リピカの箱庭
54

間違ってもピオニー殿下とフリングス中佐と鉢合わせないように騎士棟を抜け出して本邸に戻る。そういえばまだアシュリークのことを屋敷に伝えていない。適当に騎士を捕まえて伝令を頼み、そして部屋でようやくドレスを脱いだ。
この屋敷に住んではいないが、私室はあるし服はそこそこ置いてある。ガランとして振る舞う時に着る服や、逆にガランからガルディオス伯爵に戻る必要がある時に着るドレスなんかだ。今日は肩が凝ったのでもうドレスを着る気はないし、ラフな格好に着替えて化粧を落とした。
さて、ジョゼットが戻ってくるまでは待つしかないか。メシュティアリカはジョゼットの部屋にいるはずなのでそちらに向かうと、なぜかメシュティアリカだけではなくアシュリークが一緒にいた。
「お、ガラン。おつかれ。終わったのか?」
「あ、ああ。いや、なぜあなたがここにいるんですか」
口調が自分の中でもごちゃごちゃになってくる。私はため息をついて結んだ髪を無造作に下ろした。
「準備終わったからさ。まだガランたちがいるかなって思って来たらやっぱティアが待ってたし」
「まさかその荷物で全部なんですか?」
「そうだよ。アレだろ?まさか家具とか持っていけとは言わないだろ」
「家具一式はありますが。それと制服はこちらで準備します」
「じゃ、私服だけで十分じゃん」
どうやらアシュリークは私物が少ないタイプらしい。意外だ、とは思わなかった。彼は孤児院で育っているが、あそこには私物という概念がほぼない。服は誰かのお下がりだし、おもちゃはみんなの共有物だ。それらも定期的に買うようにさせているものの、自分の所有物は例えば塾で使う勉強用ノートだとか、もしくは今日のような祭りで買った玩具とか、その程度である。
「あ、でも剣は欲しいな。伯爵さま、新しいの買ってくれたりすんの?」
「……いいでしょう」
「やったー!あそこの鍛冶屋のおっちゃんとこのがいいな。な、いいだろ?」
「好きになさい。メシュティアリカ、あなたも今度何か買いましょう。今日の働きへの報酬です」
「えっ!」
メシュティアリカは一瞬目を輝かせたが、すぐに不安そうな顔をした。
「武器ですか?」
「他のものでもかまいません。装飾品でも食べ物でもなんでも」
「じゃあ……」
メシュティアリカが口を開いたところでドアがノックされた。開けたのはジョゼット、ではなくヒルデブラントだった。
「伯爵、ジョゼットはまだかかるようです。先に戻られてはいかがでしょう」
「そうします。馬車をお願いします」
「もう準備はしてあります。……それが、アシュリークですか」
さすがヒルデブラント、準備がいい。アシュリークはヒルデブラントの試すような視線を真っ向から受け止めて礼儀正しく挨拶をした。
「はい、若輩者ですがこれからどうぞよろしくお願いします」
「……ええ、歓迎しますよ。ではこちらへ」
ヒルデブラントはそんなに表情豊かではない(とは私は思わないけど)ので、睨むとそれなりに迫力があると評判だ。そのヒルデブラントに怯まないのだから、アシュリークも肝が座っている。ヒルデブラントが歩き出すとその背に隠れて、私に向かってニヤリと笑った。
しかし、ヒルデブラントにも礼儀をわきまえているくせに私には相変わらずこうである。気になってヒルデブラントに聞こえないよう小声で聞いてみるとアシュリークは「あー」と頬をかいた。
「だってガラン……伯爵さまは、友達だし」
「ともだち」
「こっちの方がしっくりくるんだよな。ダメか?」
私は何と言えばいいのかわからずに、誤魔化すようにゆっくり瞬いた。そうか、友達か。ガランはそうだったのか。
私にとってアシュリークは街の子どもたちの一人だった。なのに、彼はガランを友達だと言う。いや、ガランだけでなくガルディオス伯爵代理も友達らしい。
「好きになさい」
きっと私は動揺していたのだと思う。でも、そうやって許すのだから、アシュリークが友達としてこちらに話しかけてくることは嫌いではないのだろう。
とはいえ、ヒルデブラントやエドヴァルドの前ではアシュリークもきちんと振舞っていたので何だかホッとした。そこらへんは分かっているようで何よりだ。アシュリークに空いていた部屋をあてがい、挨拶をさせている間メシュティアリカはさっさといつもの場所へ向かっていた。私も事務作業を簡単に終えてから顔を出してみる。
「ロザリンド、調子はどうですか」
「レティシア様!ええ、とっても元気ですよ。すぐにでも働けるくらいです」
出産直後はやつれていたロザリンドも、最近はすっかり元通りで安心する。本人はもう現場復帰したいらしいが、人手は足りているしまだ育休を取っていてくれたほうが心配の種は減る。エドヴァルドにも育休を取ってほしかったのだが、こちらは頑固で「レティシア様をお護りするのが私の役目です」と一歩も譲ってくれなかった。ケテルブルクでの暗殺未遂事件がいまだに尾を引いているらしい。プライベートも大切にしてほしいんだけどな。
「伯爵さま!ほら、エゼル。伯爵さまがいらしたわ」
「あー」
すっかりエゼルフリダを気に入っているメシュティアリカに抱えられて、まだ生まれて数ヶ月の赤ん坊はこちらを見上げた。こうして見ると姉妹のようで微笑ましい。
「エゼルフリダも健康そうで何よりです」
「伯爵さま、だっこしますか?」
メシュティアリカに促されて、私はその小さな体を受け取った。赤子というのは温かくて意外と重いものだ。エゼルフリダを見ると私はいつも不思議な気分になる。
この子どもは、星が「最初」から知っていた存在なのだろうか?エドヴァルドもロザリンドも、私についてグランコクマに来たからこそ助かった命だ。もしかしたら、私がいなくても生き延びていたかもしれないが――それでも、結婚していたかはわからない。エゼルフリダという名の娘を設けていたか、わからない。
預言は星の記憶だというのだから、一つの命の有無が変わったところで私が知っている大きな流れは変わらないのだろう。記憶にも膨大な選択肢があって、その中の一つを選んだだけかもしれない。事実、エゼルフリダが誕生した際に預言を詠んでもらっているのだ。あの物語の中になかった――「最初」はなかった存在だとしても、星の記憶には今は記されているのだろう
「健やかに育つのですよ」
エゼルフリダには元気に大きくなってもらわなくては困る。預言に消されてしまってはたまらない。小さな赤子はそんな私の内心なんて知らぬまま、目を細めて笑ったように見えた。


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