リピカの箱庭
幕間18

地の底で、ガイは呆然と空を――見慣れた青ではない暗闇を見上げていた。何が起きたのか正しく理解なんてできていない。ただ、分かっているのはこの事態を引き起こしたのがかつての従者であるヴァンと、今の主人であるルークだということだ。
「う、うう……」
「ルーク!」
そのルークが呻き声をあげながら意識を取り戻すのに声をかける。ルークだって何もわかっていないようだった。
「ご主人様!よかったですの!」
「ここは……」
「俺たちアクゼリュスの崩落に巻き込まれて……」
ルークの欲しい答えはガイも持ってはいない。どうしてだと胸が逸った。ヴァンはいったい何を考えているんだ。そんな思考を逸らすようにあたりを見回した。幸い、使節団の面々はティアの譜歌に護られて無事な様子が伺える。
「地下に落ちたのか……?他の生き残りは――」
自分でそう言った瞬間、ガイは息を呑んだ。そうだ、あの街にいたのは自分たちだけではない。――レティシアもだ。
どこだ、どこにいる。心臓を落ち着かせるために拳をきつく握った。わかるはずだ。己が半身のいる場所も、レティシアが生きていることも。
黙りこんだ自分に向けられるルークの視線にも気がつかず、ガイはもう一度くらい世界を見渡した。ふらりと足を動かす。やがてそれは確信に変わっていった。
「ガイ!どこ行くんだよ」
その問いに答える余裕なんてない。底なし沼に浮かぶ、かつて地面だった場所を足場にしながらガイはどんどんと進んでいった。ちらほらと見える死体は神託の盾騎士団の制服を着ている。その先に、レティシアはいた。
「レティ!」
近くに倒れている人影も、大きな魔物の死骸も視界に入らない。傷だらけの妹に駆け寄って息を確かめる。血まみれの顔のなか、無事な方の瞳がうっすらと開かれた。自分と同じ色に、自分の表情がうつる。
「ガイ……?」
「ああ。レティ」
手を握ればそれだけで通じ合えることを知っている。長いこと離れていたって、その声を、その姿を知らなくたって、いとしい半身の想いを見間違えるものか。それでもレティシアの瞳に浮かぶ安堵とは逆の色はガイには理解できなかった。
「あんた……」
ふいに声をかけられて、ガイは顔を上げた。大きな魔物の影に隠れて気がつかなかったが、見覚えのある姿だ。そう、アクゼリュスへ向かう道すがら、こちらに襲撃をしかけてきた二人組の片割れだ。となると、そこで息だえている魔物も彼が操っていたものだろう。崩落に巻き込まれても生き残れたのはその翼のある魔物のおかげか。
「君は」
「伯爵は……、無事、か」
「ああ。君も喋らないほうがいい」
「僕は大したことない。骨も折れていない」
何度か咳き込んだ少年はしっかりとした足取りで目を閉じたレティシアのそばに跪いた。一瞬警戒したが、唱えたのが治癒術だと分かってガイは彼をまじまじと見つめた。フードの下の表情はよく見えない。
「君は、ガルディオス伯爵の知り合いか?」
「それはこっちの台詞だね。あんた、あのお坊ちゃまと一緒にいた奴じゃないのか。伯爵をあんなふうに呼ぶ奴なんて見たことない」
二人の視線が交わったが、すぐにほどけた。お互い詮索は無用だと暗黙のうちに線引きをして、ガイはレティシアを抱えあげた。いつまでもこんなところでこうしている場合じゃない。
「こっちには他にも生き残りがいる。君も一緒に行動するといい」
「ふーん。勝手に決めていいんだ」
「この状況で見捨てるなんてできないからね」
「ハ、この状況をどうにかできればいいけど」
皮肉げに言う少年はガイには強がっているように見えた。どうにかしてやるのだと強く心に決める。こんなところで死んでたまるものか。自分も、レティシアも。
ガイの先導で元の場所に戻ると、この後の方針を話し合っていたらしいジェイドが顔を上げた。この男にしては珍しく驚きを隠さずにガイの腕の中のレティシアを見つめる。
「ガルディオス伯爵!無事でしたか」
「伯爵さま!」
駆け寄ってきたのはティアだった。彼女も軍人然とした雰囲気をかなぐり捨てて泣きそうな顔でガイの腕の中を覗き込んだ。
「怪我がひどいわ。早く治癒しないと」
「大体は塞いだよ。表面だけだけど」
ガイの陰に隠れていた少年が応える。そこで初めて彼に気づいたようにティアは目を瞬かせた。ジェイドも眉根をひそめる。
「ガイ、彼は……」
「彼も生き残りだ。で、どうすんだジェイド?」
