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I give you whom you should thank this
 

私にできること
 朝露が残る葉が、風に揺れる。
 鳥が喚き散らし、東の空へ翔けて行く。
 先が見えない道。
 答えが見つけられず、いたずらに自分を痛みつける。
 情けないのも、頑固なのも、軽率なのも、全部全部自分。
 雨粒落とす空、見上げ、恋歌に涙零す。
 明日が来ること、信じられなくなった日。
 意味もなく、希望を抱いた日。
 頑張れの言葉が、重くのしかかった日。
 心無い言葉に、泣き崩れた日。
 もう一歩も動けないと思った日。
 薄明かりの中、うずくまっているあなたへ、そんな私だから分かってあげられる気がするから、そっと手を差し伸べよう。
 飽きるほど、あなたの話を聞こう。
 喉がかれるまで歌おう。
 そして、気が済むまで一緒に涙して、笑える日を待とう。
 愛すべきあなたのために。
 
2020/06/22 (12:23)


白日
 当たり前が、当たり前でなくなった日。
 全開にした窓から見えた世界は、何一つ変わってなくて、強いて言うなら、名も知らない鳥が、やかましい位囀っていた。
 一人ソファーに腰掛け、皺くちゃになってしまった一枚の紙を開く。
 酷い話じゃないか。
 走り書きされた一片の紙。
 こんなことって、ある?
 涙も出やしない。
 時代はさ、確かに便利になった。
 どんなに離れていたって、心は通じ合える。話だって出来る。残すこともできる。出来ないことなんて、ほぼ何もない。そう、ほぼ何もないはずなのに……。
 角ばったあなたの字。
 泣くに泣けない。
 乱雑に並べられた数字や記号にアルファベット。
 夢中になって、画面を見続けるあなたの横顔が、ふと目に浮かぶ。
 呼吸をするように、二人はいつも一緒だった。
 それはずっと、この先も変わらない未来図だったはずなのに。
 「やばい。会社に財布を忘れてきた」
 そう言って、あなたはヘルメット片手に、家を出て行った。
 軽い気持ちで、ドジね。と言った言葉が、悔やまれる。
 「すぐ戻るから」
 そう言ってエンジンを掛けるあなたを、手を振り見送った。
 これが最後になるなんて、誰が思う?
 解約できないまま、放置されたあなたの携帯が鳴り出し、私は恐る恐るそれに出る。
 つくづく私も間抜けだ。
 これはゲームのパスワードなんかじゃなく……。
 これはあなたからのラブレターだったんだ。
 「俺ら、一緒に暮らすようになって、もう何年になる?」
 そう聞かれ、そんなことも分からなくなるくらい、マンネリ化してしまったのかと。機嫌が悪くなった私を、どんな気持ちで見ていたんだろう。
 カーテンが大きく揺れ、春の風が舞い込む。
 テーブルの上で、振動する携帯電話。
 ここにはね、あなたとした会話がね、たくさん残っているけど……。
 二人が出会った日。初めてデートしたレストランの略称。予約時間。小さく書かれたハートマーク。あなたって人は……。
 

2020/06/08 (09:55)


僕が泣いたわけ
 偶然通りかかった駅で聞こえてきたピアノのメロディ。
 僕はふと足を止め、その音の方へ導かれるように歩いて行く。
 何でもない日常がそこにはあった。
 サラリーマン風の人や、たまたま居合わせた通行人の人だかりができていた。

 音楽から離れて、もうどのくらいになるだろう……。

 過ぎ去ってしまった日々はもう戻って来ない。
 あなたが好きだったこの曲を聞くのも、今の僕にとっては辛い。
 淡い光のベールに包まれ、君が微笑む。
 酔ったあなたが良く打てっていた歌。
 当たり前のように訪れるだろうと思ったその季節は、もう二度と戻って来ない。
 突然やって来たあなたとの別れ。
 救急搬送された病院で、あなたの変わり果ててしまった姿を見た時、僕の時間は止まってしまった。
 まるですべてが夢の中の出来事だったかのように、僕の目の前を季節が流れて行き、遠い過去の話となった。
 僕にピアノを弾く腕はない。何も取り柄がない僕を、あなたは愛していると言ってくれた。
 時間が、僕だけが取り残されていく。
 「ね、けいちゃん」
 そんなあなたの声が聞こえた気がした。
 冬の日差しが差し込む僕の部屋。
 背中合わせのあなたが言う。
 「もし私たちに何かあって、どうしようもなく離れなければならなくなったとしても、二人でいた時間は消えないから、何年かかってもいいからおめでとうが言える人になりたいな」
 そんなことを、本気で言えるあなただから、僕は愛した。
 「下ばかり向かないで、ほら顔を上げて」
 きっとあなたならそう言ってほほ笑む。
 だから……。
 取り留めもなく流れ落ちる涙。
 あなたと出会い、愛を紡いだ日々。
 サヨナラも言わず、逝ってしまったあなた。
 演奏が終わり、拍手が送られる。
 僕は顔を伏せたままそこを立ち去る。
 もしあなたが一緒にいたなら、僕は唇を噛みしめ、空を見上げる。
 忘れることなどできないよ。
 肩を窄め、僕は日常へ戻って行く。
 
