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その3(終話)


「バスタオルはそこ、ドライヤーはこっちにあるから好きに使ってね」
「う、うむ」
 速水が出て行くと、舞は服を脱ぎ始めたが、ふとそこで手が止まる。
 ――私は、私は一体どうしたらいいのだ?
 熱いシャワーも、彼女の迷いを洗い流してはくれなかった。
 一方、速水はというと、ソファーに腰掛けながら厳しい表情で宙を見つめていた。
 ――どういうことだ? 偶然とはいえ持ってたのはよかったけど……。いや、あんなバッグ、舞は持ってたっけ? ということは……。
「偶然じゃ、ない……?」
 ある意味意外な結論に、速水は苦笑と共に首を振る。
「まさか、ね。……でも、もしかしたら。いや、まさかなあ。第一、もしそうだったとしても」
 速水は身を起こすと、力なくつぶやいた。
「だめだ。それは、だめだ……。くそっ、なんでこんなに心が騒ぐ? お前には珍しくないことだったじゃないか、なにを今更……」
 だが、胸の中に沸き起こった慕わしさと昏い情熱は、混交したまま容易には収まりそうになかった。

   ***

「出たぞ」
 考え込んでいるうちに、かなりの時間が経っていたようだ。背後からの声に速水は振り返り――視線が釘付けになってしまった。
 舞は濡れた髪をタオルで拭きながら、悠揚迫らぬ態度で立っていた。少なくとも速水にはそう見えた。
 速水のパジャマは確かに大きかったが、大きすぎるというほどでもない。せいぜい袖が少し長いくらいだ。そのせいか、どことなく幼なげな印象があった。
 湯上りの上気した頬は桜色に染まり、まだわずかに濡れている髪が輝くのとあいまって美しかった。
「厚志?」
 声をかけられて、相当に自分が呆けていたのに気がついた速水は、慌てて居住いを正すと努めて平静な振りを装った。
「あ、うん。湯加減は大丈夫だった?」
「う、うむ。……先に失礼した」
「うん」
 舞は少々俯きぎみになりながら、速水が座っているソファの反対側の端に座った。
 重苦しいまでの沈黙が訪れる。
 舞は足の間に手を挟みこんだまま、下を向いて動こうとしない。表情はよく分からなかった。
 不意に、つ、と速水が舞の隣に移動した。わずかに舞の体が固くなる。湯上りの香りが速水に更なる行動を促した。
 そっと肩に手をかける。舞が目に見えて緊張したのが分かった。風呂から上がったばかりだというのに、かすかに体が震えている。
 速水の瞳に、一瞬、自嘲の色が浮かんだ。
 再びつ、と離れると、勢いよく立ち上がる。舞がびくり、と体を震わせた。
「……あ、厚志?」
「すっかり遅くなっちゃった。僕もお風呂、入ってくるよ」
 突然の行動に対応できず、舞としてはただうなずくしかなかった。
 速水が風呂場に消えると、どっと緊張が解け、ソファへとへたばってしまう。安堵が全身を包むが、同時に、舞の胸中にはかすかな疑念も浮かんでいた。
 ――一瞬、あやつの目に浮かんだ光は、なんだ?
 
 湯船に浸かりながら、速水は厳しい表情を崩さなかった。そこかしこに舞の匂いが残っているのがいっそ恨めしい。
「我ながら、度し難い莫迦だな……」
 ――やはり舞は望んでなどいないじゃないか。己の欲望のために愚行を繰り返したあの莫迦者どもと、お前は同じことをしようというのか? お前は舞を貶めようというのか?
「そんなことはできない……。だけど」
 速水は湯に埋もれながら、湯面に視線を落とす。
「いつまでも抑えることも、できそうにないな……」
 己の生理的反応を恨みつつ、速水は湯船を出た。

   ***

 部屋の中を、沈黙が支配していた。
「舞?」
 速水は一瞬、誰もいないような不安に襲われたが、ほどなくその疑念は解消することになる。舞はソファにもたれかかるようにして、静かに寝息を立てていた。
「あーあ、こんなところで寝たら風邪引いちゃうよ……」
 起こそうとして、その場でしばし留まる。舞の寝顔は、あどけないまでの穏やかさであった。

