混沌
月が赤い。
もう一度見たときには濃いオレンジで、気のせいかと思った。
今夜の月は人を惑わす。
毛皮を使ったファーコートにカシミヤのマフラー。全てを上質な衣類に身を包んだヒル魔が靴音を立てて向かってくる。
良質な革手袋に顎を捕らえられ上を向かされる。何をされるのかと思って身構えるもヒル魔は特に気にした様子もない。
「‥‥‥、」
歯を食いしばって目を閉じると仰け反って晒された喉元に歯を立てられた。
「…ッゔ、」
ヒル魔の鋭く尖った犬歯は皮膚を突き破って血が流れる。それをざらりと舐められると同時に痛みがなくなり、気付けばヒル魔は居なくなっていた。
喉元だけがやけに熱い。
* * * * * *
vampire──それがヒル魔の正体。
噎せ返るような薔薇の薫り──屋敷を取り囲むようにあるローズガーデン。
窓のないコンクリートの地下室に繋がれていたときはよくわからなかったが、窓のある地下牢に変わったときに薫りの正体が分かった。
彼方此方に薔薇が咲き乱れている。
錠の鍵はヒル魔が持っていて、ずっとここに監禁されてる状況。ついでに暴行凌辱レイプ強姦エトセトラエトセトラ。
「おいっ、勝手に触ったら殺されんぞ」
半裸のままバイブを突っ込まれて、それがどーも見張り役の男たちを触発するみてぇな。
吐き気が酷い。何日も喰ってねぇから死にそうだ。それなのに吐き出すから頭も痛ぇ。
「…助けてやろーか」
見張り役の男たちの手に陥る寸前、鉄格子が嵌められた窓の外から声がした。
じっと見られる視線を感じて声のした辺りに目を凝らすと雲が晴れ、月明かりに照らされてヒトがいるのが確認出来た。
「…やられちまうぜお前」
そいつはクックッと笑ってそう言った。
それはそれでいいけど。後がこわいな。
もうそこまで来ている奴等を見ると厭な笑みが見えた。ゾッとして縋る気持ちで口を動かした。
あんなもの、喰いたくもねぇ。
「…助け、」
瞬間、バキッと音がして鉄格子が折れた。ヒトの貌をしたそいつは窓から降り立ち、鎖を引き千切ると俺を抱えて冷たい風の中を飛んだ。
「…なんだ…お前…?」
「忘れた?」
なんとなく聞き覚えのある声。顔を見ながら記憶を掘り起こす。
「……お前…」
金剛阿含。
阿含は炎の中で産まれたドラゴンの亜種。だったよな、確か。
「アゴン。阿含、な。にしてもなんでお前がヒル魔ンとこにいんだよ。あいつが悪魔って知ってんのか?」
「悪魔?」
ヴァンパイアじゃねーの。
「吸血鬼も悪魔みてーなもんだろが。特にヒル魔はヴァンパイア族の中でも最高位の伯爵の位だ。サタンのルシファーと懇意で、デーモン族とも強いパイプを持ってるっつう、嫌なヤローだ」
阿含は散歩をしていたら珍しい匂いがして俺を見つけたらしい。
* * * * * *
「──また粗相したな。どんだけイッたんだ?」
「ぅ゙…ンっ、」
「…ケケケ。もう終わりか?あ゙?阿含のヤローも誘ったみてぇだしなァ」
呆気なくヒル魔に見つかって連れ戻された。阿含はどうしてんだろう。
考えても仕方ないことをつらつらと考える。
「んン‥っ、ぅ」
また元通りの日々。でもちょっと違った。
バイブを突っ込まれたまま放置されんのは変わってねーけど、場所が地下牢みてーなところからベッドルームと言える寝室に変わった。ヒル魔の寝室らしく、毎晩ここに帰ってくる。
そして見張り役の代わりに監視カメラになった。
「お前は逃げらんねーんだよ」
どのくらい経ったか。
カチャリと音がして腕と足の鎖が外された。同時にバイブも抜かれて。
「ヒル魔様っ…我々がしますのでお休みになられては…」
「お前らがまた変な気を起こさねーとも限らねぇだろ」
「………………」
ヒル魔に担がれて連れて行かれた先は風呂場。
長時間縛られていたせいか身体が思うように動かない。それをヒル魔は優しい手つきで洗い、体を拭き、髪を乾かし、俺を抱き締めて寝る。
阿含に助けてもらったのに俺はヒル魔の側に戻れて良かったと思ってる。
なんで……
堕ちていく。そう思った。
視線の先の真っ黒な遮光カーテンの隙間からうっすら日差しが差し込んでいるのが分かる。
「………眠れねぇ?」
後ろから囁くように言われて前を向いたまま頷く。
「………ッ、」
舌の感触を項に感じる。
「ん…ぅ、っ」
首筋に甘い痛み。
「あ、」
「犯してやる」
腹の奥が痺れた。