 
2020/02/05 (12:47)



君にとって何が幸せか考えてみる。
ありきたりなことしか浮かばなくて、くちゃくちゃに丸めた紙。
投げ捨てて、それさえもゴミ箱に上手く入らなくって、
思い返せば、そんなことばかりだった。
きっと俺と出会わなければ、君はもっと素晴らしい人生を送っていただろうし、泣く事もなかっただろう。
虚しさが染みる。
何でそんな事言うのって怒るけど
ガラクタだらけの俺にできる事って
空元気で言うのさ
愛してなんかいないって

夜明けの街彷徨い歩く
忘れたい事だらけの俺に何が出来るのか
誰でもいいから教えてくれよ
君が泣かない方法が分からないのさ
ずるい男と罵られてもいい
優しくもない俺に好きだなんて言うな
君にとって幸せって何?
俺がしてやれる事は何もない
風が目に滲みる。
愛してるなんか
愛してなんて
ぐちゃりと掌の中、握り潰す。
2020/01/29 (17:13)



数えきれない出会いと別れ。
無数の涙。
何のためと嘆きが雨を降らす。
もうこれ以上何を頑張れって言うの。
曙の空。
下弦の月。
ちっぽけな嘆きが窓ガラス曇らせる。
それでも諦められないのは、空の果てに何が待っているのか知りたいから。
2019/10/26 (05:29)


戦い
男は誓っていた。
すべてを失い、初めて自分の愚かさに気が付いたからだ。
厄介な話である。
自分一人で立ち直ったとばかり思っていたのに、グラつく世界。
螺旋階段を降りて行く靴音が、虚しく闇へと消え去り、男はがっくりと膝を落とす。
すべて終わりだ。
そして男はある思いに達する。
誰も見ていない。
隠し通せるのでは、と。
何が男をそうさせたのか、さかのぼること2時間前。
男は意気揚々と自分の成果に浸っていた。
これまでの努力が報われる、ついにその日を迎えたのだ。
これさえあれば、世界を我が物に。
快楽が押し寄せていた。
溢れてくるアイディア。
人々が肩を叩きあい、男の成功を祝う。
そんな光景が目に映っていた。
つい鼻歌が出る。
明かりを煌々と点けたくなった。
思えば、暗くじめじめした場所で這いつくばるような日々だったが、今こうして日の目を見ることが出来る。
薄らと陽が、男を照らし出したのだ。
だが、男はその時何も分かっていなかった。
暗がりにひっそり潜むものの怖さを。
軽やかな足取りで電気をつけた男は、初めて部屋の状態を知った。
散乱した資料。
身に覚えのない品々が、足場を埋め尽くしていた。
「やっとお目覚めですか?」
ギクリと男は振り返る。
いつからそこへいたのか、男は目を瞠った。
椅子に足を組んだ男がニヤリとする。
「あなたが言われている成果とは、このことですか?」
さっきまで偉大に思われたそのデーターが、とてつもなく小さなものに思えた。
愕然とする男の前で、その男は口へ放り込み意図も容易く腹に収めてみせる。
何て事を。
怒りが全身を覆う。
しかし、男は身動き一つできずにいた。
「所詮、あんたが言っている成功なんてもんはこの程度。精々頑張るんだな」
するっと横をすり抜け、男が部屋を後にする。
何度も繰り返される絶望。
たった一度の失敗が、男の人生を狂わせてしまっていた。
言い訳が付かない。すべての責任は自分にある。言わずとして知りえた事。
支え合うものさえいれば……。
誰かが囁く。
所詮戯言に過ぎない。
再び訪れた闇の中で、男は目を泳がす。
それでもあきらめるわけにはいかないのだ。
たった一つの失敗で、多くのものが傷つき多くのものを失った。
虚勢を張るのは今なのだ。
男はゆっくり立ち上がり、足元に散らかったものを一つ、また一つと拾い上げて行く。
戦いは一人でするもの。
しかし男は知っていた。
一人で戦っていても、必ず傍で見守ってくれている愛を。
力なく拾い続ける男の丸められた背中を、そっと包み込む温もり。
男は肩にあてられた手を軽く叩き返す。
そして男は思う。
この戦いは一生続くのであろうと。


