mirage
風薫る季節。
目に映えるは緑。
泡沫の夢。
柔らかな朝日が差し込んでくるのが感じられた。
僕は寝台で目をつぶったまま、もう少し横になっていることにする。朝日が頬をなでる感触を楽しんでいたのも確かだけど、もうひとつの楽しみがやってくるのを待っていたから。
廊下を歩いてくる足音。
来た来た。
やがて、枕もとでいつものあの愛しい声が聞こえてきた。
「こら、厚志! いつまで寝ているつもりだ。さっさと起きんか!」
その声に、僕はようやく目を開いた。目の前には舞が腰に手を当てて速水を睨み付けていた。
「おはよう、舞」
「おはようではない! 一体何時だと思っているのだ」
舞は、呆れた奴だといわんばかりの表情で僕を見ていたけど、その瞳はとても優しい光をたたえているのが分かった。
「ごめんごめん、もう、起きるよ」
「そうするがよい。さっさと顔でも洗って来い、すぐに朝食だ」
そういうと舞はぷいっと部屋を出て行ってしまった。
それじゃあ、起きるとしますか。
僕は苦笑しながらとりあえずラックに用意された洋服を手にとり、パジャマをダクトへと放り込んだ。
テーブルにつくと、目の前には自動調理システムによって用意された朝食が並んでいた。見栄えも味もよく、栄養も十分考えられているがどこか画一的で味気ない。
テーブルのそれをちょっと眺めた後、舞にわがままを言ってみることにした。
「舞、たまには舞の手料理が食べてみたいなあ」
すると舞はこちらを振り向くと、怒ったような哀しげなような複雑な表情でこっちを見た。
「厚志、そなたは残酷だ。私が料理が出来ないのを知っていてそういうことを言う……」
そういって僕を思いっきり上目遣いに見つめる。
ああ、この眼にはかなわないな。
たちまち降参することにした。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
「いや、よい……。わ、私の手料理など食べたいといってくれて、感謝する」
そう言うと舞は顔を赤らめながらちょっと微笑んだ。
僕もその笑顔につられるようにして微笑み返す。でも、その時かすかに胸が痛んだ。
そして、いつも通りの朝食が始まった。
朝食を終えた後、心地よい風に誘われて外に出てみた。庭に置いてあるチェアーに腰をおろす。
「厚志、紅茶でも飲むか?」
後ろから舞が声をかけてくる。
「そうだね。ダージリンはあったっけ? あったらそれで頼むよ」
「分かった。任せるがよい」
紅茶が来るまでの間、僕は目を閉じて心地よい光の中に身を委ねる。特に理由などないけれど、なぜかそうしなければならないという気がしたから。
ふとさわやかな香りに目を開けると、いつのまにかティーカップがテーブルに置かれており、となりのチェアーには舞が座っていた。こちらを見て笑っている。
「……?」
何か、違和感がある。
何だ?
「どうした、厚志?」
舞が心配そうに訊ねてくる。
……舞?
「どうした、厚志?」
舞が心配そうに訊ねてくる。
違う。
「どうした、厚志?」
舞が心配そうに訊ねてくる。
「またか……」
思わずため息をついた。
「どうした、厚……」
僕は無言のまま、舞に向かってティーカップを投げつけていた。
すごい勢いで飛んでいったティーカップは舞を……通り抜け、そのまま庭であるはずの空間の一点にぶつかって砕け散った。
苦々しい思いを胸に抱きながら舞に手を伸ばす。舞は心配そうな表情をしたまま動こうとしない。舞に向かって伸ばした腕は、舞の中をすり抜けてしまう。
僕は黙って手元のスイッチを押した。
次の瞬間、舞の姿は陽炎のように消えていき、周りの風景も溶け去っていった……。
***
無機質な白い壁。日の光も青い空もなく、ただハロゲンランプの冷たい光だけが周囲を照らし出していた。
頭を振りながら僕はのろのろとした足取りで「家」の中に戻る。後ろでは清掃マシンがティーカップのかけらを回収していた。
先ほどまで真新しいように見えた家の中はあちこちが薄汚れ、壁紙がはがれたりしている。照明までなんだか薄暗いような気がした。
廊下の奥で、固くロックされたドアに暗証番号を入力する。ドアは、侵入者をいやいやといった具合に受け入れた。
薄暗い階段を下りて、広間に出たところで照明をつける。
部屋の中央には、棺がひとつあった。
僕はゆっくりと近づいていく。透明な棺の中には舞がかつてと変わらぬ制服姿のまま横たわっている。ひとつ違うのは髪が解かれているくらいのものだろうか?
