盲目になった彼女

何も見えない世界というのは、一体どんなものだろう。

そんな考えを持ったことは、今まで何度もあった。
だが最近はそんなこと、ずっと忘れていた。考えることなんてなかった。

だってお前の瞳は、いつだって光を灯していたから。
決して爛々と輝くような光ではなかったけど。
やさしい穏やかな光を、いつだって宿していたじゃないか。

なのにその光は、唐突に奪われた。

――何も見えない世界というのは、一体どんなものだろう――

そして俺は再び、そんなことを考える。






「いや〜悪いね修兵〜」
「…謝るな」
「にしても楽だ〜活字を見ないとこうもストレスって溜まらないもんなんだねぇ」
「………」

何ら変わりない、気楽な調子でそう言われ。修兵は書類の束を手に持ったまま無意識に唇を噛みしめた。
だがその正面に座る彼女、露草はそれに気付かない。
尚笑顔のまま、頭の後で手を組んで深く椅子に体を預けている。

穏やかな午後。
空は青い。雲は白い。
だが彼女が、その当然の風景を眺めることは叶わない。

露草の目は、あの日から閉ざされたまま。
二度と、そこに光が宿ることはない。

「それじゃあそろそろ、隊士たちの訓練の様子でも見に行くかな」
「ああ、じゃあとりあえずこの他隊に回さなきゃならねぇ資料だけさっさと持っていってくるから。それまで…」
「はは、心配しなくても大丈夫だよ。もう訓練場までの道はわかってるから、一人で…」
「駄目だ。いいから、待ってろ。すぐ終わるから。わかったな?」
「…はーい」

心配性だなぁ、と露草は苦笑する。
そういった露草の態度が、修兵は気に入らなかった。だから彼女の返事を聞いてすぐ、彼は早歩きで部屋を出た。
そして何も言わず扉を閉め、資料を届けるべき十番隊へと向かう。苛立ちに表情を歪めながら。

露草が視力を失ったのは、今から三週間前。
原因は病だった。
幸い命に別状はなかったが、目に後遺症が残ってしまったのだ。

急に倒れた彼女が四番隊へと運ばれてから入院をし、隊へと戻って来たのが三日前のこと。
もともと要領はいい彼女だから、入院生活中に盲目という生活にも随分と慣れたようだった。
見る”という行為以外に関しては既に、ほぼ今まで通りのことができるようになっている。
だがそれでも修兵は、彼女が気がかりで仕方なかった。

前九番隊隊長、東仙要。
彼もまた、盲目であった。
だが彼のそれは生来のものであり、修兵の知る彼が、盲目である自分に不自由している様子はほぼ見受けられなかった。

そしてそれは露草も同じだ。
視力を失ったとわかったその日も、それから今までも、彼女は自分のその運命を一切悲観しなかった。
最初は「困ったなぁ」ぐらいは呟いていたが、所詮その程度。
本気で困っている風には全く見せないし、当然、嘆き悲しむというようなあって当然であろう感情も見せない。

だが、困らないはずがないのだ。戸惑わないわけがないのだ。悲しまないなんてことはないのだ。
だって彼女は、今までずっと見えていた
彼の人のような、生来の盲目なのではなく。
唐突にやってきた、闇なのだ。

それに対する不安・嘆き・困憊を周りに気取られまいとする露草のあの態度に修兵は憤りを感じ、また、それ以上の悲しみを抱いていた。
自分は未だ、頼るべき対象などではなく、心配をかけざるべき対象なのだと。

「…チッ…」

苛立ちを抑えるため、ぐしゃりと頭を掻く。
とうに十番隊への資料は届けてきた。あとは今目の前にある、この執務室の扉を開くだけだ。
見慣れた扉だ。さしてこの部屋に入ることに今まで戸惑いを感じたことなどなかった。
だがどうしてか今は、この扉がどうにも大きな壁に見えてしまう。
中には露草がいる。帰ってくる自分を待っている。

だがその露草は、以前までと同じ露草ではない。

「修兵?」
「!」

修兵が扉を開けるより先に、部屋の中の露草によってその扉は開かれた。
おどろいて彼はそのまま息を呑む。
閉ざされたままの目が、自分を見上げていた。

「修兵…だよね?」

見えずとも、霊圧を感じることはできている。
わざわざ確認する必要もさせる必要もないだろう。
修兵はそう考えながら、不躾にも程があるほどに、難しい顔でじっと露草を見つめていた。

以前までならそんな、どう考えたって気まずい空気しか生まない行為はできなかった。
だがどうも、相手がわかっていないとなると人間、どんな冒険にだって出れてしまうものである。
アカズの目で、彼女は自分を見上げている。自分も、まっすぐに彼女を見下ろしている。
だがその視線は決して交わらない。どんな空気も生まれない。