2018/05/07 (08:02)


真夜中のシンドローム
 栄光なんてもんは持つもんじゃない。そんなもんがあるから、縛られて苦しくなる。
 神崎翔馬。大々的に見出しが付けられたスポーツ新聞。
 活躍の二文字が躍っていた頃の自分を思い出し、翔馬は苦々しく首を振る。
 この厄介な亡霊にとりつかれ、もう何年経つのだろう。
 歩くたび膝がうずく。
 あの日、確実に栄光は目の前にあった。
 滑り出しは上々。技の切れもいい。空が近い。いつもよりのっている自分が怖いくらいだった。風の感触が心地よい。この技を決めれば、割れんばかりの歓声が翔馬を包むはずだった……。
 悲劇なんてもんは、こういう時に起こるもの。
 翔馬はベッドの上で、つくづく己の運のなさを呪った。
 その日以来、翔馬は世間を嫌い、メディアと無縁な生活をするようになって行った。
 ここはいい。
 行き交う車や通行人を誘導しながら、翔馬はふと思う。
 コンビニ弁当を缶ビールで流し込み、寝る。
 休みの日は、何もせず、ゴロゴロと寝て過ごす。
 淡々とした日々。
 希望も目標もない、時間に飼い成された家畜のように生きていく。
 自分にはそれしか残っていない、とその瞬間まで翔馬は思っていたのだが……。
 水道管工事。
 深夜、通りを女が血相を掻いて走って来るのが見え、翔馬は眉根を寄せる。
 「おまわりさん助けて」
 え?
 なんとなく想像はつく。
 夫の暴力とか、ストーカーからとか、そういった類のものから逃げてきた的なことであろう。
 面倒はごめんだった。
 「オレ、おまわりじゃ」
 有無なしで、手を引っ張られ、翔馬は暗がりの壁際へ追いやられたかと思うきや、形勢逆転させられ、女がいきなりキスをしてきた。
 どうしてこんな事態に……。
 いきなりキスをされた翔馬は、瞬きをするのも忘れてしまっていた。
 熱烈なキスに、次第に翔馬は迷いながらも女の腰へ手を回す。
 車が一台通り過ぎ、数名のスーツ姿の男が通り過ぎて行く。 
 「ちょっと、いつまで引っ付いてんのよ」
 衝動的に女を抱きしめてしまっていた翔馬は、言われて、ハッとして飛び退く。
 「何とかまけたかしら?」
 手を翳し、男たちが去っていた方を眺めながら言う女に、ムッとした声で翔馬が話し掛ける。
 「あの」
 翔馬が声を掛けたのは、あくまで社交辞令的なもんだった。
 「おまわりさん、一回くらいキスしたからって、公務執行妨害とか言わないでよ」
 いけしゃあしゃあと言ってくる女を許しがたい目で、翔馬は見る。
 「いったいどういうつもりなんだ」 
 「どういうつもりもないわ。危機だったのよ。文句ある? 一般市民を守るのが、あなた方、おまわりさんの役目でしょ」
 女は首を伸ばし、男たちが去って行った方をしきりに気にしながら、言い返す。
 「だからオレはおまわりじゃ」
 「おーい」
 その段で、同僚がトイレから戻ってきて、気を逸らされてしまう。
 返事を返し、翔馬が振り返った時には、既に女の姿はなくなっていた。
 「どうした?」
 「いや、酔っ払いに絡まれちゃって」
 「またか。あいつら、いい身分だよな。こちとら、まじめに働いているっつうのによ、立っているだけでムカつくとか言ってきやがる」
 曖昧な笑みを浮かべるだけで留めた翔馬は、もう一度、さっきの場所を見やる。
 最低な出来事には、違いなかった。
 5時に仕事を終わらせた翔馬はいつも通り、コンビニへ寄り買い物を済ませ帰宅する。
 軽くシャワーを浴び、買ってきた弁当を食べようとしたその時だった。
 チャイムが鳴らされ、翔馬は時計を見る。
 7時を少し回ったところだった。
 何かの間違いか、いたずらだろう。まともな用件ではないのは確かである。
 無視を決め込んで、弁当に手を伸ばし掛けた翔馬だったが、眉根を寄せる。
 連打で鳴らされるチャイム。
 否応なしに立ち上がった翔馬は、のぞき窓から外の様子を窺う。
 そこには女が一人、立っていた。
 「さっきはごめん。謝る。だからここ、開けて」
 何を思ったのか、女が大声を張り上げだしたのには、翔馬は面を食らってしまう。
 「お願いよ。許して、ここ開けてよ」
 芝居がかったもの言いに、翔馬は顔を顰める。
 これでは隣近所に丸聞こえである。
 焦ってドアを開けた瞬間、女に抱き付かれ、翔馬は二、三歩後ろへよろめいてしまう。
 「おい」
 その女に見覚えがあった。
 「早く閉めて」
 緊迫した声で言われ、翔馬は慌てて鍵を閉める。
 「ありがとうおまわりさん」
 「だからオレは」
 翔馬から引き離された女性は気負うことなく、当たり前のように部屋へあがりこむ。
 「おい」
 「わぁおいしそう」
 そう言った瞬間、缶ビールが開けられ、ガブガブと喉を鳴らし飲み始める。
 「プハっ。くう、空きっ腹に利く」
 「あのなぁ」
 「おとといからなんも食べていなかったんだよね。いっただきます」
 嬉しそうに食べ始める女性に、翔馬は為す術もなくその場に立ち尽くしてしまっていた。
 
