夢のあとさき番外編
遠い夜の話

※本編前

ざざん、ざざん、と微かに波の音が聞こえる。クラトスは妻の気配を感じながら、もう一人近づいてくる者がいることに気がついていた。ぱちぱちと薪が弾ける音がする。
やがて古びた蝶番が音を立てて開いた。おんぼろの扉の向こうに立っているのは――
「……こんなところに住んでいるのか」
クラトスは顔を上げた。見知った顔に敵意はない、ただ単純に呆れているような、物悲しそうな色が瞳に宿っている。
「――私を殺しに来たか、ユアン」
つとめて静かにクラトスは言った。それにユアンはちいさく被りを振る。
「今夜は……貴様の古い友として来た」
「……そうか」
その答えにようやく安堵してクラトスはすこし緊張を解いた。ユアンがマントを脱いでいる間に片手でポットを持ち上げ中身を注ぐ。芳しい香りが広がっていった。
「アンナはどうした。こんな夜中に女性一人では危険だ」
気遣うような言葉は、真意が分からない。それでもクラトスは表面上だけ受け取ることにして、膝の上のぬくもりを抱え直した。
「海岸へ行っている。ノイシュも一緒だ。息子の夜泣きがひどくてな。波の音を聞かせるらしい」
「……息子?おまえのか!?」
心底驚いたふうのユアンの声に反応したのは、クラトスが抱えていた毛布のかたまりだった。もぞもぞと動いて「んん」とちいさな声が聞こえる。クラトスはカップをユアンに渡すと毛布を捲ってやった。
「とーしゃ」
小さな手がクラトスの服を掴む。顔を出したのはまだ幼い子どもだった。乳離れしているかも怪しい年齢の幼児は、まだ眠いのか目をぐしぐしと擦ると父親を見上げた。
「起きたか」
「んー」
「……そ、れは」
ユアンは再び絶句した。先ほど言った、息子とは別の子どもだろう。まさかもう一人いたとは想像もしていなくて、まじまじと見つめてしまうと子どもはさすがに視線に気づいたのか、それともただ声に反応したのか、ユアンの方を振り向いた。
きょとんと丸い瞳はクラトスと同じ色だ。子どもはちいさく口を開いたままユアンを見つめて、そして何を思ったのかふにゃりと笑った。
「おはよぉ!」
「レティシア、まだ夜だ」
「よーぅ」
「こんばんはだな」
「こ、ばーわ?」
舌たらずの幼児とクラトスが喋るという、想像だにしていなかった光景にユアンはもはやどうすればいいのか分からなかった。ただ一つ、子どもの父親がなにやら鋭い視線を向けてくるのでしぶしぶと「こん、ばんは」と返事を返す。幼児はなにが楽しいのか、機嫌がよさそうにきゃらきゃらと笑った。
「娘か……?」
「二歳だ」
「にたい!」
元気よく返事をする子どもの頭をクラトスが撫でる。ユアンは目眩をおぼえながらどうにか皮肉めいた言葉を絞り出した。
「……呆れたな。おまえは自分の立場がわかっているのか」
「わかっているつもりだ」
「どうするつもりだ。赤ん坊や幼児など、逃亡生活には足手まといだぞ」
むしろよくここまでこれたものだと感心する。この子どもも相当頑丈なのではないかとユアンは現実逃避気味に思った。
「そもそもおまえは何をしようとしているのだ」
「おまえと同じことだ。ミトスの千年王国を阻止する」
「たった一人で何ができると思っている」
「確かに今の私は一人だが、おまえにない切り札を持っている」
大人二人の会話をレティシアは静かに聞いていた。いや、意味がわからないのでただ音ととして認識しているだけだろう。きっとこの幼い子どもは己の父親が何なのか、どんな立場にいるのかなど想像もつかないだろうとユアンは思った。
「だがおまえの切り札は自分の命と引き替えの切り札だぞ」
「……考えていることがある。それにはお前の助けが必要だ」
優しい手でレティシアの背を撫でながら、鋭い視線をクラトスはユアンに向けた。そのアンバランスさをユアンは受け止めて、睨み返す。
「私の目的はおまえを殺し、オリジンからエターナルソードの所有者として認められることだ。おまえは自ら命を捨ててくれるのか」
意味が分かっていないとはいえ、子どもの前でする質問ではない。だが必要なやりとりだ。不穏な空気を感じ取ったのか、ぐずりだしたレティシアをクラトスは両腕で抱えた。
「――クルシスに致命的な一撃を与えてからな」
「致命的な一撃だと?」
「……ミトスを討つ」
「とーしゃ」
ぎゅっとレティシアがクラトスの髪を掴んだ。それをやんわりと外させてクラトスは続ける。
「もしも勝敗が決したら、オリジンの解放をおまえに任せたい」
ユアンは言葉を失った。
重い言葉だった。ユアンの前で口にするのも、そして娘の前で口にするのも。ユアンはただクラトスの名を呼ぶことしかできず、それからやっとのことで言葉を絞り出した。
「クラトス……。私たちはあまりに長い間、無為に過ごしてきた。ユグドラシル――ミトスという光が変質してしまったことを認めたくなかったからだ。おまえもそうだったのだろう」
クラトスは無言だった。ただ、部屋に火の燃える音と――外から穏やかな歌い声が聞こえてくる。子守唄を歌うのはアンナだ。夜泣きがひどいという息子のための歌なのだろう。
ユアンは不安げにクラトスを見上げるレティシアにも目を向けた。子どもは敏感だ。ただならぬ話であると感づいてしまっているのだろう。
「おまえにその決意をさせたのは……家族か」
クラトスはレティシアを抱いて立ち上がった。
「――時期が来たら、アンナたちはイセリアへ逃がすつもりだ。あの村ならば不可侵条約がある」
「彼女は計画を知っているのか」
「……いや、知らぬ」
「それでいいのか」
ユアンも立ち上がった。返事は聞かなくても分かっていたが、投げかけずにはいられない問いだった。
クラトスは静かに肯定するのだ。たとえその腕に、幼い娘を抱いていても。


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