リピカの箱庭
幕間19

さらりと髪の毛が目の前で揺れた。広がった髪越しに、ガイの表情が見える。
苦しみを煮詰めたような顔だった。憎悪と、悲哀と、焦燥と、後悔と。ガイのそんな表情なんて見たことない。顔色もひどくて、それでも剣を振るう手は止まらなかった。まるで何かに操られているみたいに。
「ぁ、ぐ、姉上……!」
何を見てガイはそう言ったのだろう。キィン!と金属同士がぶつかり合う音がする。ルークははっとして自分の上に倒れてきた体に視線を下ろした。まとめていた髪が解けて、背中の傷の半分がその下に隠れている。その体が自分の上からどこうとして傾ぐのに気がついてルークは慌てて抱きとめた。
「伯爵、無理しないでください!おい、ノイ!」
「分かってるよ!」
ナタリアとティアはラルゴと相対している。なのでイオンと同じ顔をした少年を呼ぶと、わざわざ言わなくていいと言わんばかりにすぐに駆け寄ってきた。
治癒術でみるみるうちに傷が塞がっていくのを見てほっとする。それからルークは自分が支えている体が妙に頼りないことに気がついた。着ている騎士服はワンサイズ上だし、首は細く上着の中に隠れている。二の腕もルークが掴んだら指が一周しそうなくらいだった。違和感が首をもたげて、その前に伯爵の鋭い瞳が振り向いた。
「ガイを操っている術者を探せ!」
その命令は騎士の一人に向けられたものだったらしい。あれ、とルークはまたひとつ違和感に気づいた。今、ガイのことなんて呼んだ?
けれど剣戟が響く中で些細な違和感などすぐにかき消えた。ルークは剣を振るうガイを見てノイに視線を戻した。
「なあ、カースロットって」
「お前の従者は操られてるんだよ。今もお前を狙っている」
それはルークもわかっていた。ガイが狙っているのは他の誰でもない、自分だけだ。
「どうして俺を……」
ガイの表情が脳裏にこびりついている。ガイがあんな敵意を自分に向けたことなんて、これまであっただろうか。剣を、本気で命を狙うような切っ先を向けてくるなんて。ただ一人自分を見捨てず、アラミス湧水洞で待っていたあのガイが。足元の支えが崩れていくような心許なさがあった。
きっと、そういうふうに操られているんだ。そう考えようとしてもどうしてか不安が拭えない。
そうしているうちにアリエッタが術者――シンクを見つけ出して、居場所のバレたシンクはノイに狙いを定めたようだった。てっきりイオンを狙うと思っていたルークが動けないでいる間に伯爵が懐から取り出した短剣でシンクを牽制する。そんなに動いては、と血まみれの背中を止める暇もなく譜術での攻撃をしかけていた。
明らかに自分と違う、ルークはそう思った。道中でもそうだった、伯爵は貴族であるはずなのに戦い慣れている。傷を負ってもその気迫は微塵も翳らなかった。
「またどこかの封咒を解くつもりか」
ぞっとするほど冷たい声色で伯爵がそう吐き捨てた。従者であるノイに対しても――敵国の人間に対しても丁寧な言葉で喋る伯爵が苛立っていることはルークにも分かった。距離をとったシンクが仮面からのぞく唇を歪める。
「……あんたには関係ないね」
「関係ないだと?カースロットなんぞを施しておいてよく言う」
伯爵が次の手を打つ前に、マルクト兵の声がしてシンクとラルゴは素早く撤退していった。剣を持つこともせずにぼんやりと見上げるしかなかったルークは、ガイが倒れたのを見て慌てて駆け寄る。
「ガイ!おい、大丈夫か!」
「ルーク!揺さぶっちゃダメ。落ち着いて」
でも、と言い募りそうになったのをどうにかこらえた。ガイのことを第一に考えるなら自分勝手に動いてはいけない。そうしているうちにガイがうっすらと目を開いたのでルークはほっと息をついた。
けれど、その安堵はすぐに霧散する。
「あねうえ……」
誰に向かって言っているのか。ルークはガイが力なく手を伸ばす先を見つめた。傷を隠すために騎士の上着を羽織ったガルディオス伯爵が立っている。髪を下ろしたら女性に見えなくもない。
いや。ルークははっと気づいた。違和感が明確な形になる。なぜ気がつかなかったのか。――ガルディオス伯爵は女性だ。
じゃあ、どうして。そっと膝をついて当たり前のように手を取ったガルディオス伯爵にルークは戸惑う。ガイはどうして平気なのか。ガイが女性恐怖症であることはルークがよく知っていて、だからガイが平気で抱えていた伯爵のことを男性だと思っていたのだ。ガイが伯爵を触れられて恐れるそぶりを見せたことはルークが知っている限り一度もなかった。
「おもい、だしたんだ、レティ。あねうえ、は、俺は……」
苦しげにガイが呻く。背を丸めたガルディオス伯爵の髪が肩から流れ落ちた。
「うん。ガイ、大丈夫。今は休んでいて」
「……ごめん」
ガイの体からふっと力が抜ける。ガルディオス伯爵は沈黙して、ガイの手をそっと離した。どういうことなんだ、まだ頭の中は混乱している。ルークは縋るようにガルディオス伯爵を見たが、伯爵は何も答えず立ち上がった。
「早く森を抜けましょう。また神託の盾兵が襲ってくるとも分かりません」
「そうですね」
ジェイドが伯爵の言葉に頷く。マルクト兵が駆けつけているから平気だとは思うが、ガイをこのままにはしておけない。ルークが自分より背の高い体を支えようとすると、伯爵に命じられた騎士が反対側からガイの肩を掴んだ。
「あ、えっと、悪い」
「……」
じっと見つめてくる視線は落ち着かない。騎士の顔はアクゼリュスで見た覚えがあった。ルークがどんなふうに振舞っていたが、知っていてその態度なのだろう。いや、そもそもガルディオス家の騎士なのだ、ファブレ公爵家のことをどう思っているのか。
「こいつ、お前の従者だよな」
騎士に問われてルークは頷いた。眉間にしわを寄せて、騎士はガイの伏せられた顔を見つめる。
「名前は?」
「ガイだよ。ガイ・セシル」
「……セシルか。それにガイ」
「ガイがどうしたんだ?それに、伯爵は……」
騎士はそれきり黙り込んでしまったので、ルークも口をつぐむしかなかった。一体なんだというのか、自分は何を知らないのか。心の中がざわつく。
ずっと一緒にいたガイでさえ自分に大きな隠し事をしている。ひどく心もとなくて、胸に空いた喪失感はもう無視できないものになっていた。


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