 いったいこれは何なんだ? 

 理解不能な状況である。

 「おまわりさんも早く食べなよ」

 にっこり微笑まれ、翔馬は一瞬、かわいいと思ってしまう自分が情けなかった。

 「お前、なんでここが? まさかつけて来たのか」
 「嫌だな人聞きが悪い。あとをつけて来たんじゃないのついてきただけ。それにお前じゃなくって、私にはちゃんと有村雫って名前があるんですからね」
 「そんなことどうでも良い。それ、食べ終わったらさっさと出て行けよ」

 それを言い捨てるのが精いっぱいだった翔馬は、寝室の襖を勢いよく閉める。

 何ていう日だ。

 翔馬は、耳をそば立てながら、天井を見詰めているのも束の間、すぐに瞼が重くなり、そのまま寝入ってしまっていた。

 どのくらい寝てしまっていたのだろう。

 ハッとし、翔馬は目を覚ます。

 悪い夢を見た。

 そう思った瞬間、翔馬は異変に気が付く。

 「ウワっ」

 驚いて翔馬がベッドから落ちた音で、女が大きく伸びをしてみせる。

 「おお前」
 「おはよ、う〜ん良く寝た」
 「何をしてんだよ」
 「何って、寝てたでしょフツウに」
 「だからそうじゃなくって、出て行けって」
 「もう朝っぱらから煩いな」
 面倒くさそうに、ベッドからはい出た女を見て、翔馬はまたもや目をひん剥く。
 「それ、オレのシャツ」
 「うん、借りた。見て見て、ぶかぶか」
 余っている袖を揺らし、女が嬉しそうに笑う。
 まずい。翔馬はその仕草が眩しく見えて仕方がない。つい顔が緩みそうになる。
 「勝手に何してだよ。脱げ、そして即行ここから出て行け」
 きつい言い方をされ、女はしょげながら上目使いで聞いてくる。
 「ここに居ちゃダメ?」
 「ダメに決まっているだろ」
 「少しくらい」
 「ダメ、出て行ってくれ」
 しばしの沈黙の末、女が溜息を吐く、
 「やっぱ無理か」
 そう呟いた女がするっとシャツを脱ぐ。
 またもや翔太は目をひん剥かせる。
 「お前、早く服を着ろ」
 「もう何なのよさっきから、脱げって言ってみたり、着ろって言ってみたり」
 「いいから」
 目の宛所が分からない翔馬は、後ろ向きになる。
 「ね、女の裸、見るの初めて」
 「んなわけないだろ」
 「そんなこと言っちゃって、本当は嘘なんでしょうおまわりさん」
 首に手を回され、翔馬は見る見る赤くなる。
 「おまわりさん、かわいい」
 「煩い」
 「ねね。私って、結構いいプロポーションしていると思わない? 今日は出血大サービス。見放題にしてあ、げ、る」
 「ふざけんな。いい加減にしないと警察に通報するぞ」
 「もう堅物なんだから。ま、それがおまわりさんの職務なんだろうけどさ」
 「だから、オレはおまわりなんかじゃねぇ。オレはただの警備員」
 「フーン、そうなんだ」
 気のない返事を返しながら女は冷蔵庫をあさり始める。
 「おい、何をしている? 服着たのかよ」
 「うん。何だか喉が乾いちゃって」
 「いいか振り向くぞ。着たな着たな?」
 「お! アイス発見」
 振り返った翔馬は思わず大声を張り上げてしまっていた。
 「何でまた俺のシャツ着てんだよ?」
 「え?」
 アイスを手にした女が嬉しそうに振り返る。
 「わわわわ。前を閉めろ」
 「もうガタガタ煩いな。これ貰っちゃうからね」
 「良いから、胸しまえ」
 「大丈夫よ。私見られても平気だから。それに一応パンツは穿いているし」