彼女は、やや青ざめてはいるがまるで眠っているかのように見えた。まるで一声かけたら起き出して来るのではないかとも思えるくらい。
「舞……」
棺の脇にひざまづきながら、いつもの通り声をかけてみる。だが答えはない。
舞、君に触れたい。君を抱き締めたい。
また猛烈にこの棺を開けてしまいたい欲求が僕に襲いかかる。僕はその欲求にかろうじて耐えた。永久保存処理が施された棺は、蓋を開けたりすればたちまち中身が崩壊してしまう。
たとえ物言わぬ姿になったとはいえ、舞が目の前で消え去っていくのはとても耐え切れそうになかったから。
棺ごしにキスをして、棺の表面をそっと撫でてみる。いつのまにか涙があふれ出て、手の上に落ちかかる。
舞。
とても気高く、凛とした、でもとても可愛い、愛しい人。
その瞳を、その表情を、その行動を、そして、その魂までもが愛しくてたまらなかった。
いつまでも一緒にいられると思ったのに……。
あの日、そう、思い出すのも忌まわしいあの熊本城攻防戦が……。
全てを、変えてしまった……。
***
1999年4月7日。熊本城地下の遺跡において幻獣のオリジナルが発見される。
生徒会連合及び自衛軍は、予想される幻獣の来襲に備え、5121小隊を初めとする10個小隊を熊本城に配備、迎撃準備を整えた。
北方から来襲した幻獣は約300。各小隊は幻獣の勢いに逆らわず、風にそよぐ葦のように両脇に展開、逆に幻獣を包囲下に収める事に成功する。全力をあげて攻撃にかかる各小隊。しかし幻獣もむざむざやられるをよしとせず、強烈なる反撃を食らわせてきた。恐ろしく濃密な攻撃に崩壊しかける包囲陣。
そして、それは掃討戦となった最終段階で起こった……。
「3番機、被弾! 神経接続、照準装置に故障発生! いや、それだけじゃない。左腕部異常加熱、安全値突破! 人工筋肉筋力低下……、ボロボロじゃないか!」
「状況は正確に報告しなさい!」
善行の叱責が飛ぶが、その声もいつもより硬い。無理もない、3番機は既に一度機体を大破しており今使用しているのは予備機だ。当然機体性能は決して高いとはいえない。
瀬戸口は一瞬だけ善行を睨みつけると、まるで仇を取るかのような口調で報告し始めた。
「3番機、機体性能低下。機動力36%低下、火力52%低下、総合戦闘力で42%の低下です。おまけに人工筋肉が異常高温を発しており、非常に危険な状態です。このままではあと数分で戦闘不能に陥ります。……どうなさいますか?」
「……仕方ありませんね。3番機に後退指示を。補給車で整備の上、可能なれば再度出撃に備えるように、と」
「……了解しました」
何ともいいようのない表情で、瀬戸口は3番機との通信回線を開く。
「こちら瀬戸口。おい、速水、生きてるか?」
『……こちら速水。どうにかね』
やや雑音の入るが、それでも明瞭な声で速水が答える。
「そいつはよかった。一時後退の命令が出た。3番機は一旦補給ラインまで交代し、整備・補給の上で再出撃に備えること、だそうだ」
『仕方あるまい。さすがに現状のまま戦闘を続けるには不安がある。補給車ではすぐに整備を受けられるか?』
舞が会話に割りこんできた。普段なら文句のひとつもつけてきそうだが、今はそんな事も言ってられないらしい。
「ああ、準備万端整ってるぜ。さっさと戻って来いよ」
スピーカの向こう側で苦笑の気配。
『了解、3番機ただ今より帰還……』
ザッとスピーカに雑音が入り、そのまま通信が切れる。
「速水、芝村? おい、どうした!? 返事をしろ! 速水っ!! 芝村っ!!」
3号機を呼び出す瀬戸口の声量が段々跳ね上がっていく。そこにののみの代わりにオペレーターを代行している遠坂の報告が入る。
「3番機、左腕及び胸部に被弾! 左腕欠損、神経接続伝達率低下、……火災発生!」
「!! 3番機を呼び続けなさい!」
善行が鋭い声で命令する。瀬戸口は今回ばかりはこれ以上ない真剣さでその命令に従った。
だが、3番機からの応答はなかなかなかった。
