あかいろ
三月

3月1日。
森ノ宮学園は無事卒業式を終えました。
校舎のいたるところで生徒たちが互いに別れを惜しみ、涙しながら言葉を交わしています。

そしてそれは保育ルームでも同じでした。

「ユメ、もう゛おで、ユメに、あえ゛な゛い…?」
「ううん、会おうと思えばいつでも会えるよ」
「ほんどに…?」
「ほんとほんと。ほら泣かないでー」

鷹くんにお別れの挨拶に来たユメちゃんに、鷹くんがすがりついて泣いていました。
それにユメちゃんが困っていると、他の子どもたちも寄ってきて鷹くんを慰めるようによしよしし始めました。
その光景に対する感動と、お別れの寂しさからユメちゃんの瞳にも涙が滲みます。

「次のクリスマス会には、また歌いに来てもいい…?」
「もちろんだじょ!」
「ぜひきてほちぃでちゅわ!」
「「うん!」」
「…う(コクコク)」

それからユメちゃんは、クリスマス会のお礼と卒業のお祝いにということで、みんなが描いた花束の絵を1枚もらいました。
そこでユメちゃんは涙を堪えきれなくなりました。

「ありがとう…大切にするね」

卒業式でも、最後の先生の言葉でも泣かなかったのにな。
自分がここの子どもたちに見送られる未来なんて想像したこともなかったと、ユメちゃんは涙を拭いながら、子どもたちを抱きしめました。

「おいユメ、そろそろいいだろ。次こっち」

保育ルームの入口に狼谷君が待っています。
それを見て、ユメちゃんが去ってしまうとわかった鷹くんは再び泣き始めてしまいました。

「い、いやだ!おでまだユメといりゅ!」
「もういいだろ、俺もこいつと話があんだよ」
「にーじゃばっかりずるい!おでも!おでもおおおおおおおおおおお!!」
「あーもううるせーな」

今にも狼谷君の拳骨が鷹くんに降ってきそうでした。
ユメちゃんは苦笑いして、自分の服を掴む鷹くんの手をそっと握ります。

「鷹くんごめんね、私もお兄ちゃんに大事な話があるんだ。絶対また鷹くんにも会いに来るから、今はちょっとお兄ちゃんと二人にさせてもらえないかな?」

鷹くんは喉をしゃくりあげながらも黙ってちゃんとユメちゃんの話を聞いていました。
涙をいっぱいに溜めた目が悲しげに歪みます。けれど鷹くんは握られた手をぐっと握り返して、「…わがっだ…」と頑張って頷いたのでした。
その健気な姿にユメちゃんの胸がきゅっと締め付けられます。

「…ありがとう、鷹くん。大好きよ」

やさしくそう告げるとユメちゃんは鷹くんの額に小さなキスを落としました。
するとそれまで悲しみでいっぱいだった鷹くんの目が驚きに染まります。

「鷹くん、あの裏門で、ずっと一人で待つだけだった私を見つけてくれてありがとう。」

中学から続けたバンド。高校進学して離れた仲間を、一人で待ち続ける放課後。
ただぼうっとするだけだった二年。変化が訪れたのは三年目。それはそれまでの二年とはまるで違って、ただ時が経つのを待っていただけの時間が宝物に変わっていく毎日。
すべては鷹くんと出会ったあの四月の日から始まりました。

「あそこで鷹くんと過ごした時間、とってもとっても楽しかったよ。私の一生の宝物だよ。」

小さな彼にはまだわからないでしょう。ユメちゃんが本当にどれだけ彼に感謝しているか。
それでもいいのです。わからなくてもいいのです。伝えずにはいられなかっただけですから。

けれど鷹くんだって、その重みは測れずともとても嬉しいことを言われたのはわかります。
そしてユメちゃんのやわらかな微笑みにつられて頬を赤く染め、瞳に涙を溜めながらも照れたように笑うのです。

「…おでも、いっぱいたのしかったじょ。」

こうして無事、二人は笑ってお別れができたのでした。



それからユメちゃんと狼谷君はいつもの裏門の花壇へと移動しました。
もう何度二人で過ごしてきたかわからない思い出の場所。
卒業式後といえど今日もここは人気がなく、さわさわと風に揺れる木々が微かな音を立てるばかりです。

