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その1


 1999年6月26日(土)。
 九州は梅雨の真っ只中に突入していた。しとしとと雨が途切れることなく降り注ぐ。
 それは熊本市内も例外ではなく、5121小隊が駐屯する第62高等戦車学校――尚敬高校裏手のプレハブ校舎も容赦なく濡れそぼらせていた。なまじ生徒たちが建てた校舎だけに、こういう時の被害は甚大になる。今日も2階は教室のあちこちにバケツやたらいが置かれ(出所は言うまでもあるまい)、にぎやかな即興曲を奏でていた。
 自然休戦期に入ってから1月半が経過し、ようやく再編なった自衛軍の一部が増援に入ったことで、九州は治安の回復と一応の安定を得ていた。ただし、思ったほど再編できなかったのも事実で、結果、学兵の動員は解除されることなく現在にいたっている。
 とはいうものの、自然休戦期であるゆえに幻獣が出現するはずもなく、基礎訓練のほかはほぼ通常の学生生活に近い日々を過ごしていた。
「ふぁ〜あ……。熊本は今日も雨だった、か……」
 ここは食堂兼調理場。授業も終わっていつもなら仕事の時間だったが、最近はほとんど自由時間に近い。
 昼食をとったあと何となく手持ちぶさたになった瀬戸口は、頬杖をつきながらどこかで聞いたような台詞を呟き、その姿勢のままぼんやりと窓に降りかかる雨を眺めていた。窓の外は灰色にけぶり、薄くもやがかかっているようにも見える。
「それにしてもよく降るよなあ……。もう1週間か? いくらなんでもこの雨の中に出て行く気にはならんなあ……」
「世界にはラブが足りないから、俺が振りまいてやっているのさ」とかうそぶいていた愛の伝道師も、今日はさすがに開店休業状態のようだ。
 と、カンカンカンと階段を駆け下りる音が聞こえたかと思うと、ののみが入り口からひょいっと顔を出した。瀬戸口を見ると嬉しそうな声を上げる。
「あー、たかちゃんみつけたー! こんなところでなにしてるの?」
「ああ、ののみか。別に何をしているわけでもないんだが……」
 そこまで言って、瀬戸口はふとあることを思い出した。
「そうだののみ、ようかん、食べたくないか?」
 それを聞いたとたんにののみの目が輝いた。情勢が安定したとはいえ甘味はいまだかなりの貴重品である。ののみは瀬戸口にぶつからんばかりの勢いで飛び込んできた。
「えーっ、たべたいたべたいたべたーい! ねえねえたかちゃん、どこにあるの?」
 すでに大はしゃぎだ。そんな様子を目を細めて眺めながら、瀬戸口は椅子から立ち上がると調理場に向かった。
「何日か前に手に入れたやつを、ここに入れておいたんだが……」
 そんなことをいいながら棚の引き戸を開ける。
 しかし、冷蔵庫に入れるという発想がなかったのは、ついうっかりというかかつての習慣というか……。
「おっ、あったぞ。ののみ、おまた……せ……」
「ふえ? たかちゃん、どーしたの?」
 ののみは瀬戸口の腕に寄りかかるようにしながら訊ねたが、瀬戸口は答えようとせずその場に固まったまま動こうとしなかった。
 その視線は自らのもっている皿に注がれており、ののみもそれにつられるようにして「それ」を眺めやった。

