胡蝶の舞
幼少期編-10

「珍しい魔導器だ」
言われて私は瞬いてデュークを見上げた。彼が見ているのは私の手の中のブレスレットである。私にとってはまだ大きいので、腕につけてもぶかぶかだ。
「ぶらすてぃあ」
「知らないのか」
「しってる。これ、おかあさまの」
私が唯一持っている母の形見だ。どうしてこれだけ私に渡されたのかは分からない。母がそう言ったのか、それとも使用人が勝手に決めたのか。どちらにせよこれが魔導器だなんて私は知らなかった。
「お前の母も魔導器を持っていたのか。いや……それもそうか」
「?、デューク、おかあさましってるのか」
「会ったことはない」
とはいえ私よりは詳しそうだ。クッキーに手を伸ばすとデュークはこちらに皿を押しやってくれた。父上がとりなしてくれたのか、デュークが訪ねてきて私が応接室に行っても使用人に文句は言われなくなっていた。なんならお菓子も出してくれる。私には普段そんなにお菓子を用意してはくれないので、これは貴重な甘い食べ物だ。デュークは自分は手をつけずに黙って紅茶をすすっていた。
「あったことないけど、しってる」
「お前の父親に聞いただけだ」
「んー。じゃあ、なんでおかあさま、ファリハイドにいた?」
「……お前は知らぬのだな」
「うん」
父上は母のことを話してはくれないし、そもそも訊くのも躊躇われる。望んだ結婚ではなく、仲が悪かったことだけは確からしいし。第三者であるデュークに訊くのが一番気が楽だ。
「単純な話だ。お前の母親の縁者がファリハイドにいなかったからだ」
「いなかった?」
デュークの答えに私は首を傾げた。デュークは赤い瞳で私を見下ろす。
「余計なことをさせない場所として適切だったのだろう」
なるほど、理に適ってはいる。デュークはオブラートに包んだりしないから話が分かりやすい。でもやっぱり、子どもに向ける視線ではないと思う。私のことをなんだと思っているのだろう。
「ていとからとおいから?」
「それもあるだろう。療養にちょうどいい場所だ」
それが名目上なのか、それとも理由の一端だったのかは分からない。結果として母はファリハイドに追いやられた。少なくとも本人はそう思っていたのではないか。父上だって、母に興味なさそうだったし。あれば一度くらい訪ねてきてただろう。
私はそんなことを考えながらブレスレットを眺めた。それにしても、これが魔導器だったとは。母が一体何に使っていたというのだろう。
何の魔導器かデュークに尋ねようとしたところで、応接室のドアがノックされた。返事をするのは私ではなくデュークだ。
「旦那様が戻られました。いましばらくお待ちください、デューク様」
そう言ったのは家令だった。デュークが静かな動作で頷く。
「ああ」
「お嬢様は部屋にお戻りを」
「……むう」
まあ、私が父上とデュークの話の場にいても邪魔なのはわかるが、こうやって用済みとばかりに追い出されるのもいい気分ではない。
とはいえ駄々をこねるほどでもないので、大人しく部屋に戻ろうとした。が、父上が来たのが先だった。父上の長い脚にぶつかりそうになって慌てて後ずさる。するとひょいと抱き上げられて、私はぱちくりと瞬いた。家令も驚いた顔をしているが、父上は平然とデュークに声をかけていた。
「待たせたな、デューク。すまない」
「構わない」
そのまま部屋の扉は閉められて、私は父上の腕の中でおとなしくしてるしかなさそうだ。どうしたものかと考えていると飛び込んできた言葉に耳を疑った。
「それで、アレクセイ」
いつものデュークの声だ。平坦で、落ち着いていて、なのに私の心臓はぎゅうっときつく絞られた。息がうまくできないことに自分で気付けていなかった。
――アレクセイ?
頭の中が疑問符でいっぱいだった。同時に、欠けていたピースが綺麗にはまった気分だった。髪の色も、目の色も、言動も、思想も、全てが一致する。騎士団長アレクセイはそんな人だった。平民を登用し、理想を語る。――その先にあるのは破滅だった。
じわりと滲んだ涙はそのままこぼれ落ちていった。涙だけが頬を濡らしていく感覚は奇妙だった。しゃくりあげることもなく、どうしてか涙だけが止まらない。
「レティシア?ど、どうした」
気がつけば父上が慌てた様子で私の顔を覗き込んでいた。ぐす、と鼻をすすって首を横に振る。混乱している頭ではそれがせいいっぱいだった。
「……もどる」
顔を見られたくなくて、父上の肩に顔をうずめてしまうかとも考えたが、涙やら鼻水やらで汚してしまうだろうという理性が邪魔をしていた。ごしごしと袖で拭っても涙は止まらないが父上に手を掴まれて止められた。
「レティシア。どこか痛いのか?ちゃんと言いなさい」
まっすぐ目を見つめられて、ひく、と喉が鳴った。父上はもしかしたら私の虚弱体質を心配していたのかもしれないが、私はもう限界だった。
「ふぇ、えっ、ええええっ」
「なっ……レティシア!」
とうとう声をあげて泣き出してしまって、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。なんで、どうして。騎士団長アレクセイの姿と、私の知っている父上の姿が重なってしまうのに、父上がああやって死んでしまうなんて受け入れられない。
こんなの悪夢だ。私はおそろしくて泣いていた。
「ちち、っうえ、ええっ、ふええええっ」
「レティシア、一体……頼むから泣き止んでくれ。どうしたというのだ」
困り顔の父上に、そんな顔をしてほしいわけじゃないと思う。でもどうやったって泣き止むことはできなかった。頭が痛い。泣いているせいじゃなくて、視界がだんだんと遠ざかっていく。子どもの泣き声だけがうるさく響いていた。
「レティシア!」
名前を呼ばれた気がしたが、意識はもう黒く塗りつぶされていた。


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