また、ここで 8


湿った風が頬を撫でていく。
もうすぐ夏だけれど夜の6月末は過ごしやすい気温だ。

「今日は本当に楽しかった。ありがとう、捺くん」

静かな夜の空気に、まだ今日は終わってないけどどうしても言いたかった。
病院で目が覚めたとき見知らぬ人たちに囲まれて。
ついさっきまであった現実が過去のものだと知らされて。
大人になっていた実優の心配そうな泣きそうな顔を見ると罪悪感に駆られて。
仕事だって今週は休めるようにしてもらったけど長くは無理だろう。
でも記憶をどうすれば取り戻せるかわからない。
焦燥感にとらわれていたけど、今日捺くんと過ごしてすごく心が軽くなっていた。
なにも解決したわけじゃないけど。
ただ、俺の存在を認めてもらえてるっていうことが一番安心できた。

「俺も楽しかったよ。可愛い優斗さんいっぱい見れたしね」
「可愛いって……。それ男に言っても」

照れてどうすると思いつつ、むず痒さに視線を泳がせると捺くんが楽しげに声をたてる。

「俺も昔よく言ってたな。優斗さん俺のこと可愛い可愛いっていうから」
「そうなんだ。でも捺くんは実際可愛いし」
「まあ否定はしないけど、優斗さんの方が可愛い」
「いや、俺は可愛くないって、捺くんが可愛い」

絶対、と勢いよく言って捺くんと目が合う。次いで同時に笑った。
男同士でなに可愛いって言い合ってるんだろう。

「捺くん」
「なにー?」
「33歳の俺ってどんななの?」
「優しいよ。カッコいい。たまに可愛い」
「……そんな褒められるほどなの? 自分のことだからやっぱりちょっと照れくさいな」
「いま俺の目の前にいる優斗さんも優しくてカッコよくて可愛いよ」
「……」
「俺ね」

笑みをたたえた目が、柔らかかく、そして真剣さを帯びて俺を見つめる。

「優斗さんのこと、好きなんだ」

言葉が俺の内側に入って飲み込まれるにつれ、顔が熱くなっていくのを感じた。

「……あ……りがとう」

赤くなって照れるとかバカじゃないんだろうか。そうは思ってもどうしようもなくて掌をで頬を擦る。

「恋愛的な意味でね」
「うん……えっ?」

恋愛的、って。
一気に頭の中が混乱した。恋愛的、恋愛。

「え?」
「俺、優斗さんのこと好きだよ」

驚きすぎてなにも言えない。
だって俺も捺くんも男だ。それに実際俺たちは一回りも歳が離れている。

「ごめんね。記憶障害で優斗さんがきついときにこんなこと言って。でも言いたかったんだ」

穏やかな口調で視線はまっすぐ俺へと向けられたまま。

「俺が優斗さんのこと好きって知ってて欲しかったんだ」
「……でも、俺記憶がないのに?」

捺くんが好きなのは大人の俺。
言いながら、ふと33歳の俺は捺くんが自分のことを好きだと知っているんだろうかって気になった。
こんな風に捺くんは告白したんだろうか。
そのとき"俺"はどうしたんだろう。

「記憶ないからこそ言っておきたかった。だって優斗さんは優斗さんだし。記憶が21歳のときになったってだけで、全然変わらないよ。ああでも可愛いさはいまの優斗さんの方が大きいかなー」
「……可愛くないって」
「可愛い」

譲らなさそうな捺くんにひっそりため息をつきながら、少しだけ視線を逸らした。
33歳の俺は―――捺くんとどう接してたんだろう。
一回りも年下の男の子と付き合ったり……しないよな。
でも捺くん可愛いし。でも、歳の差あり過ぎだろ。
いまの俺だったら同い年だし。
そこまで考えて自分の思考に唖然として一層顔が熱くなる。
なんでこんなにドキドキしてるんだろう。
心臓の動きが速くて、緊張して、やっぱり33歳の俺のことが気になる。
だけどそのことを聞くのが怖かった。
もし、捺くんを振ってたら。
いまの時間が崩れそうで、もったいなくて。

「俺の気持ちだけ、知っておいて」
「……うん。……あの、俺……捺くんのこと好きだよ」

恋愛的な、かはわからないけど。
と付け加えてしまったけど言えば、捺くんは「まじで? やった!」と無邪気に笑う。
それにつられて俺も笑って、ドキドキして俯いた。
わからない、と言いながらいまだかつてないくらいにドキドキしてるこれはなんなのか。
でもいまの俺はまだ捺くんと知り合ったばかりだし。
捺くんは知っていてって言っただけだし。
ぐるり、ぐるり、と思考が空回りする。
しんと沈黙が落ちて、頬に水滴が落ちた。

「雨?」

捺くんが真っ暗な空を見上げる。
ぽつぽつと確かに雨が降り出していた。

「雨も降ってきたことだし、そろそろ帰ろうか。もう11時過ぎてるしな」

スマートフォンで時間を確認しているのを横で見て―――、液晶に映し出された数字を見て、何かが。

「本当は日付変わる前には送り届けたかったけど。実優ちゃんたち寝てるかな。松原は起きてるか」
「……鍵預かってるから大丈夫」
「そうなんだ」

捺くんが立ち上がる。
ドキドキしていたのが、なにか色を変えて鳴っている。
何かが引っかかって苦しい。

「帰ろう。優斗さん」

捺くんが一歩足を踏み出して、俺はその腕を掴んだ。
思いがけず力が入ってしまったせいで捺くんはふらりとベンチに戻った。

「優斗さん?」
「……あの」

なんだろう、なにか。
頭の中で掴めないなにかが勢いよく回転してて必死に手を伸ばす。
でもわからないまま、

「―――……おめでとう、捺くん」

そう、口をついて出ていた。
捺くんは目を見開いて今日一番綺麗な笑みを浮かべた。

「ありがとう、優斗さん」

きらきらした満面の笑顔。
本当に綺麗で、俺は捺くんの腕を掴んだまま見惚れた。
視線が絡んでも、目が離せない。
ただ気づいたら距離が近づいていた。
至近距離で見つめた捺くんの睫毛が長くて瞳が綺麗で、ゆっくりと落ちていく瞼の動きさえ綺麗に見えて。
ギリギリまで開いていた目を俺も閉じ―――そっと唇にぬくもりが触れた。


***

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