リピカの箱庭
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ドアを閉めて息を吐いた。正直過労の気配がする。今が正念場なので弱音を吐いている場合ではないのだけど。私はとにかく、作業員は倒れないようにローテーションを組んではいるが、慢性的な疲労はあるだろう。そろそろ先遣隊が到着してもおかしくないが避難にも体力は必要だ。作業員は一日休ませてからの避難がいいだろうか。
そんなことを考えながら椅子に座る。報告書の作成はまだ終わっていなかった。研究員や官僚たちは先に避難させたせいでこの手の雑務をこなす者がいないのも過労の原因だとわかってはいるのだけど。
眉間を揉みながらペンを手に取る。これが終わったら避難計画を見直して、あとは医療品の残数を確認しないと。イオンたちのおかげでそれなりに余裕はあるが、避難の際に手ぶらというわけにもいかない。
当のイオンたちの姿は最近見ていなかった。避難しろとは伝えているので、もう逃げてくれたのだろうか。神託の盾騎士団に捕捉されたら面倒なので先遣隊の到着前に立ち去ってほしいところではあった。確認する余裕はないが、まあ彼らなら魔物を使えるのでいざという時も平気だろう。いつもよりいくらか雑な字を書き終えてペンを置く。
お茶でも飲みたい気分だけど、淹れるなら自分で淹れなくてはならない。こういうとき自分の生活の贅沢さが身に染みる。別にできないとかではないし。やろうと思えばできるし。でも疲れたから動きたくない。
ふかふかの椅子の背もたれに寄りかかるとだんだん意識が遠のいてきた。少しだけ、五分くらいならきっと平気だ。そう思って力を抜く。ここまで疲れ果てていると悪夢を見る余裕すらきっとない。あっという間に眠りに落ちていた。

「……さま」
誰かが呼んでいる。
「レティシアさま」
エドヴァルドの声じゃない。夢心地でぼんやりとまぶたをあげた。
――夢の続きをまだみている。私はかさついた唇を開く。
「ヴァンデスデルカ」
だって彼が私をそう呼ぶことはないのだ。これはまだ夢で、早く来てほしいと願った思いの具現だ。頭が重くてうまく働かない。
髭を生やすといくらか年嵩に見える。落ち着いた声色と態度のせいもあるだろう。でもヴァンデスデルカが呼ぶ声は、いくら変わっていっても耳に心地いい。この声でまた譜歌をうたってはくれないか。
「来てくれたのですね、ヴァンデスデルカ」
ひどく安心していた。彼が来ることは、この街が滅ぶということなのに。ヴァンデスデルカは私を助けに来たのだと錯覚しそうになる。……ううん、大丈夫、これは夢だ。夢の間はそう信じていてもいいはずだ。
「ええ。お疲れでしょう、あとは私に任せてお休みください」
優しい声にそうしたくなる。でも。
「……いけません、」
続きの声がうまく出なくて咳き込んだ。口元を抑えて上半身を折り曲げる。体を震わせるたびに肺が、体の内側が痛んだ。
「ガルディオス伯爵!」
「げほ、っ、ぁ……」
痛みに視界がクリアになっていった。いつの間に寝ていたのだろう、いつの間に彼が部屋に入ってきたのだろう。私はどうにか咳を止めると手を伸ばしてくる彼を見上げた。その手が私の背をさすることはない。
「……失礼しました。あなたは」
青みがかった色の瞳は私を見て細められた。その奥にある感情を理解するだけの余裕はなかった。
「お初にお目にかかります、ガルディオス伯爵。ローレライ教団詠師、神託の盾騎士団主席総長ヴァン・グランツと申します」
姿勢を正して頭を下げる彼に私はうっすら微笑みを浮かべてみせた。夢は夢で、これが現実だ。それが交わることはもうない。
「ようこそおいでくださいました、グランツ謡将。……救援隊のほかの方々はどちらに?」
「は、騎士殿のご指示により先遣隊の者は坑道での救援活動に入っております。それと、親善大使殿のご到着にはしばらくかかるでしょう」
親善大使とグランツ謡将が別のルートを用いているのは話通りだ。私は頷いた。
「わかりました。ですが時間がありません。先に避難を開始させたく思います」
住民の避難には先遣隊のキムラスカ兵および神託の盾騎士団の助力が必要だが、私から告げてスムーズに指示が通るとも思えない。グランツ謡将から人を動かしてもらわねば困るのだ。まとめた計画書を広げて説明すると、グランツ謡将はじっと紙面を見つめてから口を開いた。
「承知しました。ですが……貴卿はいつ避難なさるのです」
「私が住民より先に避難するわけにはゆきません」
全員の避難を見届けてからでなくてはならない。そう告げるとグランツ謡将は眉間のしわを深くした。
「ですが、お体に障るのではありませんか。貴卿の生命の保証も我々の重大な任務のうちの一つです。いくらアクゼリュスの街を救ったところで貴卿の身になにかあれば和平はなりません」
そうだろうか。私は苦笑した。私一人の命とアクゼリュスの住民全員の命、どちらが重いかなんて明白だ。彼なりに私の身を案じてくれているということだろうか。
「そう言われましても、親善大使殿がご到着されて迎える者がいないのは問題でしょう」
カーティス大佐が親善大使と行動を共にしているだろうが、それとはまた別の話で、アクゼリュス側の人間として彼らを出迎える必要がある。トップの人間が先に逃げただなんて笑い話にもならない。
「では、親善大使殿がお着きになられた後に避難なさるとおっしゃるのですね」
「ええ。そうですね」
「……わかりました。では、避難はご計画されていた通りに進めましょう」
私は頷いて立ち上がる。時間がない。けれど、最後の仕事だ。これだけは果たさなくてはならない。焦る気持ちを落ち着けながら拳を強く握った。


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