「ねぇ、修兵だよね?ここにいるよね?」
「…わかってんだろ」
「ああ、うん、ごめん」

念のためね、念のため。
そう言って彼女はまた笑う。
ギリッと、修兵の口の中で音がした。

「じゃあいこっか」
「…ああ」

さっさと一人で、彼女は歩き出す。
ほんとは隣を歩いて、手を引いてやりたい。抱き上げて移動だっていい。
けれど彼女は、そんな待遇を好まない。
ほんとの重病人みたいだからやめてくれと。

しかしみたいだからと言われたとて、自分にとって十分彼女は重病人だ。
いつ何が起こるかなんてわからない。
出来ることなら、一生自分の目の届く範囲にだけ置いておきたい。
絶対安全な部屋を用意して、そこから出られないようにするのだっていかもしれない。

「…って、何考えてんだ俺…」

馬鹿みたいだ。
だがそんなことを考えてしまうぐらい、自分は彼女が大切なのだ。






そしてそれからまた数日が経ったが、相も変わらない生活が続いていた。

「――以上が報告書の内容だ」
「はい問題なし。じゃあ次お願い」
「…いや、今日はもう書類はない」
「へぇ。なんか最近、書類少ないよね」
「…そうだな」
「まぁ平和な証拠だね。よきかなよきかな」

目の見えない露草の代わりに、隊長業務の諸々の書類はすべて修兵が読み上げる。
はぶくことなどが許されるわけはないので、そりゃもう隅から隅まで。
前隊長の時にも同じことをしていたため彼にとってこれは何の苦もないが、聞く方は聞く方で大変だろうと思う。

それから二人で昼食をとるため食堂へ向かい、いつものように何ら問題なく食事は済ませた。
よくもまぁ閉じられたままの目であそこまで自然に飯が食えるものだと、修兵はいつも感心させられる。
露草の食事は、まるっきり元から見えていなかった$l間のそれだ。
ずっと見る≠ニいう行為に頼っていたのは今の自分とも同じだろうに。やはり並とは違うのが隊長という存在。
(ちなみに修兵は蒼井と同じ状況を体験しようと、一度目隠しをして食事に挑んだことがあったがあまりにも悲惨な結果に終わった)

「あ゛ー。今日もお茶が美味い」
「そりゃよかったな」

そして今、彼女はいつもと同じように、熱々のお茶に舌鼓を打っていた。
つまりいつだって彼女にとっての茶は美味いのだ。

「あ、露草ー檜佐木先輩ー。一緒に飯…って、もう食ったんスか」
「ああレンジくん。あれ、レンジくんにしたら今日は昼休遅いんじゃない?」
「そうなんだよなぁ。今隊長不在だから俺が代わりに隊長業務してんだけど、近頃やたら分厚い書類が多いだろ?もう大変で大変で。隊長っつーのは疲れるなやっぱ」
「…うん、そうだね」

何気なく、そう露草は答えた。
しかし一方修兵は、阿散井の言葉に内心冷や汗を掻いていた。
まずい、と。

「じゃあレンジくん、悪いけど私たちもう行くね。実は書類溜まってんだ」
「ええっまずいじゃねぇか、今日締め切りのやつ結構あるぞ」
「マジかー」
「まぁがんばれよな」
「おう」

修兵は露草の笑顔が怖かった。
元から常に腹が読めなかった露草。
その彼女は、盲目となってから尚、よくわからない存在となっていた。
目というのは本人でなくともこれほどまでに重要であったかと、思い知らされるのだ。

「…修兵」
「………」
「私が言いたいこと、わかるよね?」

隊舎までの道をゆっくりと歩きながら、露草は問う。
その歩みは見えている$l間にしか見えないが、それでも彼女は見えない$l間だ。
本人はいたって慎重であり、一歩踏み込むのでも多少なりの勇気を要している。

「修兵」

そう修兵は、嘘をついていた。ここ最近ずっと。
隊長に通すべき書類を、すべて独断で彼自身が処理してきていたのだ。

だから露草は『最近書類少ないね』などと言った。
だが実際は、阿散井が言うとおり、今までと何ら変わらず隊長が目を通すべき書類は大量にあった。
彼女が知らなかっただけで。

「修兵」

決して、その行為にやましい気持ちなどありはしなかった。
ただ、盲目となって間もない彼女の負担を、少しでも減らしたいと。
そう思っただけだった。
だがそれは、決して許されはしない行為である。