 「そういうことじゃなくって」
 「だって無理だよ。今手が塞がっているもん」
 「アイスを置きなさい。アイスを」
 「嫌だ。無理。そこまで言うなら着させてよ」
 女は胸を翔馬へ突き出してきた。
 この非常事態にやけ気味になった翔馬が、見ないように、ボタンを掛けて行く。
 「ね、テレビ見たいんだけど、どうしてないの? 着せてくれたお礼。はいあーん」
 屈託のない笑顔に、翔馬はやられそうになりながら、自分を奮い立たせる。
 「その服はやるから、さっさとこの部屋から出て行ってくれ」
 懇願する翔馬を見て、女はにっこりとする。
 「かわいい。もう仕方がない。その可愛さに免じて、わたしを、あ、げ、る」
 「ふざけんな。今すぐ出て行け」
 真っ赤になって怒った翔馬は、女の服を押し付け、部屋から無理矢理追い出す。
 「ごめんなさい。お願い、もうちゃんとするからここを開けて」
 止めてくれ。
 翔馬は耳を塞ぐ。
 やっと静かになり、翔馬は覗き窓へ目を押し当てる。
 どうやらいなくなったようだった。
 そっとドアを開け、確認しようとした瞬間、女に中へ飛び込まれてしまう。
 「へへへん。どんなもんだい」
 胸を張って言う女を見て、翔馬は全身から力が抜け落ちる。
 「お前、本気で警察へ突き出されたいのか?」
 「お前お前って失礼ね。私には有村雫ってちゃんとした名前があるんですからね。神崎翔馬さん」
 「お前、どうしてオレの名前を」
 「はい、郵便。ちゃんと見なくっちゃ駄目じゃない。こんなに溜まっていたわよ」
 翔馬の完敗である。 
 どういうわけか、この日以来、有村雫と名乗る女は、翔馬の部屋へ住み着いている。
 積極的に、ボディタッチをさせ、その気になるとはぐらかされる日々が、癖になりかけだしていた。
 仕事に張り合いが出てくる。
 帰りが待ち遠しく、翔馬はまっすぐ家へ帰る。
 嬉しそうに飛びつきキスをしてくる雫を、翔馬はいつしか愛し始めていた。
 そんなある日、雫が目を丸くして翔馬に尋ねる。
 「どうしてこの部屋って、何もないの?」
 がらんとした部屋を見回しながら聞かれ、翔馬は返答に困った。
 首を傾げられ、翔馬は目をゆっくり逸らす。
 「ああ誤魔化そうとしているでしょ?」
 こういう時は、キスに限る。
 口を塞がれてもなお、雫は質問を繰り返した。
 「ね、どうして? 翔馬、趣味とか特技とかないの?」
 痛くその言葉が胸に刺さった翔馬は、雫を押し除ける。
 「ね、ねえってば」
 後ろから抱き付かれ、翔馬の中で何かが弾け飛ぶ。
 強引に服を脱がせ、無我夢中で雫の躰をむさぼる。
 「翔馬翔馬」
 遠くで呼ばれているようだった。
 尽きた翔馬は、心が軽くなったような気がした。
 「ね、誤魔化さないで教えてよ。翔馬って昔、何かしていたんじゃない。私ずっと思っていたんだ。絶対運動神経、良いもん」
 何を根拠に言っているのか分からないが、翔馬は自分の腕の中で聞いてくる雫の髪を撫でる。
 「まぁな。ちょっとだけ、スノーボードをな」
 「スノーボードって、凄いじゃない」
 その言葉がくすぐったくって、翔馬は目じりを下げる。
 「じゃあじゃあ、今度一緒に行かない?」
 「どこへ?」
 「カナダ」
 「はい?」
 「でさでさ、私に教えてよ」
 無邪気に言う雫に、翔馬は笑ってしまう。
 「バーカ。んなのは無理」
 「ええどうして? 翔馬のけちん坊」
 「ケチとかじゃなくって、無理なもんは無理」
