リピカの箱庭
104

集会所に向かう間もまだ狼煙は上がらなかった。まさか、ここで失敗などありえるのか。何もかも知っている通りに動くはずがないと知っていても信じられない気分だった。
集会所のいくらか手前、神託の盾兵が集まっている中――見覚えのある姿があった。
「っ、六神将!」
「ガルディオス伯爵か!」
六神将の一人、リグレットだ。もう街中まで入り込んでいるとは。エドヴァルドが剣を抜く。私もすぐに譜術を発動できるように構えた。
「閣下はここにはいらっしゃらない。邪魔をするな、ガルディオス伯爵」
ついあたりを見回したのにリグレットが告げてくる。私はそれを鼻で笑った。
「邪魔をするな、ですか。それはこちらの台詞です。手を出してただで済むとでも?我々にも備えはあります」
「傭兵団か。だが、そんなもの相手をせずとも研究者を始末すれば良いだけの話」
「……」
ほぼ準備は整っているはずだが、狼煙は上がっていない。研究者がいなければ譜術障壁も発動できない。彼らが役割を果たすまで時間を稼がなくてはならないのだ。
幸いと言うべきか、周りには神託の盾兵が集まっている。私は唇を歪めた。
「そのわりには随分とこちらへ戦力を割いているようですね」
「……貴様にはここで死んでもらう」
「それがヴァンデスデルカの命令ですか?」
「貴様に何がわかる!」
銃口を向けられるが、それを阻んだのはエドヴァルドだった。容赦のない一閃が銃口を逸らす。私もその隙に譜術を発動した。
「跪きなさい、フォトン!」
「ぐっ!くそ、かかれ!」
リグレットに直撃はせず、激昂した彼女は周りの神託の盾兵に命令を下した。こちらが囮になるのは構わないけれど、多勢に無勢である。しかも逃げ遅れた研究者や一般人がいると考えると派手な譜術は使えない。
「エドヴァルド、詠唱の間凌ぎなさい」
「御意!」
しかたがない。息を吐く。奥の手を温存したまま落ちることほど間抜けなことはない。
私は意を決して眼帯を外した。音素の取り込み量が急激に増えて、体の中を渦巻くそれに蹂躙されそうになる。拳を握って耐えながら、詠唱を紡いだ。
「其は戒めの鎧、我に仇なす者の枷となれ。――ディカプル・グラビティ!」
「ぐうっ!?」
ガシャン!と派手な音を立てて重装備の神託の盾兵たちが地に伏していく。そう、特定の周波数を持つ物質の重力のみを増すこの譜術の対象は最初から重装備の兵だけだ。一般人は巻き込まれても軽傷だろう。
同時にリグレットが銃を取り落としたのを見てエドヴァルドは躊躇いなく剣を振るった。
「あぐっ!なっ、ぁ……」
どさりとリグレットが倒れる。私も崩れ落ちそうになったが、どうにか持ちこたえた。ここで倒れるわけにはいかない。しばらくは暴走を誘発しかねないので譜術を使えないのが不安要素だけれど、行くしかない。
「レティシア様!ご無事ですか!?」
「問題ありません。早く、集会所――いえ、港へ行きましょう」
「はっ!」
眼帯をつけ直して再び集会所へ向かおうとしたところで狼煙が上がったのが見えた。ということはガイラルディアたちはもう港へ向かっているのだろう。リグレットは倒したが、ヴァンデスデルカかここにはいないと言っていた。つまり、港にいるはずだ。
できればリグレットを捕縛しておきたかったところだけれど時間がない。あとは叔父様たちに任せよう。

