか(と、そう思うのは、俺がそういう普通の体験をあまりしてこなかった事に原因があるかもしれない……などと、嘯いてみる)。
「莢君、着替えはここにおいとくからね」 「えっ、き、着替え…ですか?」
唐突にすりガラスの向こうから聞こえてきた温子さんの声に、そう返答する。着替え、と言われても。
「何、あのびしょ濡れの制服また着るつもりだったの?今洗ってるから無理よ」 「ええ、それじゃあ俺は…」 「ああ、大丈夫大丈夫!替えの服はこっちで用意したから!」 「そんな…でも、申し訳ないです」 「いいって。子供は大人に甘えときゃーいいのよ」
その言葉に、胸がぎゅうっとなるような感覚を覚える。ありがとうございます、と伝えた言葉が、まるで自分の声ではないようなそんな錯覚を覚えた(そんな事、あり得ないのに)。ガラスの向こうの温子さんは笑い声をあげ、ご飯も用意してあるからね、なんて告げて、俺が声をかける前に部屋を出ていく。 「…感謝してもしきれないな」俺がびしょ濡れになったって、風邪をひいたって、彼らには何の関係もないのに。俺なんかの為にここまでしてくれるような義理もないというのに。シャワーを止める。濡れた顔を手で拭い、息をはく。遠くで円堂の笑い声が聞こえて、同じように、温子さんの笑い声も聞こえて、その場にいる訳でもないのに、なんだか俺まで笑みを浮かべてしまう。 ああ、今、幸せかもなあ。
(温子さんと広志さんと円堂とで食べた夕飯はとても美味しかったです) (ただ、連絡をするのを忘れていたので、家に帰ったら母さんや春奈ちゃん達にこっ酷く叱られました) (以上、何だかんだ続いている日記より抜粋)
なんでもないけど笑ってしまう
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