 「嫌だ。絶対翔馬に教えてもらうんだ」
 「あのなぁ、オレ、昔事故ちゃって、右足、ダメにしちゃったんだわ」
 「だから?」
 キョトンとした顔で訊き返してくる雫に、翔馬は苦笑する。
 きっと少し前の自分なら、こんな会話、成立することが出来なかっただろう。
 翔馬は愛おしそうに雫を見詰めキスをする。
 「ずるい。また誤魔化そうとしているでしょ」
 翔馬は声を立てて笑う。
 しずくが馬乗りになって、質問を繰り返した。
 「ね、教えてくれるよね」
 「だから、無理って言ったでしょ」
 翔馬が雫を抱き寄せる。
 「何で? 教えるのに、ケガ、関係ないじゃない。見ててくれさえすればいいんだから」
 「そう言ったって」
 「ね、ね、良いでしょ?」
 翔馬は、雫にかなわなくなっていた。
 「しょうがねぇな」
 「やったー」
 その日、嬉しそうに喜ぶ雫を、翔馬は思いぞんぶん愛した。
 そして、長い長いトンネルを抜けたような、すがすがしい気分で翔馬は朝を迎えていた。
 隣の部屋から、雫の鼻歌が聞こえてくる。
 時折混じるまな板の音が心地よい。
 「朝ですよ」
 翔馬のシャツを羽織った雫が起こしに来る。
 「キャっ」
 寝たふりをした翔馬に手を引っ張られ、雫はそのままバランスを崩して胸へ飛び込んで行く。
 「もう」
 念願かなって、結ばれたのだ。
 「良いから早く起きて、ご飯、冷めちゃう」
 「俺は雫を食べたい」
 「ダメだってば、早く支度しないと飛行機に間に合わなくなっちゃうでしょ」
 「飛行機って?」
 「もう忘れちゃったの?」
 「あれって、先の話じゃなかったの?」
 「ね、私、魔法が使えるようになったんだ」
 「こら。話を逸らすな」
 「本当だって、信じてくれないの?」
 「んなの、信じるわけないだろ」
 「じゃあじゃあ試してみようよ」
 「良いよ。受けて立ってやろう」
 「じゃあこの指をまっすぐ見て」
 大真面目な顔をして、人差し指を立てる仕草がかわいらしくて、翔馬は顔を綻ばせる。
 「あなたはだんだん瞼が重くて重くて仕方がなくなります」
 「それじゃ、催眠術だ」
 立てた指を口に押し当てられ、翔馬は黙る。 
 「私が三つ数えると、あなたは眠りの世界へ放り込まれます」
 そして、見事に深い眠りに就いた翔馬を、雫は愛おしそうに何度も頭を撫でる。
 「この深い森を抜け出したあなたは、ここで起きたことをすべて忘れ、新しい一歩を踏み出します。もう迷いはありません。あなたが待つのは希望だけです。目覚ましが鳴った時、新しいあなたがすっきりとした気分で目覚めます。失敗を恐れず、あなたは強い精神力の持ち主です」
 部屋が静かにノックされ、男が深々と頭を下げる。
 「教授、お時間です」
 「分かりました」
 雫は身なりを整え、表へと出て行く。
 「教授、彼は?」
 振り返り微笑む。
 「成功です。これで立ち直ることが出来るでしょう」
 「ありがとうございます」
 男の目には光るものがあった。
 「あなたも、これで自由になれますね」
 男はしばらく、顔を上げることが出来ずにいた。
 彼の運転する車が、高く積み上げられた雪壁にぶつかり大破。
 同乗していたのが、翔馬だった。
 あの日以来、翔馬の記憶には彼は存在していない。
 足のケガは転倒によるものだと思い込んでいた。
 いろいろな治療を受けるように勧めたが、翔馬は一切の言葉を受け付けなかった。
 
