その2(終話)
「何だ!!」
見ると、そこには――。
まんじゅうに袴の裾に取り付かれた壬生屋の姿があった。
袴の赤にまんじゅうの青緑が妙なコントラストを描いている。と、まんじゅうはついと離れると、壬生屋の足元をうろちょろしだした。
「いやあああぁぁぁぁっ!! 来ないでくださぁいっっ!!」
壬生屋は金切り声を上げ、半ば涙目になりながら必死で逃げ回っていた。そこまでならまあ16歳の少女ということでよくある話だが、なんとか振り払おうとして鬼しばきを振り回すものだから話は尋常なものではなくなる。
後先考えずに振り回される鬼しばきが椅子の足を、テーブルの角を、避けそこなった瀬戸口の制服の袖を切り裂いていく。はっきり言って先ほどの舞など問題にならないほどの破壊を振りまいていた。
「あーあ、これって誰が修理するんだろう?」
舞をかばいながらも妙にのんびりとした口調で呟く速水。
「お前さん、そんなのんきなことをいってる場合か? ともかく誰か応援を……!!」
瀬戸口は、せめてののみだけでも安全なところへ逃がそうと入り口から走り出していったが、妙な声を一声上げると再び室内に駆け込んできた。
「どうした!?」
ようやく痛みから回復したらしい舞が叫ぶと、瀬戸口はやや顔を青ざめながら、
「ま、まんじゅうがもう一匹……」と言った。
「!!」
その言葉を待たずして、戸口から全長1mになんなんとする巨大な青緑のかたまりが室内に入り込んでくる。既に彼らは声も出なかった。
「……あれえ?」
「ののみ、危ないっ!」
そのなかで、ののみだけが不思議そうな顔をしながらでかいまんじゅうのほうへ近寄ろうとしたが、たちまち瀬戸口に引き戻されてしまった。
「襲われたらどうするんだ!?」
「でもたかちゃん。あれって……」
「見ろ!!」
ののみが不思議そうな顔をしたまま何か言いかけたのを舞が鋭く遮った。食堂の中ほどを指差している。
壬生屋を除く全員がそれを見た。
「嫌ああぁぁぁ……、え?」
壬生屋は思わず鬼しばきを振るう手を止めた。いや、目の前の状況に気を取られてしまったというほうが正しい。
そこでは異様な情景が展開されていた。
先ほどまで我関せずという具合にちょこまかと動き回っていたまんじゅうが、ひときわ巨大なまんじゅうが近づいていくとぴたりと動きを止めたのだ。いや、むしろ後ずさろうとしているかのように見える。
一方、でかいほうはじり、じりと小さいのに近づいていく。後ろのほうから何かが飛び出し、ゆっくりと振られた。
『し、しっぽ? まんじゅうにしっぽ?』
驚きの声が部屋中に満ちた。
たしかにそれはしっぽだった。それはかびでまだらになっているが、全体的に黄土というか茶というか迷うような色をしている。
「あれは……、そんな、まさか!」
舞が叫んだ。その声には芝村には珍しい、信じられない、または信じたくないという要素が多分に混入されていた。そこにののみがとどめの一撃を放つ。
「まいちゃん、あれはねこちゃんなのよ」
『猫ぉ?』
全員の声が綺麗にハモった。その声に呼応するかのようにでかいまんじゅうは一声なくと小さいのに襲いかかる。その声は確かに聞きなれた、この辺を根城にしている猫、ブータのものだった。
食堂が先ほどに数倍する騒ぎに包まれたのは言うまでもない。
***
「にしても、まいったな。まさかブータとねずみだったとはね……」
あれからしばらくして、食堂に再び揃った一同は、速水が淹れた茶を前に一息ついていた。
しばらくの間追いかけっこを繰り広げた2匹をようやく捕まえることができた一同は、彼らをシャワー室に放り込んで徹底的に消毒・洗浄した。
「おやっさん。あんた一体何やってんだよ……」という瀬戸口の呟きに、ブータが面目なさそうに耳を伏せたというのは全くの余談である。
それから何事かと駆けつけた面々にも無理やり手伝わせて(ついでに作業が終わると無理矢理追い出して)、食堂が一応片付いたのはつい先ほどのことだった。
「ま、あの猫はぐーたらしてるからかびにとりつかれたんだろ。ねずみのほうは予想外だったけどな」
「まんじゅうを食べて満腹してたから最初は動かなかったんだ……」
速水がなんとなく納得したように頷いている。
「でも、生き物にたかるかびって……、凄いものですね」
壬生屋が感心したように言うと、それを受けて瀬戸口が、
「生き物に寄生するかびってのも結構いるさ。人間なら白癬菌なんかが有名だろう? ……水虫の原因だよ」と言った。