***
一瞬の出来事だった。普段なら考えられない不運と言うべきだろう。
3号機の行動が攻勢から守勢に移るほんの一瞬、僅かに生じた隙にゴルゴーンの生体ミサイルが命中したのだ。
1発は左腕部に命中。もともと過負荷状態だった左腕はこれ以上の熱量と衝撃に耐え切れずにあっさりと爆散した。もう1発のミサイルは胸部装甲板を破砕すべく全てのエネルギーを叩きつけたが、角度が悪くエネルギーの奔流が機内に流れ込むことはなかった。だが、その代わりに内部装甲の一部が剥離し、機内を跳ね回った挙句に速水の右脇腹に命中した。
「ぐっ!!」
突然、体内に異物が差し込まれる冷たい感触があり、それはすぐに灼熱化して全身に広まった。
「厚志、どうした!?」
舞がいつもの冷静さを置き忘れたような声で前席に向かって叫ぶ。
「あは、やられちゃった……。破片が、脇腹に……」
「何だと!? いかん、抜くな! 出血がひどくなるぞ!」
「分かってる……、コマンド入力完了。補給車に向けて走行開始……」
脇腹に触れたために血に塗れた右手でようやくコマンドを入力し終えた速水がそう答えると、たちまち舞の叱責が飛んでくる。
「馬鹿! そんなものは私がやる、動くな!」
「馬鹿はひどいなあ……」
「馬鹿に馬鹿といって何が悪い、馬鹿! 指揮車、舞だ。速水が負傷した。直ちに帰還する!」
『指揮車了解。石津さんを補給車へと向かわせます。急いで戻りなさい!』
「了解! 厚志、全コントロールをよこせ!」
「了解……」
速水がどうにか操縦系を「Gunner」に切り替える。途端に3番機は事前のプログラミングを無視するような猛スピードで全力疾走を開始した。揺れがひどく、速水の出血が心配だが、この際は時間のほうが大事だ。全身から沸騰した人工血液を撒き散らしながら、3番機は最後の全力疾走を続けていた。
「石津、こっちだ! 急げ!!」
「危ないぞ! 離れろ!」
既にふきこぼれるほどの人工血液もなくなったかのように見えた頃、3番機はようやく補給車の手前数百mまで辿り着いた。しかしそこで全システムが活動限界を突破、その場に横転してしまう。
固唾を飲んで見守っていた整備員達が息を飲むまもなく、後部ハッチを蹴破るようにして舞が飛び出してきた。速水をしっかりと抱きかかえるようにして。
速水の脇腹はウォードレスの応急修理用のプラスターで破片ごと固められている。乱暴なようだが効果は抜群だ。
舞はウォードレスの倍力レベルを最高にセットすると、低高度跳躍体勢に入った。
100mも離れた頃、残った弾薬に火が回ったのか、3番機は大音響と壮絶な火柱と共に紅蓮の炎に包まれ、その短い生涯を終えた。舞は振り返りもせずにひたすら走りつづける。
「芝村さん、早くこっちへ!」
補給車から森がまるで泳ぐように大きく手招きをしながら舞を呼んだ。
***
強制解除コードを入力されて上半身の人工筋肉パットが外される。たちまち誘導ゴムのアンダーがあらわになった。石津は首の所に切れ目を入れると、そのまま一気にゴム服を切り裂き、傷口を剥き出しにする。
下手なナイフよりも鋭利な刃物となった破片を抜き取ると、すっぱりと切られて右脇腹が無残な傷口をさらす。赤黒い破孔は栓を抜かれたせいで血を噴き出させたが、その勢いは大したものではなかった。
「内臓……は、傷つい……て……ない。傷……ひどい……けど、命に……別状は……」
「ないのだな?」
石津は黙ったままこっくりと頷く。舞の目にかすかに安堵の光が宿ったのには誰も気がつかなかった。
傷口には田辺の手で止血パッドが当てられ、包帯で厳重に固定されている。速水の顔は少し青ざめていた。命に別状はなくともかなりの出血があったのだ。平気な方がおかしい。
その時、原が補給車内に入ってきた。
「いま本部から連絡があったわ。掃討戦、完了したそうよ」
一瞬、車内が明るい雰囲気に包まれる。手を取り合って喜んでいる者もいた。