 そこにあるのは確かにようかんだった。……数日前ならば。
 だが、今やそれは白とも青緑ともつかないまだらがそこかしこに点在し、自らが危険であることを主張している。
 平たく言えばかびていたのである。
 瀬戸口は失念していたようだが、確かに昔ながらのようかんなら砂糖の働きでこうもあっさりとかびることはなかったかもしれない。しかし、昨今の物資不足で砂糖が不足している結果、砂糖の代わりにサッカリンが使用されていたため、殺菌効果は期待すべくもなかったのだ。
(ちなみにサッカリンとは非糖質系の合成甘味料で、第二次防衛戦直後の物資が不足した折に多用された。サッカリン(サッカリンナトリウム)は砂糖の甘味度を1とした場合、約200〜700(スプーン一杯で風呂桶の水が甘くなるぐらい)と強烈だが、苦味も持っているので入れすぎるとこれまた強烈である)
「こいつは、ひどいな……」
「たかちゃん、これ、たべられないの?」
 ののみがいまだ期待に満ちた視線をようかんに向けていたが、その瞳にはいささか不安の色が浮かんでいた。
「うーん……、こりゃやめたほうがいいな」
 期待させておいて、大チョンボをやってしまった瀬戸口も弱り顔だ。
 それでもまだあきらめきれないのか、ののみはじーっとようかんを見つめつづけていたが、ふと、何かに気がついたように声を上げた。
「ねえたかちゃん。ここはなにもついてないのよ?」
 と、まだカビのついてない反対側に手を伸ばそうとしたが、手が届く寸前にさっと皿が引かれてしまった。いくらなんでも片側が全滅でもう片方が何ともないとは考えづらい。
「だめだめ、おなかが痛くなったらどうするんだ……い? え?」
 一瞬、消え去った皿を呆然と眺めていたののみの目に、みるみるうちに涙が盛り上がってきた。
「ふ、ふえ、ふえええぇぇぇ……。たかちゃんがようかんとったぁ〜」
「え、ええ? お、おい、ちょっと待ってくれ、ののみ!?」
 この大泣きに慌てたのは瀬戸口だった。彼は必死にののみをなだめようとする。
「お、おい、ののみ? だから、これはな、ちょっと食べられないんだから、な?」
「めーなの! ののみ、たべたかったの〜〜〜! ふえええぇぇぇん……」
 当然の事ながらそんな説得が効くわけがなかった。いや、むしろ逆効果だったかもしれない。ののみはまるで火がついたかのように泣き出してしまった。
 泣く子と地頭には勝てない、か。
 古いことわざを思い出しながら、瀬戸口も途方にくれたような顔をしている。
 と、その時、入り口のほうから鋭い声がかかった。
「ののみ、どうした!?」
 現れたのは舞だった。少し遅れて壬生屋と速水も顔を出す。
「げっ」
 ひょっとしたら最悪の組み合わせだったかもしれない。瀬戸口の背中を冷や汗が伝い落ちた。どう見たってこの状況では自分が悪者に決まっていたからだ。
 まあ、実際に原因を作ったのは確かだが。
 案の定、速水を除いた2人は部屋の様子を一瞥すると目に怒りの色を浮かべた。
「瀬戸口っ! そなた、菓子を使って幼な子をもてあそぶとは何事だ! この馬鹿者が!」
「隆之さんっ! あ、あなたという人は……。ふ、不潔ですっ! 恥ずかしくないのですか、恥を知りなさい、恥を!」
 何が不潔だかよく分からんが。
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げたが、よく考えてみればさっきのようかんを手に持ったままである。そして、ちょっと見ただけではその細部まで分かるわけもない。
 もう、決定的。
「ののみ、どうした。大丈夫か? 何もされておらんか?」
(ちょっと待て、俺が何をしたっていうんだ、ナニを!!)
 思わず心の中でツッコミを入れる瀬戸口。
 ののみはというと、まだ少ししゃくりあげながら、
「ふっ、ふえぇ、たかちゃんが、たかちゃんがね、ようかんを……」といったぐあいで、後は言葉にならない。
 ならないのだが、2人にはそれで十分だったようだ。先ほどより明らかに殺気のこもった視線が背戸口を貫いた。
「ま、まて、お前さんたち、何か勘違いしてるだろ! は、話せば分かる!」
『問答無用!』
 これまたどっかで聞いたような台詞を吐きながら、舞は拳銃を、壬生屋は鬼しばきを構えて瀬戸口に襲いかかろうとしていた。
 普段の行いはとても大切であるという教訓である。
「お、おい、バンビちゃん、そんなところでボケっと見てないでこのお嬢さん方に何とか言ってやってくれ!」
 藁にもすがる思いで、必死の形相で叫ぶ瀬戸口に、速水はすまなそうに目を伏せた。
 そりゃあもう、打ち捨てられた子犬だってここまでではないだろうという感じで。
「……骨は、拾ってあげるからね」
 速水はなんとなく事態を察しているようだが、どうやら危うきに近寄る気はさらさらないらしい。藁だけによく流されている。
 瀬戸口が死を覚悟したのはこの瞬間だったかもしれない。
 数秒後、プレハブ校舎1階に剣戟と銃撃、そして悲鳴が響き渡った。