「……タルタロスに行きましょう。緊急用の浮標が作動して、この泥の上でも持ちこたえています」
「わかった」
硬い声色でジェイドが答える。ガイはレティシアを抱いたまま頷いた。行くぞ、と促すとルークがひくりと喉を鳴らしてレティシアに視線を向けた。なにかを恐れるように、受け止めたくない現実を見つめるように。
まるで葬式のように黙りこくったまま、一行はタルタロスへ向かった。中に生きているものはなく、ただもう喋ることのできない神託の盾騎士団兵たちが倒れていた。落下の衝撃で無事でいられたものはいなかったらしい。その中で汚れていない部屋にガイはレティシアを連れて行った。寝台にその体をそっと横たえる。
「ガルディオス伯爵がご無事なのが不幸中の幸いといったところでしょうか」
ついてきたジェイドがぽつりとつぶやく。それもそうだ、ガルディオス伯爵がファブレ家の者に再び殺されたとなればマルクト帝国内で開戦論が高まるのは想像に難くない。
「ですが、あなたがガルディオス伯爵の関係者というなら話は違ってきますね」
部屋の中でたたずむもう一人にジェイドは水を向けた。むっつりと黙り込んだままついてきた少年は首を横に振る。
「そうだと思うのか?」
「状況から言って、あなたが伯爵を助けたのでしょう。あなたたちの魔物を自由に操れる、その力を使って。違いますか?」
見てもいないのに鋭いことだとガイは思う。忌々しげに舌打ちをして少年はフードの下の表情を歪めた。
「だけど、あんたらへの襲撃は伯爵の指示じゃない。それくらい分かるだろ」
「それもそうだな。伯爵が親善大使の到着を阻む理由なんてないだろう」
「――知っていたとしたら?」
その言葉にガイは凍り付いた。レティシアが、この惨劇が起こることを知っていたら?引き起こすトリガーがルークであることを知っていたら?
――もし、ホドのみんながころされたらどうする?
脳裏に幼いころの記憶が蘇る。レティシアは泣いていた。やがて訪れるその日を、恐れていた。どうして今思い出してしまうのか。
そんなガイを置き去りにして、二人は話を続けていた。
「秘預言を?どうして伯爵が知っているんだ」
「秘預言に詠まれていたというのは確かなのですね」
淡々と言うジェイドとは対照的に少年は顔をしかめたままだ。肯定の沈黙が下りる。その中で身じろぎをしたレティシアに全員の意識がさらわれた。
「う、……っ、」
「伯爵!」
駆け寄る少年を見上げてレティシアは無事なほうの目をゆっくりと瞬かせた。体を起こそうとするのを少年が支える。
「動かないほうがいい。まだちゃんとした治療は終わってないんだから」
「……ここは」
「タルタロス艦内です、ガルディオス伯爵」
応えたジェイドに視線を向けて、最後にガイを見つめたレティシアは目を閉じた。「そうですか……」掠れた声が響く。何か続いた言葉は聞き取れず、レティシアも誰にも聞かせるつもりはなかったのだろう。
「アクゼリュスは、もう亡いのですね」
ホドと同じように。ガイは目を伏せた。実際どうだったかなんてわからない。ただ、確実なのはレティシアはヴァンと組んではいないことだ。この惨劇をもたらした張本人と。
「状況は後程説明いたします。ティアを呼んできて治癒にあたらせましょう」
「いえ……、ノイ」
「僕一人で十分だ。さっさと出っててくれる?」
「わかりました」
ジェイドは意外なほどあっさりと身を引いた。出て行ったジェイドの背中を追いかけて、ガイも部屋の外に出る。思わず「いいのか?」と訊いていた。
「何がですか?」
「彼とガルディオス伯爵を二人きりにしても、さ」
「構いません。伯爵にとっては私よりは彼のほうが信頼がおけるでしょう」
その応えは予想外で、ガイは首を傾げた。レティシアとジェイドの間に何かがあるのか。
「それより、ガイ」
振り向いたジェイドの眼鏡越しの視線が刺さる。何を言われるのか分からないままその赤い瞳を見ていると、やがて視線はそらされた。
「ジェイド?なんだよ」
「……、艦橋へ行きましょう。艦を動かさなくてはなりません。あなたにも手伝ってもらいますよ」
「ああ。もちろん」
艦内の状況はお世辞にもよくない。最初に死体が転がっているのを見た瞬間、ルークやナタリアだけではなくティアたちの表情が引きつるのをガイも見ていた。なるべく早くこの場所を脱出しなくてはならない。
足早に歩くジェイドの背中からガイは一度だけ、妹のいる部屋を振り向いた。


- ナノ -