 その寝顔を壊す気にはなれなかったが、放っておくわけにもいかないし、いささか無理な姿勢をとっていたので、速水は彼女をそっと抱き上げると、ゆっくりとベッドに運ぶことにした。
 柔らかな感触が手に伝わってくる。寝顔とその肢体を見て、またも欲情が沸き起こるのを感じたが、過去の経験がかろうじてそれを押しとどめた。
 ただ生きるだけだったかつての生活。実験動物と扱いは大差なく、ついさっきまで隣にいた奴が黒い袋に放り込まれて出ていく事など珍しくもない。明日生きている保証などどこにもない毎日だった。
 やがてそれに、研究員による「実験」が加わった。最初は無理やりに体を開かされ、貫かれ、慰みものとしてもてあそばれた。奴らは心の底からこの快楽にして愚行を楽しんでいるようであった。
 最初は抗う術さえ知らず、ただなされるがままであったが、やがて己の能力を知るにつれ、それは武器へと変化した。女はむろんのこと、男ですら必要であれば篭絡し、肉体を与えることで逆に意のままに操ることさえできた。
 それはただ生きるための方便であり、そこに感情の入り込む余地はまったくなかった。自ら求める事などありえない。そう確信していたのだ。
 だから、すべてを精算し、過去を捨てたときに、それらの行為の記憶も忌まわしいものとして封印した。それで終わる、そのはずだった。
 そこへ舞がやってきた。
舞と出会ってからすべてが変わった。この娘は自分に、生きる意味と力を与えてくれたのだ。
 と同時に、速水は自分が舞を常に求めていることに気がついていた。それは今まで絶対にありえなかった、心の底と肉体の中からとめどなく沸き溢れる新鮮な感覚だった。
 だが、今まで自らの為してきた行為がそれに歯止めをかけていた。
 骸にして打ち捨てて来た奴等に詫びる気など毛頭ない。しかし、自らが求めるものは、舞をその同列に置くことになってしまうのではないか、その想いが強くあった。
 そうは言っても恐らくいつかは限界が来る。そのとき彼がどうすべきかはまだ分からないが……。
「今分かるのは、今は駄目だ、ということだけさ……」
 舞をベッドに横たえ、布団をそっとかけてやる。かすかな呟きが聞こえたが起きる気配はない。
 その寝顔を見て微笑みを浮かべた速水は、再び戻ってくるとソファで予備の毛布に包まって、さっさと横になってしまった。
 明かりが落とされ、闇が訪れた。

   ***

 しばらくしたところで、舞はうっすらと目を空けた。周囲の状況が徐々に明らかになり、ベッドでひとり寝ている自分を発見して飛び起きる。
「厚志?」
 どことなく不安げな、だが極力抑えた声で舞がささやく、返事はなかった。
 そっとベッドを抜け出すと、ふすまを開ける。ソファーに毛布がかかっているのが見えた。
「厚志……」
 どうやらあれから眠ってしまったらしいことを理解し、そしてわが身に何もなかったことを確認する。ほっとすると同時に、かすかな喪失感を感じている自分に気がつき、愕然とした。
 ――わ、私は何を考えている!? べべ別に私は何かが起きることを期待していたのではなくて……!
 ひとしきり脳内でわたわたした後、足音を立てないようにそっと速水のそばまで忍び寄る。速水は向こうを向いたまま動かない。肩から半ば毛布がずり落ちかけている。
「眠って、しまったか……?」
 何故そんな事を聞いたのか、自分でもよく分からなかった。むろん、返事はない。
 瞬間、舞に迫ってきた時の目の光を思い出した。
 ――厚志、そなたにとって私は迷惑か? 迫るだのどうだの関係ない。あの時屋上で言った私の言葉、「離れるな」と言ったのは紛れもない事実だ。だが、それがそなたにとって重荷なのだとしたら……。
 震えが体を貫いていく。思わず自らの身体をかき抱いた。
「どこへも行くな、厚志」
 寂しげにつぶやくと、舞はそっと毛布をかけ直し、ベッドへと戻った。
 ふすまが閉まる音と同時に、速水がむくりと身を起こした。
「舞……」
 かけ直された毛布を手にとると、それをそっとかき抱く。
 ――ひょっとしたら自分は間違っているのかもしれない。だけど……。
「僕は今、たぶん……」
 先ほどの答えを得た。
 そう信じようと、思った。