 朝の光に、雫は眩しそうに目を細める。
 「このシャツ、貰って行くわね翔馬」
 がたいがよい男が、一礼をして車のドアを開く。
 「お嬢様、おかえりなさいませ」
 「葛城、ただいま」
 車へ乗り込んだ雫は、そっと窓に目をやる。
 目を覚ました翔馬が、友人に手伝ってもらいながら荷物を運び出して行く姿がそこにはあった。
 「葛城、出して」
 「かしこ参りました」
 うまくいく当てなどなかった。
 翔馬の事故を知り、雫なりに必死で考え、心療内科医を偽り、彼へ近づいたのだ。
 流れて行く景色をぼんやり眺めている雫に、葛城が話し掛ける。
 「お嬢様、旦那様が急遽、今日帰国されます」
 「分かっているわ。もう覚悟はできていてよ」
 「左様でございますか」
 「ね、葛城」
 「何でございましょうお嬢様」
 「人の運命なんてわからないものね」
 
 しずくは幼いころ、雪山で遭難しかけたことがあった。
 助けてくれたのが、翔馬だった。
 翔馬の記憶に残っていない、小さな小さな出来事である。
 その日以来、雫の中で温められてきたものがあった。
 結婚の日取りが決まり、雫は心の整理をしたいと、葛城に無理を言って芝居を打ったのだ。

 空港ロビー。

 翔馬は何か忘れ物をしてきたような気がして、仕方なかった。

 出国の手続きを済まし、一人の男性とすれ違う。

 なぜか、翔馬はその男性から目が離せずにいた。

 「お父様」

 手を振る女性を見て、一瞬、何かが閃きかけたが、見送りに来ていた友人に声を掛けられ、気が反られてしまう。

 小さくなっていく翔馬に、そっと唇を動かす雫だった。
 
 
2018/04/29 (23:47)


ヴォイジャー
 強風が吹き荒れる中、詩音はひたすら前へと突き進む。
 国家なんてくだらないもの。
 手にしたシナリオが気に目を落としたまま、詩音は相手の出方を待つ。
 自分が最も嫌う父親に従ってまでも、詩音には守りたいものがあった。
 3Dホログラムが作り出す世界だった。
 巨大な影を落とし、シップが空を渡って行き、詩音は顔を顰める。
 これなら、誰も疑うことがないだろう。
 護衛隊長が薄らと笑みを浮かべ話す。
 製薬の発明は画期的だった。
 「どうです? なかなか良いでしょ? このテーマパークなら、何が起きても不思議ではない。それが狙いです」
 テーマパークと称した、実験施設だった。
 やや遅れて鳥形戦闘機が低空飛行でやって来る。
 「来たか」
 詩音は身を屈め、怏々と茂る叢へ姿を隠す。
 ある日、宇宙からの侵略者、ザターンによって、すべてが捻じ曲げられてしまった。
 文明を発展させ過ぎた彼らは、自らの手で、星を滅ぼしてしまった。
 そして新たに見出されたのがこの星、地球だった。
 予測が付かぬ、襲来に誰もが口々にテロを囁いたが、そんな生ぬるいものではなかったのだ。
 未確認物体の襲来で、街をいくつか失くした国家はようやく目覚め、多国籍軍が結成されたものの、時すでに遅く、南半球全般を侵略されてしまったのだった。
 人々の自由は奪われ、ダンバーを振られ、ザターンの監視下に置かれた。
 そんな中、唯一西林博士だけが、この異変に気が付いていた。
 そしていち早くシェルターへと逃げ込み、ザターンの手から免れることが出来たのだ。
 しかしそれは、一時のしのぎにすぎない。
 どこまで敵うか分からない相手だが、この国、射や地球の存亡にかかわる事態である。投げ出すわけには行かない。西林博士は、ありとあらゆる情報をかき集め、そのすべてを詩音に託した。
 探索機が地面すれすれに飛んでくる。
 詩音は息をひそめ、それを待った。
 詩音はレーダーには映らない。
 草がなぎ倒され、詩音は探索機にしがみつく。
 空母に着陸寸前で、詩音は手を放し、転げるように身を隠す。
 知能指数がはるかに上の人類。
 勝てる見込みなど計り知れない。
 だが、詩音は歯を食いしばり、参謀室を目指す。
 勘でしかなかった。
 ここまで敵と遭遇しなかったのが、奇跡である。
 参謀してあろう重い扉の前、詩音は呼吸を整える。
 認証。
 手を翳し、目を見開く。
 ものすごい速さで、数字が回されていく。
 詩音の額に汗が滲む。
 異変に気が付いたのであろう。
 扉がほんのわずか開かれ、兵士が飛び出してくる。
 その隙を狙って、見事に中へ入ることが出来た詩音は、茫然とする。
 そこで詩音が目にしたものは……。
 「コンピューター?」
 モノグラフが鈍い音を立て、姿を現す。
 「ようこそ、我がザターンへ」
 軽快な笑みで出迎えたのは、父、西林恭二だった。
 「父さん?」
 「詩音、幻覚に惑わされるな」
 耳を劈く銃声に紛れて、父の声が流れ込む。
 辛うじて攻撃から待逃れた詩音も応戦。
 激しい攻防が続き、音が鳴りやむ。
 敵の姿はなく、詩音の手によって破壊された機械が虚しく煙を上げていた。
 姿形どころか、痕跡一つ残されていない。
 忌々しく、壊れた窓から外を眺める。
 そこには皮肉なくらい美しい景色が広がっていた。

