リピカの箱庭
89

「ガラン!」
吼えるように呼ばれてつい立ち止まってしまった。
陸路でグランコクマに入るにはテオルの森を必ず抜けなければならない。ということで、私はダアトにいる間にグランコクマの屋敷へそのうちテオルの森を通るということを連絡しておいたのである。海路とテオルの森が封鎖されていると軍人――カーティス大佐でもこの手の連絡には時間がかかるのだが、こっちには電話という手段がある。中継地点のエンゲーブから電話を一本入れれば済むというお手軽さだ。存在自体も知られていないので今は秘匿するのに手紙の暗号程度で済むのも楽だった。
本当自分でも連絡を入れたかったのだけど、急いでいたのでローテルロー橋からまっすぐ北上して寄り道する時間はなかった。ケテルブルクで十分物資を補給できたおかげもある。基本的にグランコクマとアクゼリュス間のルートでしか線は引いていないので慣れてしまうと少し不便だ。
そんなわけで誰かしら派遣されていたら話が早いと思ったのだが。まさかアシュリークとは。私を認めた途端に猛ダッシュで駆けてきた勢いにちょっと引いた。
「マジ、でっ、お前……!」
「アシュリーク、止まりなさい!」
私は誰だか知っているが、周りはそうでもないのだ。急接近なんかしたら警戒されるに決まっている。慌てて命令するとぴたりと私の数歩前で立ち止まってから傅いた。後ろからやってくるのはヒルデブラントだ。こっちもわざわざ傅く。いやそんな畏まらなくても。
「ガルディオス伯爵、ご無事で何よりです」
「ヒルデブラント。あなたもいたのですか」
「はい。交代でお待ち申し上げておりました」
いつ到着するかは分からなかったので負担をかけてしまって申し訳ない。とりあえず二人を立たせて、それからアシュリークの顔を覗き込んだ。
「アシュリーク、顔色が悪いようですが」
「……」
今度はむっつりと黙り込んでこっちを睨んでくるので、私はなんとなく気づいた。これ、アシュリークめちゃくちゃ怒ってないか……?周りにカーティス大佐や導師がいなかったらいつもの調子で怒鳴られてたような気がする。やばい。
森の見張り兵にも話は通してあったようだったけど、私が顔を出すとものすごく驚かれた。
「ガルディオス伯爵!本当に生きておられたとは……!」
二人のうちの一人は涙ぐむほどだったので、こちらもびっくりしてしまった。涙をぬぐった彼女は首を横に振って体勢を正した。
「申し訳ありません、私ホドグラドの出身でして」
そう言われてみるとどこか見覚えがある気がする。まだ若い、アシュリークやルゥクィールと同年代だろう。私も塾に通っていたのでそれくらいの年代の子供ならだいたい顔を覚えていた。
私が本物であることは証明されたとして、無事に全員でテオルの森に入ることができた。少し薄暗い中をざくざくと歩いていると、中ほどまで差し掛かったところで倒れている人影が目に留まった。
「マルクトの兵が倒れていますわ!」
真っ先に駆け寄ったのはナタリア姫だった。そんな彼女の頭上から剣が振り下ろされる。――隠れていたのは六神将の一人だった。
咄嗟に飛びのいて弓を構えたナタリア姫に、その大男はニヤリと笑う。
「お姫様にしてはいい反応だな」
「おまえは砂漠で会った……ラルゴ!」
ちり、と背筋を嫌な予感が這い上がった。この展開は、そうだった。
「なぜ六神将がこんなところに!グランコクマに何の用だ!」
「前ばかり気にしていてはいかんな。坊主」
「え?」
噛みついたルークがそんなふうに言われて振り向く。すでに一歩踏み出していた私は膨れ上がる殺気から庇うようにルークとその剣の間に割り込んだ。
だめだ。ガイラルディアが、彼を傷つけるのは。
「ガイ!?」
「ガラン!」
斬られた背中が熱い。ルークごと倒れ込んで、後ろを振り向く余裕はなかった。信じられないものを見たという顔でルークが呆然とガイラルディアを見上げている。
「っ、ぁ、ぐ、姉上……!」
ガイラルディアのその言葉にはっとした。まさか、今なのか。今、思い出してしまったのか。
結んだ髪がぱさりと解けて顔まで落ちてきた。キン!と刀が触れ合う音がして、ようやく振り向くとヒルデブラントがガイラルディアの剣を受け止めていた。
「う、うう……ああ!」
「貴様ッ!何をする!」
苦しげに呻くガイラルディアに鼓動が速くなる。早く、どうにかしないと。そのためには。
「いけません!カースロットです!どこかにシンクがいるはず……!」