   ***

「なんだ、そういう事だったか。勘違いであった、許せ」
 速水が用意した紅茶を飲みながら舞が言った。熱いのはだめなのか、少しずつすするようにして飲んでいる。
「そうですよ。隆之さんももっと早く言ってくださればよかったのに」
 こちらは緑茶を飲みながらの壬生屋の言。
「……2人とも、その暇すら与えずに叩きのめしたって事、覚えてる?」
 傍らにののみを座らせながら、少々呆れたような声で速水が指摘した。
 結局のところは、2人が瀬戸口を追い掛け回している間に速水がののみをなだめ、真相を聞きだしていたのだ。
 もっとも、それが判明した頃には瀬戸口はボロボロになっていたが。
「……まあ良いではないか。些細な行き違いというものだ」
「そ、そうです。ちゃんと理由もわかったんですし、ね?」
 ……どうやら2人して誤魔化そうとしているらしい。どちらも速水と目をあわせようとしない。
「ま、いいけどね」
 いいのか。
「は、薄情だぞ、バンビちゃん……」
 当の瀬戸口はといえば、あちらこちらに包帯やバンソウコウをくっつけた痛々しい姿で速水を恨みがましい目で見つめていた。
「そもそもの原因は瀬戸口君でしょ? ちゃんと管理しておかないから……」
「それを言われると面目ない……。な、この通り、堪忍してくれ」
「あやまるのは僕じゃなくてののみちゃんにでしょう?」
 それももっともな話だったので、瀬戸口は再びののみに謝りはしたものの、当初の問題はまったく解決されていなかった。
「ふえぇ、じゃあ、あまいものたべられないの?」
「うーんと、実はあてがなくもないんだけど……」
 どことなく自信がなさそうに速水が答えた。皆の視線が集中する。
「厚志、そなた何か隠していたのか?」
「隠しているってほどじゃないけど、前にくりまんじゅうをもらったんだ。それがまだ残ってるかも……」
 再びののみの目が輝いてきた。だが速水は申し訳なさそうに言葉を続ける。
「それで、ね。それを入れてあったのが……、あそこなんだ……」
 そういって指差したのは――。
 ようかんの入っていた隣の引き出しだった。
 期せずして全員の口から同時に盛大なため息が漏れた。
「……まあよい。確認もせず断定するのは愚か者のすることだ。厚志、出してみろ」
「う、うん……」
 速水はおそるおそるといった感じで戸棚に近づくと、引き戸に手をかけた。
「あ、開けるよ。いい?」
 なぜか皆一様に緊張した面持ちでうなずき返す。
 そっと開けた速水が中を覗き込み――そこで動きが止まった。
 本人は非常に嫌そうなのだが、まるで逆らえない何者かの力に操られでもしたかのように、その手がのろのろと戸棚に突っ込まれ、中から小皿を引っ張り出す。
 そして、茶汲み人形のような不自然な動きで皆の前に出てくると、机の上にそれを置いた。
 その瞬間――
 言葉にならない驚愕が一同の間を走り抜けた。