「修兵、ちゃんと返事して」

修兵の前を歩いたまま、振り返りもせずに彼女は言う。
その声には確実に怒気が含まれていた。

「…面倒だった?私にいちいち書類の内容を言わなきゃいけないの」
「………」

違う。そんなんじゃない。
そう言いたいけれど、言葉は頭の中を反響するだけで口から出てはいかない。
今何を言っても、言い訳にしかならないような気がした。

「…修兵のことは信じてるし、怒ったりはしないよ」
「………」
「…でもね、もうそれはやっちゃ駄目だ。お願いだから、私の仕事は私にさせて。修兵が手伝ってくれないと何にもできないけど、それでも私は、私のやるべきことを真っ当したいから」

怒気はどんどん消えていった。
そして残ったのは、隠しきれない悲しみの色。

修兵は己の行為を悔いた。
よかれと思ったことが、完全に裏目に出た。
自分が露草を悲しませた。

「…ねぇ、修兵」
「……」
「…修兵」
「……」
「…修兵…?」

ばっと露草が振り返る。
条件反射で修兵は思わず立ち止り、噤んでいた口にさらに力を込めた。
だがその口は、彼女の顔を見た途端いとも簡単に開かれた。

「露草…?」

ずっと閉じられていた彼女の目が、開いていたのだ。

見えてなどいないのに。
久方に見る漆黒の瞳は、まっすぐ修兵を捉えていた。

「いる?いるよね、修兵」

聞かずともわかるだろうに。
何か焦ったように修兵を見上げる彼女は、フラフラと彼に歩み寄りながら手を伸ばしていた。
無意識に、彼はその手を取る。
そして、ぎゅっと強く握り返されたことに驚いた。

「…露草?どうしたんだ」
「ううん、いい、いるなら、いいんだ。ごめん」
「…俺が返事をしなかったから…?」
「っ……」
「…悪い」
「違う、違う、から…いいんだよ、あ、あははごめんね、私足手まといにしかならないようなやつなのに、わけわかんないことまでしちゃって。ほんと頼りなさすぎるヤツで、嫌になるよね。そりゃこんな私じゃ必要なんかないよ、わかるわかる」
「…露草…」

嗚呼俺は…こんな彼女を知っている。
いろんなものに押しつぶされそうになって。必死に耐えようとするこの姿を。

…不安な気持ちも悲しみも、全部ひた隠しにしているのだろうとはわかっていた。
そうわかっていた。
わかっていた、はずだった。

だけどそれでもどこかで修兵は、露草なら大丈夫、と根拠のない何かを抱いていたのだ。
それが、彼の視界に霞みを掛けた。
 
「悪い…俺は、露草の負担を増やしたくないとか思いながら…結局何も、お前のこと…」
「………」
「目が見えないなんて、何をするでも大変なことだらけだろうし。お前はそんなの全然感じさせねぇけど、ショックだったろ。だから俺は、お前の気負う負担が、小さければ小さいほどいいと思った。でも俺が考えてた事ってのは、きっと…ほんの小せぇことでしかなかったんだな」

生活が大変だとか不慣れは精神的にくるだろうとか、そんなんじゃなくて。
俺が一番考えるべきことは、彼女の心についてだったのに。
隠されていた不安の大きさに、俺はどうして気付けなかったんだろう。

俺の声が聞こえないだけで、彼女は不安を感じるんだ。
そこにいる、というのはわかっているはずなのに。確かめずにはいられなくなるほど。
不安で不安で仕方ない毎日だったんだ。

なのに俺は、その不安をさらに広げさせるようなことばかりして。
大切なんだと言いながら、結局は。

――――なんて俺は馬鹿なんだろう。

修兵は力強く、焦点の合わない瞳を彷徨わせる露草を抱きしめた。
戦闘訓練などの参加も自主鍛練も控えるようになっていたその体は、幾ばくか筋肉が落ちていて。
この小さすぎる体は、いつ崩れ落ちたっておかしくないほどに弱っていたということに、今更気付かされた。

己の未熟さに唇を噛みしめる。
何が頼るべき対象だ。到底そんなものになれるわけがない。
そんなことに苛立ちを感じていたなど、なんと自信過剰なことか。

「露草、俺はお前が必要だ」
「――っ」
「足手まといだなんて、思ったことは一度もない。目が見えようと見えなかろうと同じ事だ。俺はずっとお前の傍にいる。ただ今まで以上にお前を支えられるように頑張る、それだけだ。」
「修…兵…」
「悪かった、ずっと、ちゃんとお前のこと考えてやれてなくて。不安にさせて、ごめん」
「…ううん…ううん…」

修兵を抱きしめ返して、その胸に顔を埋めて彼女は涙を流す。
視力を失くすというショックな出来事からも一度も流したことのなかったそれは、今、すんなりとその両眼から零れ落ちた。

それは彼女が、自分の運命を初めて正面から受け止めた証拠だった。



(なぁ露草)
(なに?)
(俺がお前の目になるよ)



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あとがき
こちらはリクエストをいただいて書き上げた作品でした。
ミク様リクエストありがとうございました。

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