ラーセオンの魔術師
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そんな話もして、子どももいるのでパーティーは比較的早い時間にお開きになった。ぞろぞろと割当られた部屋に戻る波に乗ろうとしたところで、ゼロスに小さく名前を呼ばれて手招きされる。
「どうかした?」
「こっちこっち」
小さな子どものような、いたずらっぽい笑みで誘われて私はゼロスに着いていった。ホテルの一番上の階……ってことは、スイートルーム?ドアを開けて招き入れられた部屋は前に泊まったのよりも数段豪華だった。
ゼロスは真っすぐにバルコニーに向かい、大きな窓を開け放った。風がカーテンをはためかせる。見下ろせる夜景に息を呑んでいると、ゼロスは手すりに身を乗り出して「懐かしいな」と笑った。
「覚えてるか?あんたがバルコニーから落っこちたの。肝が冷えたったらありゃしない」
「あれはゼロスが悪かったんじゃない」
「そう言うけど、やっぱり手すりになんか乗ってたら驚くって」
そこまで言うならそうだったのだろう。少しきまりが悪くなって肩をすくめる。
「……俺は忘れられないな」
ゼロスの三つ編みにまとめられた髪が風に揺れる。夜景を見る目が細められた。
「空を歩いて見た景色も、ぜんぶ」
私も忘れないだろう。あの日、この人が私の誘いに乗ってくれたことを。ただ純粋に手を差し出してくれたことを。
「もう一度言ってもいいか?」
こちらに向けられた青い瞳からはもう逃げられない。ゼロスは穏やかに、それでもどこか切なげに微笑んだ。
「――レティシア。あんたのそばにいたい」
嘘だとは思わなかった。私はその瞳を見つめ返す。恋に焦がれる愛おしい人の瞳だ。
「あんたと添い遂げることができないのはわかってる。それでも、俺の人生をぜんぶ捧げたいのはあんただけなんだ」
「……ゼロス。それは」
「わかってる。俺はもう逃げない」
手を掴まれた。そこで私はゼロスの手が冷えて、少しだけ震えていることに気がついた。気がつかれたと、ゼロスも分かったのだろう。彼は眉を下げて、祈るように言葉を吐き出した。
「俺はな、まだ神子なんだよ」
「……え?」
一瞬意味がわからなかった。ゼロスはうっすら微笑んだまま続ける。握った手に力が込められた。
「クルシスのやつら、輝石を取り上げてすぐ神託を下すほど親切じゃなかったからな。俺はまだ形式上は神子だ。そして神子の婚約者であるあんたと結婚するのになんの不合理もないだろ?」
「でも、クルシスはもうないんだよ。私がいつまでもあなたのそばにいたら、反対する人だって」
「いいんだ。俺はレティシアがいい。そのためだったら神託だってなんだって利用してやる。なんなら、もう結婚してたことにすればいい。誰にも文句は言わせない。ブライアン公爵だってシルヴァラントの神子だってこっちの味方なんだぜ?」
なんて甘い誘い文句だろう。私は必死に言葉を探した。断る理由なんてもうないのだと囁きかけるのは私自身だ。ゼロスのためだなんて、もうそんな言葉は口にできない。
ゼロスは選んだ。神子として最後まで生きることを。私は――。
「レティシア。俺はもう逃げたくないんだ。――俺と、あなたのために」
――私だってもう、逃げることはできないのだと囁くのは自分自身だ。
冷たい夜風が火照った頬を撫でる。私はゼロスの手を強く握り返した。
「……ええ。あなたの言葉を信じてる」
ヒールからさらに踵を浮かせてゼロスの目を覗き込む。いつもより色の薄い瞳に微笑んだ。
「あなたが好きだよ、ゼロス。あなたと同じ時間を歩めない私を、最後まで愛してくれると信じてる」
「レティシア……!」
そのまま覆いかぶさるようにキスをされて、きつく抱きしめられた。ゼロスの背中に腕を回す。髪を束ねるリボンを解いてしまって、カーテンのように私を覆う赤色に満足した。