 ベッドに戻っても感情の整理がつかず、舞はなかなか眠れそうになかった。しばらく目を開いたまま横になっていると、ふすまが開く音がした。
 慌てて舞は目を閉じたが、閉じる瞬間に入って来たのが速水であることに気がつき、体を固くした。
 彼はそっとベッドに近寄り、傍らでじっと立っている。と、次の瞬間、布団が持ち上げられる感覚と共に、ゆっくりと彼がベッドに入ってくるのが感じられた。突然のことに舞は完全に混乱し、ただなされるがままにするしかなかった。鼓動が胸を突き破って、部屋中に響いているような気さえした。
 完全に潜り込んだところで、何か声が聞こえた。
「舞、眠ってる……?」
 舞は答えなかった。答えを求めていないことが、なんとなく分かった。
「ごめん、迷惑かもしれないけど、今夜は、いや、しばらくの間でもいいから、ここにいさせて……」
 ささやき声の後、再び静けさが訪れた。
 しばらくの間、舞はピクリとも動かなかったが、徐々に体の強ばりがほぐれていくのがわかった。やや間を置いて、舞はそっと振り向いた。
 速水は静かに寝息を立てていた。その寝顔には欲も得もない、ただ安堵だけがあった。
 舞は一瞬目を見開いたが、知らず知らずに口元がほころんでいた。
 ――厚志、芝村として失格なのも、恥も承知の上だ。そなたを失いたくない。おそらく、私はそれに耐えられない……。
 舞は散々逡巡した後に、おずおずと速水の胸に寄り添った。彼の匂いと温もりが舞を包む。
 と、無意識にか、そっと肩に手がかけられる。
 舞は一瞬びくりとしたが、徐々に力を抜いて、一層速水に寄り添った。
 ――私は、今答えを得た。
 少なくとも今だけはそう信じよう。そう、思った。

   ***

「舞……、舞?」
 何かが触れた気がして、舞はゆっくりと目を開けた。目の前には、速水の顔がどアップで迫っていた。
「ぬなっ!?」
「あ、目が覚めた? 良く眠ってたね」
 速水はなぜかかすかに顔を赤くしながら、明るい声でそう言った。
「外はいい天気だよ。洗濯も終わったし、もうすぐ朝ご飯出来るから一緒に食べよう?」
 思いっきり寝過ごしていたことに対する気恥ずかしさから、舞はただうなずくのみだったが、ふと彼の台詞の中に引っかかるものを感じていた。
 ――洗濯が、済んだ? そんなに洗うものなどあったか?
 そこで恐ろしい事実に気がつく。とたんに声が裏返った。
「ちょ、ちょっと待て、洗ったというのはもしや……」
「うん、舞の服。あ、上着はもちろん洗えないからブラシをかけておいたよ」
 ――そういう問題ではない!
「まままままさか、その、し、し、した……」
「……うん、全部洗った。だって舞ったらなんでもかんでもバッグに詰め込んじゃうんだもん」
 窓の外に目を向ければ、確かに見覚えのある形の布地がひらひらと風に舞っていた。舞は全身がかっと熱くなるのを感じた。
「さ、早く起きて、もうパンも焼きあがるよ」
「あ、あつし〜〜〜〜〜〜っ!!」
 今日も騒がしい一日になりそうだった。

   ***

 記憶が終わり、現実がよみがえる。
 ――そして今、僕らはここにこうしている。
 あれからいろいろあったけど、舞は僕を受け入れてくれた。
 そのとき初めて、僕は本当の居場所を手に入れたのかもしれない。
 舞、君のおかげで、僕は人間になれた。そんな気がするよ。

 速水は慈しむように舞の髪を撫でながら微笑む。その瞳には限りなく優しい光がたたえられていた。
「ん……。厚志? どうしたのだ?」
 わずかに眠りを破られたのか、舞がうっすらと目を開ける。
「ん、ちょっとね。舞の寝顔がかわいかったから、つい」
「莫迦者……」
 そう言いながらもその口調はとても優しかった。
 速水は、さらに何か言いかけた舞の唇にそっとキスした。柔らかい感触と甘い香りが心地よい。
「ん……ふぁっ。あ、厚志。まったく、そなたは……」
 舞は夜目にも鮮やかに頬を染めながら、言葉とは裏腹にそっと速水に寄り添った。
 
 恋人達にとって、夜はまだ長いようだ。
(おわり)


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