胡蝶の舞
幼少期編-9

窓の外を見上げると雨がまだ降り続けていた。ここのところずっとこんな調子だ。空も見えないし、庭に出ることもできない。雨の日は濡れて風邪をひくかもしれないと外に出ることを禁止されていた。退屈だ。屋敷をうろついてみても今更目新しいものはない。
「レティシア」
私にそう声をかけるのはこの屋敷では父上だけだ。今日は休みなのだろうか、騎士団の制服は着ていない。
「ちちうえ」
「何をしている?」
「さんぽ」
父上は眉を上げた。予想外の答えだったらしい。
「……この天気だからな。とはいえ家の中で散歩か」
「ひろいから、さんぽできる。ちちうえはやすみか」
「ああ」
晴れていたら稽古もできたかもしれないのに。ますます雨が憎く思えてくる。父上はそんな私を見て苦笑した。
「雨が降っているからと言ってそう拗ねるな。雨は大地の恵みだからな」
「めぐみ」
「雨が降らねば水も枯れる。水道魔導器があっても水源が枯れては元も子もないのだよ」
魔導器というのは生活インフラの役割も担っているらしい。言われてみれば、下町で水道魔導器が壊れたのが物語の発端だった。水道が壊れては困るのはよく分かる。
「とはいえ、厄介なのも確かだがな。濡れて体調を崩す者もいる」
「ちちうえのぶか?」
「そうだ」
騎士の仕事も大変なんだろう。雨が降っても休めないのだから。父上がゆっくり歩くのについて行きながら声をかけてみる。
「ちちうえ」
「なんだ」
「デュークはぶかじゃない」
「そうだ。そもそも上下関係はなかったが、デュークは騎士団を辞めてしまったからな」
「なんでやめた?」
父上が開いた扉をくぐる。扉を後ろ手で閉めた父上は顔をしかめていた。
「デュークが気に入ったか?」
「いやなかんじはしない」
つまり、私を嫌っている雰囲気がない。今のところそんな人はダミュロンと父上とデュークしかいないので、好ましい部類に入る。
父上は複雑そうな表情のまま部屋の簡易キッチンに立った。お茶を淹れるらしい。私は父上が湯を沸かすのを足元で見上げていた。
「……騎士団など所詮は貴族の子弟の溜まり場だ。ろくなものではない」
ぽつりと言葉が降ってくる。それ以外は雨が窓を叩く音と薬缶を熱する火の音だけが聞こえてきた。
「デュークはそれに嫌気がさしたのだろう。理想が高いほど、ここは正しい場所ではないと思える……」
それは、父上もなのだろうか。そんな重苦しい呟きだった。騎士団は理想を掲げられる場所ではないと思っているのだろうか。
「ただしいばしょは、どこだ?」
ざあざあと雨が降っている。父上はしばらく答えず、聞こえなかったのだろうかと思い始めたところでようやく答えが返ってきた。
「帝国にそんな場所はない」
「……ていこくのそとにあるのか」
「いいや、ギルドも所詮はならず者の集まりだ。私は騎士団を変えなければならない。腐った評議会の犬に存在価値はないのだ」
そこで言葉は途切れた。父上は火を消すと薬缶を持ち上げた。熱湯が勢いよく注がれていく。
違和感が頭の片隅に引っかかった。そう、デュークに会ったときのように。私は知っているのか?――一体、何を?
「レティシア、お前に流れている血は穢れてなどいない。あれも、そうだったのだろう」
いきなりそう言われて私は目を瞬かせた。それまで抱いていた違和感は吹き飛んでいた。私の血?何の話だ――母の話かと思い至る。しかし母の血が一体なんだというのか、心当たりはない。
「どういういみだ」
「貴族や平民といった区別に意味などないのだ。真の繁栄は貴族が特権を占有している現状ではままならない」
話が遠回りすぎる。えーっと、ちょっと待ってほしい。つまり、血が穢れているとしたらその原因は「平民」にあると言いたいのか。
「おかあさまは、へいみんなのか」
「あれは妾の子だったのだ。貴族になったのは私と結婚をさせるためだけだろう」
眉をひそめる。とりあえず、この屋敷の使用人たちが私を嫌っている理由の一つが母の出自にあるらしいことはわかった。貴族になったのは父上と結婚するためだけというのはよくわからない。母から望んだわけではないだろう。
父上はトレイごとティーポットを持ち上げてソファの前のテーブルに置いた。私もソファによじ登って座る。二つのカップになみなみと液体が注がれて、こんなに注がれるとカップが熱いし零しそうなので勘弁してほしいと思う。しかし父上は平気らしくカップを手にとって紅茶を啜った。
「知識や技術は分かりやすい指標だ。お前の血にとやかく言う者はそれでねじ伏せるのが一番いい」
母の話は終わりらしい。もやもやしながら、父上もわりと変わっているのだろうなと思う。
作中では貴族と平民の差は結構あったのに、それを意味がないと言うのは思い切った考えだ。実力主義であり続けるのは貴族の子弟の溜まり場という騎士団ではやりにくいだろうに。それだけの実力が――他人をねじ伏せる力があるという自負だろうか。私はまだ湯気が立ち上るカップに手を伸ばした。持てないほど熱くはない。
ふうふうと冷ましながら口をつける。父上は案外お茶を淹れるのが上手い。騎士ともなると自分の面倒くらい自分で見なければならないということだろうか。
「ちちうえは、わたしにきしになってほしいのか」
「……それは難しいだろうな」
まあ、この虚弱体質では確かに難しいだろう。とはいえ騎士にならずとも、父上の理想に沿ってほしいのだと思う。勉強をさせられているのもそのためか。
この世界では職業選択の自由はそんなにないと思う。親の意思を継ぐことが子供の役割みたいなものだ。父上の言っていることが間違いだとは思わないし、役に立つことに否やはない。
「わかった。ちからをつけるのがだいじ」
「そうだ」
父上は睫毛を伏せた。雨音は少しも弱まらない。私は窓に視線を向けたままカップの中身を飲み干した。机に置こうとすると父上に取り上げられる。
「温まっただろう。部屋に戻りなさい」
「ん」
ソファから飛び降りて扉をくぐる。ふと振り向いたドアの隙間から見えた父上は、なんだかここではないどこかを見つめているようだった。
「私は、お前に託す未来を少しでもいいものにしたい。それが――親のなすべきことだろう」
ばたん、と閉まる音にかき消されて、その呟きは届かなかった。


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