どうやらゼロスに発破をかけたのはリーガルらしかった。あんなことを零したからだろう、しっかり外堀を埋められてしまった。もしかしたら、パーティーもそのために準備してくれたのかもしれない。お節介焼きで素敵な人だ。
「あんまり他の男のこと褒めないでくれよ」
「どうして?嫉妬してるゼロスはこんなにかわいいのに」
「たまに意地が悪いよな、レティシア」
下ろした髪を梳かれながら私は笑った。ほどほどにしておかないといけないかな。でも、拗ねたり子どもっぽい表情を見せるゼロスは本当にかわいいと思う。それに、大人びて生きなくてはならなかったゼロスが私にそんな表情を見せてくれるのは嬉しい。
「たまになら許して?」
髪に触れるゼロスの手を取ってそう言ってみると、目を逸らされてしまった。「そういうところがずるいんだよな」と呟くように言うのでやっぱりかわいい。
「ゼロスだってずるいと思うけど」
「どこが?」
「慣れてるところとか?あと、さっきは意地悪だったじゃない」
まあ、ゼロスの立場とか年頃の健全さとか女たらしっぷりからして想像はしていたけれど、想像以上だった。この世界に生まれてからこっち、経験がないのであんまり激しくされると目眩がしてしまう。ゼロスがしたいなら構わないんだけど、恥ずかしさで爆発してしまいそうだった。
「あ〜、……うん、がっついたのは悪かった」
「責めてるんじゃないよ?」
「次は優しくするからさ」
「それはちょっともったいないかも」
余裕のないゼロスってそうそう見られないし。なんというか、悪い気はしないのでぜひ次もがっついてほしい。そのためなら多少恥ずかしいのは我慢しよう。
「……レティシア、どこまで俺を骨抜きにする気?」
そんなことを言うゼロスに口角が上がる。ゼロスの頬に手を添えて赤く染まった目元にキスをした。
「私がいないとダメになっちゃうまでかな」
「もうなってるって」
「じゃ、抜く骨ももうなくなっちゃったね」
素肌を寄せて笑いあう。鼻先が触れ合うほど近くて、また唇を重ねた。一生ぶんくらいキスをした気さえするけれど、まだまだ物足りなさもあった。
でも、急く必要はない。こんな夜がまた約束されているのはなんて幸せなんだろう。
「そうだ、レティシア。ちょっと座って後ろ向いてくんない?」
「え?うん」
ぬくもりは手放しがたかったけれど、ゼロスに言われて私は体を起こした。首のまわりに冷たいチェーンが触れて身を竦めてしまう。
「ひゃっ!あ、これ」
「返しとこうと思ってさ」
胸元で揺れるのは青いムーンストーンだ。そういえばゼロスに渡してからはそれきりだったな。当然魔力はまったく込められてなくて、ただの綺麗な宝石だった。
「別にいいのに。あなたが買ったんだから」
「ちげーよ。レティシアに贈ったの」
選んだのは私だけど、じゃあそういうことにしておこう。金具を留めたゼロスに肩を掴まれて振り向かされる。ゼロスは目を細めて「似合うな」と指先で宝石に触れた。
「ムーンストーンの宝石言葉って知ってるか?」
「えーと、健康とか?」
「それもあるけど」
青く月明かりを反射する石を摘んでゼロスは唇を落とした。青い瞳が私を見る。あ、ゼロスの瞳と、同じ色だ。
「『永遠の愛』」
ふと、思い出した。この宝石を買ったときに宝石商が言っていた言葉。婚約者に贈るならあつらえ向き――そういうことだったのか。
「俺たちにぴったりだろ?」
「偶然だけど」
「運命とも言えるさ」
「ゼロスってばロマンチスト」
まあ、それがゼロスの命を救ったと思えば悪くない。とんでもない運命を神託は引き寄せてくれたものだ。
ひどく苦くて苦しくて、そして今はただひたすらに甘い。ゼロスの剥き出しの素肌には傷痕が残っていた。それを見るたびに苦い思いをするのだけど、『永遠の愛』だなんて言われては仕方ない。
私たちは指を絡めあって、もう一度二人でベッドに倒れこんだ。


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