「…本当に三年だったんだな」
「え、疑ってたの?」

卒業生だけが付けるピンク色の花がユメちゃんの胸元にも咲いているのを見て、狼谷君は呟きました。
疑ってたというよりは、そうじゃなかったらいいのにというほんのわずかな願いが潰えた残念さからこぼれ出たものですが、ユメちゃんは「間違いなく今日卒業しましたよ〜」と笑っていました。

「留年すればよかったのに」
「ひど!」
「冗談だ」

半分本気だけど、なんて本音を伝えれば怒られるのは目に見えているので黙っておくことにした狼谷くん。
花壇に腰掛け、ここで二人で過ごした毎日に思いを馳せました。
部活前のほんの少しの時間。歌を聴いたり、おしゃべりをしたり、おやつを食べたり。いつしか当たり前になっていたそれは、もう二度と訪れることのない時間です。
明日からユメちゃんはもう、この学校にはいないのですから。

たかが毎日数分、隣に座っていただけかもしれません。
だけどその時間がユメちゃんにとって宝物であったのと同じように、狼谷くんにとっても唯一無二の大切な時間だったのです。
ユメちゃんがたくさんの歌を教えてくれるから、狼谷くんはよく音楽を聴くようになりました。
そしてそのうち、好きだなと思う曲をみつけました。
初めてユメちゃんにそれをリクエストをした時のユメちゃんの喜びようと言ったら。「この曲いいよね」と嬉しそうに目を細めるユメちゃんを、狼谷くんは昨日の事のように思い出せます。

狼谷くんが好きだなと思った曲は、ユメちゃんの声にとても合っていました。
原曲よりもユメちゃんが歌うその曲の方が好きかもしれない、なんて。そう思った時に気づきました。
自分がいつも「あいつがこれを歌ったらどんなだろう」と考えながら音楽を聴いていたこと。
つまり狼谷くんは、彼の好んだ音楽がたまたまユメちゃんに合っていたわけではなく、ユメちゃんに合いそうだなと思った音楽を、好きだと感じるようになっていたのでした。

音楽というのは意外にも身近に溢れているものだと、ユメちゃんと出会ってから狼谷くんは気が付きました。
意図して聴こうとしなくても、テレビのCMにもコンビニの店内BGMにも、鷹くんの大好きなヒーローショーにも、たくさんの音楽が使われていて…以前までは耳を素通りしていたそれらが、今の狼谷くんには聴こえます。そしてその度にユメちゃんのことが頭をよぎるのです。
この歌は好きだろうか。難しいのだろうか。この歌をあいつが歌うのを聴いてみたいな。

この音楽が溢れる世の中で、音楽に触れる度にユメちゃんを思い出すなんて、想像するだけでとんでもない頻度になります。
ただ毎年クリスマス会で会うだけの彼女にそんな思いを馳せ続けることになるなんて、狼谷くんからすればまっぴらごめんです。
それこそユメちゃんの願いが叶って無事バンド活動が再開して、ライブなんかに行けるようになったとしても、ただのいちファンとして彼女の歌を与えられるだけなんて耐えられません。
だってもう、独り占めの味もリクエストの味も知ってしまっているのに。

ユメちゃんに告白を断られ、狼谷くんもああ言った手前、一応はこの先について考えてみました。
だけど考えても考えても、ほかの答えになんて行き着きません。

「なぁ、ちゃんと考えたけどやっぱり何も変わらねぇよ。あんたとの関係をここで終わらせるなんて絶対イヤだ」

自分の進路なんてものもまだまだわからない。
プロの選手を目指すかもしれないし、目指さないかもしれない。
もうすぐ二年になるのに、まだ何も決まっていない。
そんなあやふやで不明瞭なものに、彼女が邪魔だと思う日なんてくるものか。

「あんたは俺に、もっとしっかり先のことを考えろって意味でああ言ってたのかもしれないけど、そもそもこの先の生活にあんたがいなくなることが考えられない」
「狼谷くん……」
「そもそももう明日から、ここにあんたはいないんだ。……だからせめて、その気になればいつだってあんたに会えて、歌が聴けて…ついでにたまにはリクエストもできる、そういう約束が欲しい」

