雪割草 寒い寒い冬が終わり、待ちに待った春。 雪ノ下でじっとこの日が来るのを待ちわびていたかのように、ムックと起き上がった新たな私。 前髪をそろえて切った私は、一通りの表情を作ってみる。 「よし」 鏡の前で一回転した私は、その勢いで階段を下りて行く。 「登志子。ご飯は?」 「いらない」 その言葉に、母親が玄関まですっ飛んでくる。 「どこか具合でも悪いの?」 「元気ですけど、それが何か」 不機嫌に言う私に、それなら良いけどと言うが、目が怪しんでいる。 「お弁当はいるでしょ?」 おずおずと目の前に出された小振りの弁当箱を引っ手繰り、表へと飛び出す。 そうなんだ。自分に関して無頓着だった私は、突如、目覚めてしまったのだ。小振りの弁当箱を自分で用意し、これで頼むと出された時、一次的な気紛れだと踏んだ母親は、二つ返事をしながら笑っていたが、冗談でも気紛れでもない。 私は恋をしてしまった。 相手は、私より数段年上。もしかしたら妻子がいるかも。言葉も交わしたことなどない。同じ時間、同じ車両の同じドアの傍。偶然だらけの出会い。私より頭一つ背が高く、いつも何かの小説を読んでいる。 「告れば」 内なる思いを悪友であるヒッキ―こと、広川夏妃に打ち明けるや否や、こんな言葉が返って来た。 「冗談言わないで」 「何で? 好きなら言うでしょ」 あっさりと言い返され、顔面真っ赤にした私は、俯く。 「無理だよ。こんな私じゃ」 「横綱らしくない」 そうなんだ。今まで自分の欲求にまま、満たされた胃袋は、正直に体に反映されている。 「だからだよ」 きょとんとしているヒッキ―に、半泣きで、この身体じゃ、相手にされないでしょ。と言い切る。 「別に大丈夫だと思うけど。デブ専ってのもいるわけだし」 軽く言うヒッキ―を、私は初めて憎しみの目を向ける。 「彼がそうだって言える? ヒッキ―は良いよ。痩せているし、ヨッちゃんっていう彼氏がいるからさ。世間一般、私みたいなの相手にするわけないでしょ? あだ名だって、横綱だよ。今までは気にしなかったけど、やっぱりキツイよ」 生まれてこの方、この体型だった私は、誰に何と言われても気にすることがなかった。横綱と呼ばれるようになってからは、どすこいと腹を叩いて、ギャグっていたくらいだった。それなのに、姿見の前、絶望の波に襲われる日が来るとは、思いもしなかった。 「そんな気にするんだったら、痩せれば」 どうしてこの悪友は、こうもいともたやすく言葉を吐き出すのだろう? ショックでものも言えない私を見て、ヒッキ―は冷淡にも言い繋ぐ。 「横綱にも乙女の心があったということで。祝杯の盃を、今日の帰りにでもあげますか」 うるうるしている私を見ながら、ヒッキ―は何食わん顔で割引券なるものを掲げ見せる。 「商店街の福引きで、当てたんよ。デザート食べ放題。どう、乙女心くすぐられるでしょ」 「くすぐらんでいいわ。ヒッキ―、私の話をちゃんと聞いていた?」 「聞いていましたよ。この大きなお耳は、横綱の話を聞くためについているんだよ」 「てめぇ、ぶっ殺すぞ」 「きゃー怖いです。ヨッちゃん、助けて」 「ああ、芳郎の元へ行きやがれ。そして二度と私の目の前に姿見せんなよ」 「嫌だよ。横綱との会話しなくなったら、私、窒息死しちゃうもん」 「ヒッキ―!」 感動のあまり抱き付こうとした私に弾き飛ばされたヒッキ―が、地べたに転がりながら笑う。 「私でぶつかり稽古しないでよ」 そんな訳で、私のダイエット生活は始まったのであります。 *雪割草の花言葉・・・はにかみや。忍耐。 戻る ×
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