「まあ、ねずみにかびがああもたかるってのも尋常じゃないがな」
「ふむ、それにしてもブータがまさかあんなことになるとはな……」
普段から猫にひそかにあこがれている舞としては、今回の件はちょっとショックだったようだ。これからしばらくの間、舞とブータの距離はほんのちょっとだけ遠くなったという。
「そういえばまいちゃん、あたまだいじょーぶ?」
「このぐらい、たいしたことはない……あ、痛!」
「ほらほら、舞、無理しないの」
苦笑しながら速水は氷嚢をあてがいなおしてやる。さっきぶつけたところは大きなたんこぶになっていた。
「な、何を言うか。別に無理など……」
思わず反論しよううとしたものの、やおら動かされた氷嚢がたんこぶを刺激し、その痛みにまた押し黙ってしまった。
一瞬訪れた沈黙を破るように、瀬戸口が勤めて明るい口調で話し始めた。
「さて、仕事時間も終わりだ。もう、帰ろうぜ?」
「そうだね。じゃあ舞、一緒に……」
そこまで言った速水が、ふと何かに気付いたように眉をひそめた。おもむろに振り返る。
「舞、ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
いつも通りの柔らかく、人当たりの良い声だった。聞いているだけでなんとなく警戒心を解いてしまいそうな。
だが、たまたま立ち位置の関係上、瀬戸口だけは見てしまった。彼の目が笑っていないのを。思わず背筋に震えが走る。たいていの場合、こういう目をした時はろくなことがない。
「何だ?」
だが舞からは彼の目は見えない。その声につられてつい返事をしてしまった。そう、彼女はこのとき全力で逃げ出すべきだったかもしれないが、それを求めるのは酷というものだろう。
「この前、舞の部屋を一緒に掃除したのっていつだったっけ?」
「何だ、もう忘れたのか? 十日ほど前だがそれがどう……」
そこまで言って初めて目の光に気がついた。本能的に警戒信号が灯り背中を冷や汗が流れる。無意識に後ずさろうとしたが、既に腕はしっかりと押さえ込まれている。
「そうだよね? で、昨日とおとといは僕ん家に泊まってったよね?」
「ばっ! ばばば、馬鹿者! そんな事をここでいう奴があるかっ!」
突然ばらされた秘密に舞の顔が見る見る真っ赤に染められていく。
「ほー、なるほどなるほど。いやぁ、お熱いねえお2人さん」
「ふ、不潔です、不潔ですっ!」
「ふえぇ? あっちゃんとまいちゃん、なかよしさん?」
ギャラリーの反応も三者三様である。
「じゃあ一体どこでかびを見慣れたんだろう? ねえ、舞?」
全員が凍った。
十日前に綺麗にして、一週間前から雨。そして二日間はいなかったので除外。
とすると残りは五日間。かびが繁殖するには十分な時間である。
「姫さん、それはちょっとまずいんじゃないか?」
「ふふふ、不潔です! 文字通り不潔ですっ!」
「ふえぇ?」
ギャラリーの感想にますます焦る舞。
「い、いや、その、なんだ。それはほんの言葉のあやというものであってだな……」
「舞」
再び柔らかい、だが有無を言わせない声。
「う……な、なんだ?」
「明日はデートでもしようかと思ってたんだけど、ちょうどいいや、舞の部屋にいこ? そろそろまた掃除もしなきゃね?」
「にゃにをっ!? い、いや、それには及ばん。部屋は私がしっかりと掃除をしておる!」
「そう? じゃあ今日遊びに行ってもいいよね? せっかくだし今日は舞の部屋に泊めてもらおうかなあ……」
「あー、あっちゃんいいなー。ののみもおとまりするー」
無邪気にののみが言うのへ、速水はにっこりとしながら、
「うーん、ののみちゃん、今日は悪いんだけど2人っきりにさせてくれないかな? 今度ならいいから」
「ぶー。もー、しょーがないなあ。こんどだけだよ?」
膨れっ面のののみに謝りながら、今度は2人のほうへ向く。
「じゃあ瀬戸口君、壬生屋さん。ののみちゃんのことよろしくね。僕これから舞の家に行くから」
「あ、ああ。分かった」「い、行ってらっしゃいませ……」
速水の目の鋭さに、さすがに神妙な口調になって答える2人。舞だけが一層焦りながらなんとか抵抗しようとあがいていた。
「ま、待て厚志! わ、私は来てもいいとは一言も……!」
「ま、いいからいいから、さあ行こう、舞」
「厚志〜〜〜〜〜!!」
そんな抵抗などお構いなしに、半ば引きずるようにしながら速水は雨の中に消えていった。
傍から見れば相合傘かも知れないが、その実体を知ってる2人としては今更ツッコむ気にもなれないようだ。