だが、舞だけは表情を変えず、その口を真一文字に引き結んでいる。
「……芝村さん?」
妙な雰囲気を察して原が呼びかける。
「原よ」
「……何?」
次のセリフをある程度予期しつつ、原は答えた。
「予備の士魂号を準備しろ……単座型だ」
「予備機、起動シークエンス開始! 人工血液ウォームアップ!」
「システム起動、セルフチェック開始しました」
「出撃前チェックリスト、チェック開始」
「弾薬及び装備、規定数搭載完了!」
慌しい雰囲気の中、ただ1機残っていた単座型の予備機に徐々に生命が吹きこまれていく。整備員達が1分1秒でも早く起動出来るように全身全霊を傾けている。
「出撃前チェック、駆動系よし、火器管制系進行中……、ええい、もうっ!!」
「どうしたの、森さん?」
普段声を荒げる事など滅多にない森が悪態をつくのに驚いた原が思わず訊ねると、森が噛み付きそうな表情で振りかえった。
「芝村さんですよ! なんですかあれは!? 自分の恋人が負傷したってのにあれがそんな時に取る態度ですか!?」
幸いに、怒り心頭に達した森の叫びも周囲の喧騒に紛れてしまい、ほとんど聞こえない。
「さあね……、彼女には彼女なりの理由があるんでしょう?」
どこか投げやりな口調で原が答える。彼女も内心ではそう考えなくもなかったが、舞のいっていることも正論ではあったので、積極的に同調はしない。
「……!! 理由なんて!」
「チェックはどうしたの? 森十翼長?」
「……、現在進行中、あと5分で完了します」
「分かったわ。急いで」
「了解!」
割り切れないといった表情をしたまま森が乱暴に返答する。普段ならぜ絶対に原には取らない態度だ。よほどさっきの事が腹に据えかねているらしい。
いつの間にか原はさっきの会話を思い返していた……。
***
「1人で出るというの?」
原が確認するように言う。
「あ……速水は負傷して動けん。当然ではないか?」
「正気なの? ここの戦いは終わったのよ? 一体どこに行こうというの?」
「まだ終わっていない」
しん、と車内が静まり返る。舞の声だけがやけに響いた。
「最後の報告では西地区に幻獣の増援があったそうだ。あそこを破られては作戦全体が水泡に帰する」
「でも、だからってあなたが行く事はないじゃないですか!」
たまりかねたのか、森が口を挟む。だが舞はそれに対して冷笑するかのように答えた。
「異なことを言うな。現在増援が必要なのは明白で、そして動けるのは私だけだ。それが何か不思議か? 」
事実だった。
この時点で1番機・2番機ともかなりの損傷をおっており、再度の出撃は難しいという判定が下されている。舞はそれを多目的結晶を通じて確認したものらしい。
「われら芝村にとり、この戦場は故郷のようなものだ。戦場こそ我らが故郷。我らは戦いの中で生を受け、戦いの中に死んで帰る。我らが戦い、死しても守るべき誇りはそこにある。そして、ここでの勝利なくば、それはかなわぬのだ」
舞の声は決して荒げる事はなく、むしろ淡々と響き渡った。それだけに言葉の重みが一層皆に染み渡る。
それでも諦めきれぬのか、森が最後の抵抗を試みる。
「……速水さんはどうするんですか。負傷したままここに置いていくんですか!?」
「命に別状がないとは石津が保証してくれた。それに、負傷者を戦場に連れていっても足手まといだ」
むしろ冷徹といってもいいような声で舞が断言する。森の顔に怒りの表情が浮かんだ。
「あなたは……!!」
だが、それを遮るように原が前に進み出た。
「いいわ。すぐに準備しましょう」
「班長!?」
「整備員は全員、予備機起動シークエンスに入りなさい。……復唱は!?」
『は、はいっ! 直ちに予備機の起動シークエンスに入ります!!』
いつにない原の声に、全員が直立不動のまま答えると慌てて補給車から出ていった。後に続いて立ち去ろうとする原に、舞は
「原よ、……感謝する」
といった。原は何も答えなかった。
「石津よ、すまぬが少しだけ席を外してくれぬか?」