エドヴァルドと共に急いで向かった先の港には、すでにガイラルディアたちが到着していた。剣戟の音が響くのに私はエドヴァルドに命じる。
「エドヴァルド、……ヴァンデスデルカを止めなさい」
「仰せのままに」
私に合わせて走っていた彼のスピードがぐんと上がる。エドヴァルドの実力は我が家の騎士の中で頭一つ抜きん出ている。鋭い刺突はヴァンデスデルカの受け太刀で防がれたが、確実に一歩下がらせることができた。
「ぐぅっ!?おまえは……」
「我が名はエドヴァルド・ノルン・ナイマッハ!ガルディオス家が盾、左の騎士が相手しよう!」
「そうか、エドヴァルド……!おまえか!」
ヴァンデスデルカもエドヴァルドのことを覚えているのだろう、唸るように呼ぶ。その隙に私は迷っているように見えるルークに声をかけた。
「時間がないのでしょう、早く行きなさい!」
「でも……!」
「我が騎士はここで斃れません。あなたのすべきことは何なのです」
ぐずぐずしていたらこれまでの準備が全て無意味になってしまう。今成功させねば地殻の振動停止の難易度は跳ね上がるだろう。シェリダンの街の研究者に被害が皆無とは思えないし、リソースだって無限ではない。その結果地殻の降下作戦自体が失敗したとなれば目も当てられない。
「ルーク!ここはレティに任せるんだ。レティ、頼んだ」
「任された、ガイ」
剣を抜く。他の神託の盾兵の姿は見えないが、確か邪魔が入るはずだ。そう――彼のように。素早く動く影に短剣を投げると避けられたが、足止めは成功した。
「っ!くっ……ガルディオス伯爵か」
「行かせはしませんよ。あなたには礼もしなくてはなりませんからね」
ガイラルディアにカースロットなんぞを施したのは目の前の彼、シンクだ。仮面の下の顔を歪めながら襲いかかってくる彼と斬り結ぶ。
「礼?何のこと?いちいち覚えてるほど暇じゃないんだ」
「おや、レプリカは記憶力も劣化しているのですか?」
「チッ……ムカつくやつだなあ、ホント!」
煽ると攻撃が直線的になるのは精神が未熟だからだろう。この辺りはちょっとアッシュに似ている。良心が痛むのであまりこの手は使いたくないのだけれど、そうでもしないと譜眼の後遺症で譜術が使えない今シンク相手に無事ではいられない。
「何のつもりでオリジナルを助けた?ふざけるなよ」
「私は博愛主義者なので、死にかけの子どもに手を差し伸べるくらいはしますとも。あなたとて我が手を取る権利があるのです」
「つまらない綺麗事か。"ホドの真珠"サマはお優しいことだ」
「たった二年でこの世に絶望するなど視野が狭い証拠ですよ、レプリカイオン。まあ、私も人のことは言えないのですが」
タルタロスは港を出て離れていく。そろそろ機動力に優れたシンクでも追いつける距離ではないだろう。虚と実を入り混ぜたおしゃべりも大して面白くはないし、終わらせてしまいところだが。
それにしても、シンクは私がイオンを助けたことを恨んでいるのか。オリジナルの生存はレプリカにとってかなり鬼門なのだろう。導師は折り合いをつけられたようだったが、シンクはそもそもこの世界そのものを憎んでいる。その上でイオンとわかりあうことの難易度はあまりに高い。生まれた直後に自我を与えられた状態で不要と断じられて破棄されそうになれば、そうなることを誰が責められようかという話だけれど。
「さて、まだやりますか?そこまで私が憎いのならお相手して差し上げなくもないですが」
先のリグレットといいネイス博士といい、六神将の面々には妙に恨まれてる気がする。本当は相手なんて微塵もしたくないが、ちらりと見るとヴァンデスデルカとエドヴァルドのほうも睨み合いが始まっていたのでここらが引き時だろう。
「シンク、下がれ」
「……チッ」
ヴァンデスデルカの一言でシンクは口惜しげに刃を引いてあっという間に姿を消した。私もエドヴァルドに命令する。
「エドヴァルド、剣を下ろしなさい」
「お嬢様、ヴァンはここで私が!」
「あなたがヴァンデスデルカを殺すことは許可しません」
できるかできないかの話ではない。エドヴァルドは弾かれるように私を振り向いた。ヴァンデスデルカの視線もこちらを向く。
「……レティシア様」
「言ったはずですよ、ヴァンデスデルカ」
――死んではなりません。
その言葉を忠実に守るのなら、ヴァンデスデルカの理想とする世界は実現するはずがないのだ。だってオリジナルをレプリカで置き換えた世界では、オリジナルは一人残らず死ぬ。ヴァンデスデルカとて例外ではない。
「それが……あなたの理由ですか」
「私はあの時から変わってなどいません」
ヴァンデスデルカに言うべきことだってそうだ。何一つ変わってなんかいなかった。あの時告げたそのまま、同じことを繰り返すしか能がない。
今ヴァンデスデルカが戻ってくるのなら、私は喜んで受け入れるだろう。ありえなくたってそう願う。私は、私が救えなかったままのヴァンデスデルカに手を伸ばしたい。
だから私の命令でエドヴァルドがヴァンデスデルカを斃すことは許可できない。今ここで決着をつけなかったことで今後どんなに被害が広がろうと、私はそうなのだ。
「……それは、」
ヴァンデスデルカはかすかに微笑んだ。まるで安堵するように。
「ならば、またお会いできるでしょう」
そう言い残してヴァンデスデルカは踵を返す。私は黙ってその背中を見送った。エドヴァルドが剣を下ろして、鞘に収める音でようやく我に返る。
「お嬢様、あなたは……」
「私には覚悟も資格もないのです、エドヴァルド」
エドヴァルドのほうを見ないまま呟く。ガルディオス家の当主として、やはり私はふさわしくない。ファブレ公爵に斬りかかり、グランツ謡将を斃すことを厭うなど、今この状況でそうあるべきではちっともないのに。
何とも決別できていない私は、このままでいる覚悟だけを決めるしかないのだ。
「……ですが」
「少し……休ませてください」
息を吐いて眼帯をつけたほうの目を手で覆う。とりあえず、これでもう地殻の振動を止める作戦の邪魔はないだろう。あとは――後のことは、まだ考えられていない。
「誰もあなたを責めはしません、レティシア様」
エドヴァルドの手が私の体を支える。
ホドを出たときからずっと私に仕えてくれていた彼は全てを知っていて、それで責めないでいてくれる。それはいくらかの救いに思えた。


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