「行って、しまいましたね……。舞さん、大丈夫でしょうか?」
「まあ、自業自得って気もするがね。今回ばかりはあまり同情する気にもなれんよ」
(舞さん、ごめんなさい。弁護して差し上げたいのはやまやまなんですが、言葉が思いつきません……)
心の中で親友にそっと詫びる壬生屋であった。
瀬戸口は、たった今の件をしっかりと忘れる事に決めたようだ。何もなかったような口調で傍らを振りかえった。
「さて、それではお嬢さん方、俺たちも帰るとしましょうかね? 未央、今日はうちに来るか?」
そう言いながら瀬戸口は2人の間に立つと、壬生屋の肩とののみの頭にいつの間にか包帯の解けた手をかけた。
「た、隆之さんっ! こ、こんなところで……。それに、怪我……」
壬生屋が頬を朱に染めた。舞の影に隠れてはいるが、恋愛に疎いのは彼女1人ではない。
「だーいじょうぶだって、ののみはどうする?」
「わーい、ののみもたかちゃんちおとまりする〜」
ののみにしてみれば誰かと一緒に夜を過ごすことができるのは大変嬉しいことらしい。
瀬戸口は再び壬生屋のほうを振り向いた。
「ということだけど、お前さんはどうするね?」
壬生屋は下を向いたまましばらく逡巡していたが、やがて、
「はい、お供いたします……」
と小さく、しかしはっきりと言った。
瀬戸口はそれを聞いて小さく頷くと、2人を伴って食堂兼調理場を出て行った。
少なくとも彼女たちにとっては平和な週末になりそうな、土曜日の夕方のことだった。
食堂の惨状を除いては。
(おわり)
(追記)
皆が去ったあと、校舎の隅、影がわだかまる所から音もなく3人の人影が立ち上がった。
言わずと知れた奥様戦隊、例の3人組である。
原が眼光鋭く、立ち去っていった2組のアベックを凝視した。
「ふふっ、なかなかオイシイ展開になったわね……。準備はよろしくて? 若宮の奥様?」
傍らには姫を守る勇者よろしく、若宮が直立不動で立っていた。
「はっ、不肖若宮、素子さんの為ならばいずこへでも突撃準備完了でありますっ! ……では、目標はどうなさいます? 善行の奥様?」
巨漢がしなを作るのは、できれば見たくない光景である。その姿を注意深く視界から外しながらふりふりエプロンをつけた善行は厳かに答えた。
「今回はターゲットは2つ。しかし目標Aについてはさして成果が望めないものと判断し、目標Bに戦力を集中することとします……。皆様、よろしくて?」
静かに頷きあう3人。と同時に含み笑いが辺りにこだまする。
「では、皆さん。参りますわよ」
その声と同時に、3人は再び闇の中へと消えていった。
(追記U)
その日の夜。2人は舞の部屋にいた。
……実の所、来た事をちょっと後悔したりして。
「……舞?」
速水が静かに訊ねた。静か過ぎるくらいだった。舞が思わず身体を固くする。
「な、何だ?」
「これのどのあたりが掃除をしたことになるのかな?」
「う、い、いやその……」
しどもどといった具合でまともな返事にならない。
それはそうだろう。
積み上げっぱなしの本。捨てられていないゴミ、漬けっぱなしの食器、山盛りの洗い物。
かつて片付けたときの面影などかけらも残らないほどの混沌。
まあここまでは予想できたのだが、漬けっぱなしの食器やレトルトパックの空き袋、はては何かこぼしたらしい畳にも青緑のかたまりがしっかりとできていた。
いくらなんでもこれでは「掃除をした」と強弁も出来ない。舞はすっかり俯いて指をつき合わせているばかりだった。
ちょっとかわいい。
そんなようすを見てさすがにこれ以上くどくどと言うのもなんだったので、速水はそれ以上追求するのはやめにする事にした。
「……まあいいや。じゃあさっそく掃除を……」といいかけた時、
もぞ。
何かが動いた。
「……え?」
もぞもぞ。
「ね、ねえ。何か動いたように見えなかった?」
「し、知らんっ! 私は知らんぞ!」
引きつった顔で速水が訊ねるのに、極力冷静さを保とうとしていた舞だったが、次の瞬間それはあっさりと崩れた。
もぞもぞもぞもぞもぞもぞもぞもぞ……。
部屋のそこかしこでかびまんじゅうが一斉に動き出した、と見るやそれは2人の方へと音もなく迫ってきた。
『う、うわああああぁっ!!』
2人の絶叫が室内に響き渡った。
***
その夜、舞のアパートからは一晩中青緑色の煙が立ち上っていたという。
ほんとにおわり)
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