石津は一瞬、きょとんとした表情をしたが、すぐに心得顔で外に出ていった。
後には2人だけが残された。
「ま……い?」
速水はぼんやりとした瞳で舞を見上げた。失血のせいで意識がはっきりしていないらしい。
「厚志よ、地獄は我らの故郷だ。なんとも心休まる。我らが選ぶ道は戦いの道。だがな、厚志。そなたは……違う」
そういう舞の瞳は先ほどまでの冷徹さなどかけらも残してはいなかった。ただそこには恋人に対し優しさと気遣いの視線を向ける、どこにでもいる1人の少女がいた。
「万民のために、私は最前列で戦おう。だが、そなたをそこへ連れて行く事はできん。そなたが私のことを守るといった事を忘れたわけではない。これは私のわがままだ。だが、今回だけは通させてもらうぞ。そなたまでついてくる必要はない。ゆっくりと傷を癒せ。そして厚志よ、そなたは……生きよ」
ようやく舞の言っていることが理解できたらしい。速水はだめだというように首を振ると舞の腕を握り締めた。舞は苦笑した。
「勘違いするな、私もむざむざ死ぬつもりはない。だが、今ここでそなたをつれていけば確実に死ぬ。ここでおとなしく待っているがよい。」
納得したのか、それとも再び意識が朦朧としてきたのか、腕を掴む力が弱った。その隙を捕らえて手を外させると、逆に速水の手に自分の手を添える。
「大丈夫だ。私は必ず帰ってくる」
そういうと、舞は周囲を見まわした。頬が赤い。
「厚志……」
次の瞬間、舞はそっと速水の上にかがみこむと唇を重ねた。
どのくらいそうしていたのか、やがて二2人はゆっくりと離れた。舞は真っ赤になっている。
「舞……」
「ではな、厚志」
そういうと、舞はかすかに微笑むと、あとはもう速水の方を振りかえりもせず、いつもの芝村の表情で補給車を出ていった。
それが、速水の見た舞の最後の姿だった。
***
――必ず帰ってくると約束したけれど、結局君は戻ってこなかった。
あの後再び意識を失った僕が気がついたのは熊本総合病院のベッドの上。すべてが終わった3日後の事だった。
「……やっぱり、無茶だったんだよ……」
「包囲されて……集中……破壊……」
「遺体……跡形も……」
ベッドの傍らで誰かが話をしていたみたいだけど、良く聞き取る事は出来なかった。
――そういえばおかしなことを言っていたな? 君の身体はここにあるのにね?
まあ、今となっては確かめる術もないけれど。
ただ、君が二度と僕に微笑みかけてくれる事がないんだ、ってことだけは――
……何となく、分かった。
***
君がいない世界なんて、僕にはなんの価値もなかったんだけど。
君が世界が救われることを願っていたから。
僕にはそれしかなかったから。
――ちょっとだけ、えらくなってみることにした。
万民の為に、というわけにはいかないけどね。
だって、僕にはそんな事はどうでも良かったから。
だから、僕が世界を纏め上げるのに邪魔だった奴らは容赦なく叩き潰した。
この手がそんな奴らの血に塗れようと、僕は全く構わなかった。
そして僕は世界を治めた。
――でも君は帰って来ない。
心がどうしようもなく虚しく感じられた時には、君の姿を追いかけてもみた。
いくら集めても、集めても。
心が満たされる事は、なかったけど。
――だって、それは君じゃなかったから。
だから、やがて僕はそれらを全て捨ててしまった。
満たされないものならば、そんな者はない方がいい。
もう、どうでもいい。
だから、捕まった時にはむしろほっとしさえした。
自分の命さえも既に興味はなかったけど。
出来るものならばすぐにでも君の下へと行きたかったけど、
君のあの一言が僕を縛りつけていた。
――「そなたは、生きよ」と。
だから、僕は、殺される事だけには抵抗した。
だって、そんな事をされたら約束が守れなくなっちゃうじゃないか。
そして僕は、今ここでこうしてまだ生きている。
君の身体と共に。
――舞。いつになったら僕の心は君のそばに行けるんだい?