狼谷くんの真っ直ぐな目に捉えられて、ユメちゃんの心臓はどくどくと激しく波打ちました。
全ての言葉が嬉しかったし幸せでした。
だけど狼谷くん、遠距離恋愛の大変さ、全然わかってないでしょう。なんて心配と不安が顔をのぞかせるのもまた事実です。
けれどユメちゃんは決めていました。
一度は狼谷くんのためと思って身を引く覚悟をしたけれど、もしそれでも諦めないと言ってくれるなら、今度は自分に素直になろうと。そう決めていました。
ユメちゃんは狼谷くんの瞳を見つめながら、やわらかく微笑みます。

「全部約束したいけど、やっぱり遠いから電話ばっかりになるかも。それでもいい?」
「よくないけど、仕方ないからいいってことにする」
「もう。そういうことになるから、私なんかやめといた方がいいって思ったのに」
「けどあんたじゃなきゃ意味ねーんだから仕方ないだろ」

どきりとユメちゃんの心臓が一際大きく高鳴ります。
このままでは心臓が破裂して死んでしまいそうだ。それはなんて幸せな死だろうかと、らしくないことまで考えてしまいました。

「ていうかそういうのじゃなくて。ちゃんと聞かせろよ、あんたの気持ち」

もう答えなんてわかっているはずなのに狼谷くんは真剣な面持ちで。そんな構えなくても、と思いつつ、その真剣さがユメちゃんは嬉しくなりました。
ああ、狼谷くんのこういうところ好きだな。
ユメちゃんが狼谷くんの手をきゅっと握りました。

「私も狼谷くんが好きだよ」

そう言えば狼谷くんの笑顔が見られるかと思ったのに、なぜか彼が不服そうに口を曲げたのでユメちゃんは驚いて目をぱちぱちさせます。
そして何かと思えば

「鷹は『大好き』なのに俺はただの『好き』か?」

と、妙に小さなことで拗ねているらしいのです。
これはちょっと意外だったなぁとユメちゃんは呆れつつも少し笑ってしまいました。

「狼谷くんも大好きだよ」
「……隼」
「ん?」
「鷹だって『狼谷くん』だ」
「今更……はいはい、わかったよ隼くん。私も隼くんが大好きなので、これからよろしくお願いします」

ここでやっと狼谷くんの顔に笑みが浮かびました。
やっと安心できたとでも言うように息をついてユメちゃんの頭に手を置くと、屈んでおでこをこつりとぶつけます。

「…俺には?」
「へ?」
「俺にはねーの、キス」
「え、ええ!?……い、いる?」
「いる」
「もう……なんでさっきから無駄に鷹くんに張り合うんだか……」

あんなに小さな弟に嫉妬してどうすんだと思うものの、けどこんなところも可愛いなぁなんて。気がつけば知らないフリなんてできないぐらいに膨れ上がった好きの気持ちが、気を抜けばにやけ顔になって溢れそうになるのをユメちゃんはなんとか堪えます。
そして馬鹿みたいに真剣な顔をした隼くんのまっすぐな瞳から目を逸らしつつ、照れくささに頬をほんのり赤く染めながら、鷹くんにしたのと同じように、隼くんの額にもちゅっと小さなキスを送りました。

ニッと満足そうに笑う隼くん。けれどふと、「鷹とまったく同じじゃあちょっとな」と呟いて。
ユメちゃんの熱を持った頬に手を滑らせて、唇を重ね合わせました。
顔が離れた時にはユメちゃんの顔は真っ赤っか。

これはきっと、俺だけに見せるやつだ。

欲しかった。『みんなの』ではない、自分だけのそれが、ずっとずっと欲しかった。
ユメちゃんが知れば気味悪がるだろうかと心配になるほどの独占欲。
隼くんはずっと秘めてきたそれが堂々と顔を出して準備運動を始めたのを自覚しつつ、ユメちゃんの潤んだ瞳に吸い込まれるようにもう一度顔を寄せたのでした。

世界には何度だって春が来ます。
出会いと別れを繰り返して、これから二人に訪れるのは、これまでとは全く違った新しい春です。



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