リピカの箱庭
幕間15

人々が険しい道を下っていくのを眺める。先遣隊が辿り着き、すでに避難が始まっていた。それを見下ろしながらイオンはじっと待っていた。
「私が勝ったから、ノイは言うこと聞かなきゃダメなんだよ」
幼い少女はそう言って自分を見上げてきた。初めて会ったときに手ひどく負かされて、それから何度か聞いた台詞だ。イオンがそれに耳を傾けたのは、彼女が泣きそうな顔をしていたからだった。
「ノイ、伯爵さまをたすけて」
グランコクマに向かう直前、エゼルフリダはそう告げた。幼いなりに何か感じ取っていたのかもしれない。イオンの立場など何も知らないくせに、自分の父親のような騎士とはまた違うと分かっていたのかもしれない。伯爵家に仕えているわけではないイオンは、ガルディオス伯爵の命令に従う必要はなかった。だから、エゼルフリダの言葉に頷いた。
「わかってるよ。……泣くなよ、お前が泣いたらみんなうるさいんだ」
「うん。ノイ、約束だよ」
「ああ、約束だ」
小さな手に指を握られて頷いたイオンは、その時はこうも面倒なことになるとは思っていなかった。救援の先遣隊には神託の盾騎士団主席総長ヴァン・グランツ、親善大使はファブレ公爵家の息子。前者は因縁があるだけだが、問題は後者だった。
秘預言を詠んだことがある。それはヴァンに命じられてだった。詠んだ内容を思い出したのは赤毛の男がキムラスカ王族だと気が付いたからで、預言の内容は鉱山の街の滅びだった。
「ローレライの力を継ぐ若者……」
ぽつりと呟く。ヴァンがあの公爵子息のレプリカを作ったのはそのローレライの力が原因なのだろうか。そこまでは伯爵に告げていない。どちらにせよ、障気に満ちたあの街に人が住むことはもうできない。避難が最優先なのは確かだった。
だから、イオンは様々な手でカイツールからアクゼリュスへ親善大使一行を妨害してきた。主に魔物を使った襲撃だ。街が滅びるのは最悪の事態だが、住人たちがいなければまだ救いがある。親善大使がまだ道中だとしても、先遣隊さえたどり着けば住人たちの避難にも政治的な問題がなくなるのだとイオンは理解していた。どんな思惑が裏にあったかは知らないが、救援隊が二手に分かれていたのは幸運だったといえる。
しかし――もう時間稼ぎはできない。最後にできることと言えば、険しい山道の狭い場所で強襲することくらいだろう。本音を言えばたどり着かせないようにしたいが、これまで陰で見ていただけでも親善大使一行の純粋な戦闘力は高かった。度重なる襲撃に彼らも疲れているはずだが、それはこちらも同じだ。傷ついた魔物たちを癒したせいか彼らに少しずつ懐かれてきていて、イオンは苦い気持ちだった。
「イオンさま」
避難する人々の列が途切れてしばらく経ったところでアリエッタが顔を出した。彼女の表情はいつになく硬い。それはじきにここにやってくる親善大使一行がアリエッタの母親の仇だからだ。
アリエッタが仇を討つことをイオンは否定できない。たとえ魔物であろうと、そこまで慕う親がいるのはうらやましくもあった。でも、アリエッタの身が危険に晒されるのなら止める。そう決めている。
「来たか?」
「はい」
「いいか、今回狙うのは赤髪の男だけだ。それ以外はどうでもいい」
納得のいかないという表情のままアリエッタは頷いた。イオンは深くフードを被って様子を伺う。
やがて現れた一行を強襲したのはアリエッタの操る魔物だった。
「うわっ!」
「ルーク!」
うまいこと連れ去ることができればよかったが、上から現れた魔物を抜いた剣で弾いた金髪の剣士に舌打ちする。正面から立ち向かって勝てるだろうか?イオンは身を隠しながら死霊使いを睨んだ。一番厄介なのは間違いなくこの男だ。
「いきなりなんだってんだよ!」
「そこですね」
憤慨する赤髪の男をよそに、死霊使いは寸分の違いなく的確に譜術を撃ってきた。近づきすぎたか、気づかれた事実に眉根を寄せながらイオンは跳ねよける。逃げるには彼らの正面に移動しなくてはならないというのも、きっと死霊使いの計算のうちだろう。
「あなたたちは……フーブラス川の」
ローレライ教団の制服を着た女が言って赤髪の男をかばうように立ちふさがる。死霊使いはやれやれと肩を竦めた。
「これまでさんざん手こずらせてくれましたが、ようやく姿を見せましたね」
魔物を使った妨害がイオンたちの仕業だと気づいているのだろう。確かに、自然を装うには魔物の動きが統率されすぎていた。笑っていない瞳をフードの下から睨み返す。
「邪魔すんじゃねーよ!師匠が待ってるんだ」
そんなことは関係ないといわんばかりに噛みつくように赤髪の男が怒鳴る。イオンは思わず鼻で笑ってしまっていた。
「センセイ?……ああ、まだあいつに会ってないのか。おめでたいやつだ」
「あいつ?何の話だよ」
「教えてやろうか?お前、騙されてるんだよ。この先にあるのは滅びだけだ。どっちがホンモノか知らないけど、お前を通すわけにはいかない」
「本物……やはり」
イオンの言葉に反応したのは赤髪の男ではなく、死霊使いだった。そういえば、とイオンは思い出す。ディストの口からもこの男の名前を聞いたことがあった。ジェイド・カーティス、フォミクリーを生んだのは彼なのだと。
「なんなんだよ、わけわかんねえよ。お前何が言いたいんだ?」
赤髪の男は変わらず苛立たしげだ。これ以上言葉を交わす意味もないだろう、イオンはそう判断する。ユリアの預言に目を曇らせるのと、ただ誰かに心酔するのと何が違うというのか。結局力づくで止めなくてはならないのだ。
「……アリエッタ」
小声でアリエッタを呼んで振り向く。話しすぎるのも、期待するのもいけない。仮に自分がガルディオス伯爵側の人間だと分かれば彼らは伯爵に疑いの瞳を向けるだろう。それだけは悟られてはならない。
「はい。ママの仇、討ちとります!」
幸いと言うべきか、アリエッタの胸にあるのは憎しみが一番大きかった。その感情を隠れ蓑にしてイオンも手にした杖を構えた。


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