あかいろ
二月

ある日の夕方、狼谷君は日課のランニングで駅前を通りかかりました。
すると何やら聞き覚えのある歌声が聞こえてくるではありませんか。
狼谷君は驚きつつもその声の方へ向かいます。

少しの人だかりの輪の向こう。
いつものギターを手に歌を歌うユメちゃんの姿がありました。
いつも放課後のあの裏門で、何度も聴いた歌とギターの音。たった数ヶ月前のことなのに、なぜだかとても懐かしく感じます。
歌っているユメちゃんはやっぱり生き生きしていて、きらきらした笑顔には思わずつられて笑みをこぼしてしまうと同時に胸を焦がしました。

歌い終わって大きな拍手を受けたユメちゃんが方々に頭を下げます。
その時ふいに狼谷君とユメちゃんの目が合いました。
ユメちゃんは驚いてか一瞬固まってしまっていましたが、すぐに笑って「ありがとうー!」と。
自分に向かって叫ぶものですから狼谷君はほんの少しだけ照れてしまいました。



「路上ライブなんて余裕だな。いいのかよ、勉強は」

一通り演奏を終え、観客も散った広場で片付けをするユメちゃんの傍で狼谷君は尋ねました。

「昨日やっと前期試験終わったんだよ。まぁ後期の勉強もしなきゃだけど…一区切りついたしちょっと息抜きにね」
「そっか、おつかれ」
「ありがとう。狼谷君も暇なら声かければよかったな。でもたまたまみつけてもらえるなんて超ラッキー」

ユメちゃんはケースに入れたギターを背負って、その他の荷物を入れたカバンを肩にかけます。
そのカバンには狼谷君がプレゼントした合格お守りが結ばれて揺れていました。

「先月の御祈願とこのお守りのおかげかな。共通テストも前期試験も結構うまくいったよ」
「そりゃよかった。そういや第一志望ってどこなんだ?」
「東京の音大だよ。音楽療法の勉強をしようと思って」

狼谷君は息を呑んで思わず立ちつくしました。
ここからだと新幹線に乗らなければならない距離です。

「東京…?けど春になったらバンド再開するって…」
「うん。みんな東京の大学受けてんの。だから東京で再開出来たらいいなって思ってる」

そうです。春になればまた気兼ねなく会えるような口ぶりだったので、そんな遠くに行くつもりだとは思いもしなかったのです。
狼谷君は次の言葉が出てきませんでした。

「…私、音楽は大好きだけど歌もギターも、プロになれるほどじゃないってのは自分でもわかってたの。だから大学はもともと、どっか近所で適当に入れそうなとこ入るだけのつもりだった」

無言の狼谷君に困ったように笑いかけ、ユメちゃんは適当な壁に背を預けて、ぽつりぽつりと語り始めました。

「けどね…鷹くんや狼谷君とあの場所で過ごした時間がほんとに楽しくて。もともと音楽に興味無さそうだった狼谷君が興味持ってくれるようになったり、私の演奏で喜んでくれるのがうれしくて。プレイヤーにはなれないにしても、音楽と関わって生きていくことはやっぱり諦めたくないなって思うようになったの」

ユメちゃんはまっすぐに狼谷君を見つめます。

「それで本当に進みたい進路や行きたい大学を見つけてからは、これから先の人生が今までよりもっともっと輝いて見えるようになったよ。だから狼谷君には本当に感謝してるの。…今までありがとう」

それを聞いた狼谷君の心境は複雑でした。
彼女の人生の転機になれた幸運を、光栄だと思いこそすれ、素直には喜べないのも確かなのです。

しかもそんな、別れの言葉ともとれるような感謝の言葉を取ってつけたりして。
狼谷君にはわかりました。ユメちゃんは自分を牽制しているだと。余計なことは言うなと先に伝えているのだと。
確かに彼女を困らせるのは狼谷君も本意ではありません。
けれど、

「俺、ユメが好きだ」

今ここで言わずに後悔することだけはどうしても受け入れられませんでした。

「あんたが卒業して、ここから離れるんだとしても…まだ俺たちの関係は終わらせたくない」
「…ありがとう。とっても嬉しいよ」

嬉しいと言いながらもユメちゃんはなぜだか悲しげに笑っていて、瞳にはうっすらと涙が滲んでいるように見えました。

「東京、遠いよ?」
「だからって別にあんたを好きじゃなくなる理由にはならない」
「…そりゃ会えない距離なわけじゃないけど…狼谷君、野球でプロとか進学とか狙うなら二年生って大事な時期じゃん。近くで支えてくれる彼女ならまだしも、私なんてきっと邪魔になるだけだと思うよ。だからさ…」
「…なんだよそれ…まずあんたの気持ちはどうなんだよ」

狼谷君にはそれがユメちゃんの本心なのかどうかもわかりませんでした。
ただ、涙をこらえるような様子で、急に視線が合わなくなったユメちゃんを見ていると、単にていよく断られているだけのようにも思えないのです。

「私は…私に夢をくれたのが狼谷君だからこそ、君の夢の邪魔だけは絶対にしたくないって思うんだよ」
「…邪魔になるかどうかなんてわかんねーだろ」
「けど…!…私も新しい生活が始まったら、どこまで狼谷君を優先できるかなんてわからないし…」

少なくとも悪く思われているわけではないのです。
けれどユメちゃんにも譲れないものがあるようでした。
狼谷君は大きな溜息をつきました。

「…わかった。お互い冷静になって改めて考えようぜ」
「へ…?」
「俺もあんたの言い分含めてもう一度考える。あんたも考えろ」
「え、あの」
「で、その結果は…じゃあ卒業式の後で発表ってことで」
「は?ちょ…」
「うだうだ言わずに考えろよ。本当にここで終わらせるのかどうか」

真っ直ぐな視線に射すくめられ、ユメちゃんは静かに頷いたのでした。

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