   ***

「……厚志よ」
 舞が妙に抑揚のない声で訊ねた。
「何?」
「これは、何だ?」
「えーと、くりまんじゅうだったはずだよ。……たぶん」
 その声に、壬生屋がまるで機械音がしそうな様子で振り向いた。
「ど、どこをどうやったらこういうふうになるんですか?」
 それが合図だったかのように全員の視線がテーブルの上に注がれる。
 そこにはかつてくりまんじゅうと呼ばれしモノが置かれていた。
 全体がくまなく青緑のもこもこしたものに覆われているモノをそう呼ぶ勇気があるのなら、だが。
 まるでうぶ毛に覆われたようにも見えるそれは、蛍光灯の光を浴びて微妙に色調を変えながらたたずんでいた。
 なんとも心洗われない光景ではある。
「ふええ、なんだかきれいだねえ」
 ののみだけは、今までに見たこともない物だけにすっかり興味津々の様子だ。我慢しかねたのかそっとそれへと手を伸ばそうとした。とたんに全員が大慌てで取り押さえる。
「だめだ! ののみ、触るな!」
「触っちゃだめ!」
「ののみさん、いけませんっ!」
「こら、ののみ! これは駄目だーッ!」
「ふ、ふええ。みんな、そんなにおさえたらいたいの〜」
 四方八方から押さえ込まれてしまったののみが抗議の声を上げると、ようやくみんな手を離した。
「あ、ああ、すまん……。しかし、こんなものをいつまでも置いておくわけにいかんな。厚志、さっさと捨てて……」
 その時、視界の中で何かが動いた。思わず舞が「元」まんじゅうを見直す。2、3度しばたいた後、ついでに目をこすってみた。
 別に変わった様子はない。
「どうしたの?」
「い、いや何でもない。単なる見間違いだったようだ、では厚志、捨てて……」
 怪訝そうな速水に答えようとしたとき、今度ははっきりとまんじゅうが動いた。もぞ、もぞ、と小刻みに揺れている。
「ひっ!」「う、動いた!」
 あまりの出来事に一斉に潮が引くように引き下がる一同。
「な、何だこれは! かびなぞ見慣れているが、かびたものが動くなどという話は聞いたことがないぞ!」
 当たり前です。
「ま、まんじゅうに生命が宿ったんですか? なんと素晴らしい生命の神秘でしょう!」
 おののくように呟く壬生屋。どっちかというと現実逃避の気が強い。
「そんなわけあるかっ!」
「じゃああなたはこの状況をどう説明するおつもりなんですかっ!」
 きっと睨み返されて、瀬戸口は思わず言葉に詰まる。
 舞はまんじゅうを睨み据えると拳銃を構えた。
「ちょ、ちょっと舞! ここでそんなもの撃つ気!?」
「いかな我が一族が寛容だとはいえ、ものには限度というものがあるわっ! こんな理不尽なモノは認めん!」
 ――まあ、そりゃそうかもしれないけど。
 速水はそう思ったが、賢明にも発言はしなかった。
「で、でも、いくらなんでも室内で発砲っていうのは……!」
「やかましいっ!」
 そういうや、舞は初弾を発射した。轟音が室内に反響し窓ガラスがびりびりと震える。
 だが、まんじゅうはは意外なほどの俊敏さで動き出した。弾丸がつい先ほどまでまんじゅうがいた床を打ち砕き、破片が飛び散る。
「何だと!? くそっ!」
 避けられたのが相当意外だったのか、舞は速射を繰り返す。
 まんじゅうはひょい、ひょい、ひょい、といった感じで器用に椅子の下やテーブルの上を自在に駆け回った。おかげで全く弾に当たらない。
 悲惨なのは食堂のほうだ。今舞が持っているのは愛用の357マグナム。いつぞやみたいな爆裂弾仕様ではないとはいえ、強装弾があたりにばらまかれたのだからたまったものではない。たちまち椅子は吹っ飛び、テーブルには大穴が開き、あたりに置いてあった食器ははじけ飛んだ。ガラス窓もたちまちぶち破られる。
 方向もお構いなしに撃つものだから、残りのメンバーは必死になって逃げ回らなければならなかった。
「う、うわっ! 危ないっ! 撃つのやめろー!!」
 瀬戸口がののみを抱えながら必死に逃げ回っている。普段戦闘訓練などしていないからこの動きだけでも相当に堪えているらしい。
「うるさいっ! こんなものに負けたとあっては芝村の名折れだ!」
 すっかり頭に血が上った舞は、油断なくまんじゅうをにらみすえながら怒鳴りつけた。
 ……まんじゅうと戦うほうがよっぽど名折れのような気がするのだが。
 全弾撃ち尽くしたのか、舞はシリンダーを引き出し、空薬莢を床に捨てる。金属音があたりに響いた。
 そして弾丸がセットされたローダーを取り出して次弾を装填しようとしたその瞬間、まんじゅうは視界からふっと消えうせてしまった。
「くっ、どこだ、どこへ行った!?」
「まいちゃん、そこっ!」
 ののみが指差したが、既にその時にはまんじゅうは舞の目の前に飛び上がった後だった。一回机の陰に隠れて視界から消えた後、テーブルを上り、そこからジャンプしたものらしい。
 まあ、襲い掛かるというよりは、たまたま移動進路上に舞がいた、というだけのようだが。
 だが、それを攻撃と受け取った舞は急いで方向を変え……ようとして、先ほど壊した椅子に足を取られてしまった。
「うわっ!」
 次の瞬間、頭がテーブルにぶつかる鈍い音が響いた。
「舞っ!」
「あ、痛、痛たたた……」
 それでも銃を放さなかったのは立派だが、足を取られてひっくり返っている姿はあまり様になったものではない。速水は急いで駆け寄ると彼女を抱き起こした。
「舞っ、大丈夫!?」
「だ、大丈夫だ……。いたた……」
 目の端に涙を浮かべながら舞が答える。
「そ、それより奴は……?」
「さあ……」
 ともかくも体勢を立て直そうと、速水に支えられながらようやく立ち上がったときに、つんざくような悲鳴が起こった。
(つづく)


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