導師の言葉に少しだけ平静を取り戻せた。そう、ガイラルディアは操られている。ルークの上から体を起こそうとするとふらついてしまって、我に返ったらしいルークに肩を抱き止められた。
「伯爵、無理しないでください!おい、ノイ!」
「分かってるよ!」
駆け寄ってきたイオンが私の傷の上に手をかざした。ラルゴはナタリア姫とメシュティアリカが牽制していて、ガイラルディアの相手はヒルデブラントとカーティス大佐がしているようだった。アシュリークもこっちに駆け寄ってくるが、どうにか顔を上げて命令した。
「ガイを操っている術者を探せ!」
「はっ、分かった!」
長く続く術ではないと思うが、一刻も早く解かなくては。イオンが厳しい目であたりを見回す。ルークが私を支えながらイオンに話しかけた。
「なあ、カースロットって」
「お前の従者は操られてるんだよ。今もお前を狙っている」
あくまでルークを狙っているガイラルディアは二人に阻まれながらも隙あらばすり抜けようとしている。「どうして俺を……」ルークが呟いたのにはイオンは返さなかった。その前にアリエッタが叫んだからだ。
「いました!上です!」
「っしゃ!」
シンクを見つけ出したアリエッタの指示でアシュリークが身軽に木を駆け上る。居場所がバレてはとどまっていられなかったのか、物音がしてシンクが落ちてきた。
「チッ、魔物使いめ」
そしてこちらに一直線に襲い掛かってきた。狙いは――イオンだ。アシュリークとアリエッタは間に合わない。イオン自身も治癒を終えたばかりで咄嗟に動けない。導師はアニスが守っているからか、こちらを狙ってくるとは。私は身をよじって懐の短剣を抜くと振り向きざまにぶん投げた。
「っ!」
「跪け!フォトン!」
隙ができたところに譜術をぶち込む。急ぎの譜だと精度がいまいちだったのでかするくらいだったが、シンクは突撃を諦めたようだった。じり、と距離を取ろうとする。
「またどこかの封咒を解くつもりか」
導師のその力が必要なら、それはイオンでも構わないのだ。まさか狙ってくるとは思わなかったが。
「……あんたには関係ないね」
「関係ないだと?カースロットなんぞを施しておいてよく言う」
傷は塞がったので立ち上がる。ガイラルディアを利用されたことに一番腹が立っていた。イオンが「ちょっと」といさめてきたが正直冷静ではいられなかった。眼帯に手をかける。
「何の騒ぎだ!」
そこでマルクト兵が騒ぎを聞きつけてきて、シンクとラルゴは速やかに退却していった。逃げ足だけは早い連中だ、舌打ちする。ガイラルディアもカースロットの範囲から外れたようで意識を失って倒れていた。
「伯爵!お怪我は」
剣を納めたヒルデブラントがこちらに駆け寄ってきて上着を手渡してくれる。というか今着ているのもアシュリークからの借り物だったんだけど背中が破けてしまった。新調して返してやらないと。
「傷は浅いので大したことありません。それより……」
痛みには慣れているし、すぐ塞いだのでもう動けるくらいだ。ちらりと見おろすとルークがガイラルディアの横に膝をついて体をゆさぶっているのをメシュティアリカが止めていた。地面は土だけど倒れたときにどこか打っているかもしれないので安静にしていた方がいいだろう。
「ガイ!おい、大丈夫か」
剣を向けてきた相手にもかかわらず無防備に呼びかけるルークに胸がぎゅうと痛くなった。呼びかけに応えるようにうっすらと目を開いたガイラルディアは低く唸って、そしてこちらを見上げてきた。
「あねうえ……」
ガイラルディアはまだ混乱しているみたいだった。ひくりと喉が震える。手が伸ばされて、だから私は咄嗟に膝をついてその手を握ってしまった。
弱弱しく握り返される。ゆっくりを瞬きをして、それから目の焦点が合う。
「おもい、だしたんだ、レティ。あねうえ、は、俺は……」
「うん、ガイ。大丈夫、今は休んでいて」
「……ごめん」
瞼が下ろされる。ガイラルディアは今度こそ意識を失ったようだった。ルークが何か言いたげにこちらを見てくるが、まだ答えるつもりはない。
「早く森を抜けましょう。また神託の盾兵が襲ってくるとも分かりません」
「そうですね」
カーティス大佐だけは全て見透かしているような顔をしている。だから厄介なんだ、この人は。アシュリークにガイラルディアを運ぶ手伝いを命じて私は拾った短剣を鞘に戻した。


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