リピカの箱庭
75

――まただ。
痛みに浅い呼吸を繰り返す。
――また、死に損なったのか。
目を覚ましてしまった瞬間に湧きあがったのはそんな思いだった。こんなはずではなかったのに。ガイラルディアとカーティス大佐が出て行った扉を視線で追う。残ったのはイオンだけだった。
「あんたには悪い知らせだけど」
イオンはフードの下からこちらを見た。これ以上悪い知らせなんてないはずだ。
「その目はもう無理だ。治らない」
「……ああ、時間が経ちすぎましたか」
一番痛むのはこの目だ。右手でそっと抑えてみる。血が髪にも肌にもかたくこびりついていた。これを落とすのも苦労しそうだ。
「でも、他は傷も残さないから」
まるで贖罪のように言うが、イオンが気にすることでもないのに。フードを脱いで傷の状態を真剣に観察して治癒をほどこす眼差しは医者そのものだ。
と、急に部屋の扉が開けられて私は視線だけ向けた。イオンはびくりと肩を揺らしたが、当然顔を隠す猶予もない。しまった。
「おい、ガラン……っ、イオン!?」
「っ、アッシュ……!」
驚いた顔の彼はすぐに私に向き直った。が、なぜか絶句しているようだった。顔色が悪い。彼もどこか怪我をしているのではないだろうか。
「……なんだよ、その怪我」
ようやく絞り出された声に私はつい首を傾げた。
「見たままだ」
「おまっ、クソ……!」
拳が壁に打ち付けられる。何がそんなに気に食わないのか。イオンが冷たい声を投げかけた。
「何しに来たんだ、アッシュ。治療してるところなんだけど。邪魔だから早く出てってくれる?」
「……」
素顔がバレていっそ開き直っているように見えるイオンに彼は鋭い視線を投げかけたが、つかつかと足早にこちらに歩み寄ってきた。そして私の手を掴んで懐から出したものを握らせてくる。
「これは……」
「返しにきただけだ」
ころり、と手の中で揺れるのは球体だ。そう、かつて私がうっかり彼に渡してしまった響律符である。瞬いて彼の表情を見上げようとしたが、顔は逸らされてしまった。
「そいつのことは聞かないでやる。早く治せ」
「はっ、言われなくても」
イオンと彼の相性はどうやら悪いらしい。まあ、導師とルークのようにはいかないだろう。どちらも素直な性格ではないし。
彼は本当にそのままつかつかと出て行って、ドアは静かに閉められた。それを見たイオンが立ち上がってドアを施錠する。これ以上うっかり乱入されてはたまらないのだろう。
「アッシュと知り合いだったの?」
怪訝そうな顔をするのも仕方ないだろう。手のひらの中の響律符を転がしながら何と答えたものかと考えてみる。
「知り合い未満、ですね。ダアト港で会ったことがありますが、それだけです」
「へえ。で、それを渡したの?何それ」
「間違えたんですよ……」
部屋の心もとない灯りにビー玉のようなそれをかざして見せる。イオンはぱちぱちと目を瞬かせた。
「響律符?変わった形だけど。シミオンが作ったやつだね」
「その通りです。アメと間違えてうっかり渡してしまったんです」
「……アメと?」
「船酔いが酷そうだったので」
「どこから突っ込めばいいのかわからないんだけど」
「導師になったあなたに挨拶をした帰り路ですよ」
本当のことなので言い訳も何もないのだけど。露骨に嫌そうな顔をしたイオンの手の中に響律符を落とす。何年振りかに手にしたこの響律符は当時の最新のものだった。そして、一つだけ特別だ。
「それを目にしてください」
「は?」
「譜眼にします。理論はあなたも理解しているでしょう。レプリカの義肢と同じです」
「ッ、それは……!」
昔に考えた響律符を使った譜眼の理論はシミオンが確立させている。この方法で実際に譜眼を施したことはないが、やり方はレプリカの義肢接続に受け継がれていた。シミオンやルグウィンから医学を学んだイオンはよく理解しているはずだ。
「譜眼――って聞いたことあるけど、あれ制御がほぼ不可能なんだろう?!そんなもの入れたらどうなるか!」
「無節操に音素を取り込もうという話ではありません。視界をふさいでいれば発動もしませんし」
「でも、危険だ!なんでそんなこと……」
はっとした表情でイオンは私を見た。
「ヴァンのやつに、復讐でもするつもりか?」
復讐か。私はどちらかと復讐をされる方だとは思うのだけど。また街を守ることができなかった。知っていても止めることができなかった。街の民は今までの生活を追われてしまった。
中らずと雖も遠からず、といったところか。私は微笑みを浮かべた。
「ノイ。いいですね」
「……わかったよ。言っても聞かないだろうし」
「成功率は?」
「僕より優れた第七音譜術士がいるなら連れて来ればいいさ」
腕をまくったイオンがそんなことを言う。軽口が叩けるくらいなら平気だろう。それに、イオンが優秀な第七音譜術士であるのは確かだ。治癒術師としては歴が浅いかもしれないが、こんなことはメシュティアリカに頼むわけにもいかない。
あらためて治癒術とは便利なものだと思う。消毒も譜術一つで済ませてしまうし。正直、あれだけの傷を負っていれば崩落の衝撃の前に出血多量で死に至ると思っていたのだが、目論見は外れてしまった。
そんなことを考えている間に瞳がつくりものに置き換えられる。ぱちん、ぱちんと神経を切って繋げる作業にイオンはひどく集中しているようだった。私ももう片方の瞳で何を見るでもなく、目を閉じたままただ寝台に身を預ける。全身を支配する痛みだけが呪いのように降りかかっていた。


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