でもね、君ともうすぐ会うことが出来るような気がするんだ。
何故かは分からないけどね。
それまでは、今しばらくここにいることにするよ。
***
速水は立ちあがると、出口に向かって歩き出した。
ドアの所で一瞬だけ名残惜しそうに後ろを振りかえったが、そのまま出ていくと、背後でドアが重々しい音を立てて閉まった。
やがて周囲の風景が一変し、どこからか彼を呼ぶ声が聞こえてくる。
「厚志、厚志? 一体どこにいるのだ?」
やがて廊下の向こうから「舞」が顔を出した。
「こんな所にいたのか、もうすぐ夕食だぞ。早く来るが良い」
「ああ、分かったよ、舞」
速水はかすかに、ほんのかすかに寂しそうに呟くと舞の後についていった……。
***
壁一面が計測機器で埋め尽くされた研究室の中では、白衣を着た男達がいささかだれた様子でモニターを眺めていた。無理もない、彼らはここに8時間詰めどおしだったのだから。
やがてドアが開くと、金髪の、昔はさぞ美少年であったであろうことを髣髴とさせる男が姿をあらわした。その姿を見て元からいた研究員達は明らかにほっとした様子になった。これで退屈な任務からも開放される。
「お疲れさん、これ、差し入れだ」
彼――茜大介が紙袋を差し出す。
「ああ、すいません室長。助かります」
恐縮しながらも男の1人が遠慮なく紙袋を受け取った。袋の中にはサンドイッチが入っていた。
「で、どうだ? 中の様子は」
「ああ、相変わらずですね。ホログラフを相手によくまあ飽きもせずに過ごしているとは思いますがね」
サンドイッチを頬張りながら男が答える。茜はモニターを眺めながら呟いた。
「かつての世界大統領も哀れなもんだな」
「その世界大統領に粛清された人たちこそ哀れですよ。あのクーデターがなきゃもっと殺されてたかもしれないんですからね。当然の報いでしょう」
男は「実験材料」には何の興味もないといわんばかりの口調で言い返す。
「まあ、自分で作った人形さえ区別がつかないような狂人ですからね。でもせめてこれぐらいは役に立ってもらわんと」
茜は男のほうを振り向くとゆっくりと話し始めた。その声はかつてのものとは全く違い、深く、重みのある声に変わっている。
「狂人ではない。あれは一種の健忘症だ。過去の記憶があれが人形だってこと自体を忘れさせてしまったんだ。彼女の遺体は骨すら残らなかったからな」
「いっそのこと彼女のこと全てを忘れちまえば苦労もないでしょうに……」
「忘れる方が辛かったんだろう。お前たちにだってそんな記憶のひとつや二つはあるだろう?」
「そりゃそうですけどね……」
「そういう奴だったよ、あいつは。彼女以外は眼中にないといった感じだった……」
「室長?」
「なんでもない。おい、それより……」
茜は今度は少し怒りを含んだ声で研究者に向かって言った。
「ホログラフのプログラマーに文句を言っておけ。風景はともかく人物行動パターンにバグがあるようだ。せっかく予測のつかない奴が相手なんだから、この機にもっとプログラムを練っておけとな」
そう言いながら鋭い目を研究者に向ける。
「は、はい、分かりました。この後すぐに連絡しておきます」
研究者は緊張に汗を吹きながら答える。
「フン、まあいい。確実に言っておけよ。どうした? 交代の時間だ。もういいぞ」
「は、はい。では第2直をお願いいたします」
茜はぞんざいに返事をすると軽く手を振った。研究員は失礼にならない程度に慌てて部屋を出て行く。そんな様子を気にもかけずに茜は再びモニターに向き直った。モニターの中では速水が「舞」を相手になにやら談笑している。その表情は楽しげだったが、ほんの僅か哀色の感情が混入されているようでもあった。
すぐ近くに誰もいないことを確認してから、茜が低い呟きをもらす。
「速水。せいぜい感謝するんだな。海底での生存実験と称して芝村の死亡した戦闘を延々追体験させるという案を退けたのは僕なんだからな。まあ、せめてその中で好きな様に余生を送るがいいさ」
いつものことだが、茜は今の速水の姿を見ているとどうしても不機嫌になるのをおしとどめる事ができなかった。その昔、母が死んだ事が信じられず、いつまでもその帰りを待ちつづけていた自分が思い起こされるからだろうか?
「フン、くだらん……」
だが、その瞳にはかすかに揺れていた。
茜は軽く頭を振ってその想いを追い払う。そして、生体モニターにちらりと目を走らせた後デスクに向き直り、記録をつけ始めた。
「2020年10月25日午前8時、海底実験施設第7号。実験開始より5年と125日。実験体1名生存中。内部は劣化が見られるも基本的に異常なし。実験期間残りあと94年と……」
彼の頭上にある生体モニターには”実験体心臓疾患 level3”の文字が赤く、鮮やかに表示されていた。
舞、舞。僕の愛しい人。
いつまでも、愛しているよ……。
(おわり)
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