 
2018/04/10 (00:27)



 時間に押し流されるような日々。
 それでも確実に前へ進んでいる。
 街は春めいて、身も心も軽くなった、というと大袈裟かな?
 そう、あの日も今日も何も変わってなんかいない。
 久しぶりに引っ張り出してきたコート。
 何気なくポケットに手を突っ込み、その感触にわたしは顔を顰める。
 あなたはこんな恋愛もの、見たくはなかったのよね。
 最初から無理があったのよね。
 ずっと気が付かないふりをしてきたけど、心が痛かった。
 春風吹いて、スカーフ揺れる。
 どうしてかな、ずっと忘れていたのに……。
 胸の奥の奥。
 厳重に鍵を掛けていたはずなのに……。
 あなたといた一コマ一コマが眩しいくらい鮮やかに蘇って行く。
 何度だってやり直せるつもりでいたのになぁ……。
 本当の気持ちは誰にも言えずに、悩んだ日々。ようやく出した答え。夜空に星一つ。涙も一粒。全部忘れてやるつもりだった。それが私のプライドだったから、後悔はしていないつもりだった。
 でも眠れない夜。
 思い出すのはあなたのことばかり。
 好きだったのになぁ。
 明日の今頃は、きっと全部忘れて、何もなかったようにいつもの私になって、普段通りの時間に流されていくから、今日だけはこの思いに浸って、気が済むまで泣かせて。
 泣くだけ泣いたら、あなたが好きだって言ってくれた笑顔取り戻すから……。
 ああ嫌になっちゃうな。酷い男だったのに、どうして忘れられないんだろう。

2018/03/26 (00:38)


シンパシー
 ペンを投げ出し、私は机にうつ伏す。
 散々迷って何も書けないなんて情けない。
 手紙なんて、この時代古臭い。カビが生えているつうの。
 私は写真の中でのほほんと笑っている姉を、恨めしく見る。
 私がなぜ、こんな思いで犬猿の仲である姉の命令で手紙を書いているかというと、うっ、説明するのも嫌だ。
 実は姉とは、一卵性の双子である私たち。姿形は瓜二つなのに、性格というとまるで正反対。男の趣味もそうだ……と思っていた。
 男勝りである私は、姉のおっとりした性格が嫌で嫌で仕方がなかった。いつでもどこでも比べられて、言われるのはいつも同じ。姉のようになれないのかといわれるけど、顔が似ている。それだけで充分だろ。私は自由が好きなんだ。バタバタと朝の支度をする私を見て、母親の小言が始まる。これも毎度のこと。
 「煩いなぁ」
 「何ですって!」
 かなりの小声で言ったはずなのに……。
 「あんたって子は」
 ここは無視に限る。
 大慌てで髪を整え、上着を羽織る。
 「あっ、それ私の」
 「行ってきます」
 いちいち付き合っていられない。
 ペダルを力強く踏み込む。
 風が髪を攫って行く。
 ひんやりとするこの冷たさが好き。
 寒がり屋の姉には、到底理解できない感覚らしい。
 駐輪場に自転車を停め、小走りで駅構内へと入って行く。
 改札の前、一旦足を止め、呼吸と髪を整える。
 階段を上りきり、私ははやる気持ちを隠すように俯き歩いて行く。
 トレンチコートをきっちり着た彼が、本を読み電車を待っている。
 学生でもあるまいし、何をやっているんだか。
 自分でも呆れてしまうくらい、この名も知れない人のことにぞっこんになってしまているのだ。
 電車が滑り込んで来る。
 彼がチラッと顔を上げる。
 私は素知らぬ顔で後ろに並ぶ。
 彼はドアに凭れ掛かり、また本を読みだす。
 私は携帯を見る振りをして、彼を盗み見る。
 ささやかな私の幸せだった。
 にわかに春めいたとある日、姉が紹介したい人がいると言い出した。
 「彼でもできたの?」
 ひやかす私に、姉ははにかむように頷く。
 ……うっそ。
 絶句してしまう私に、姉は柔らかい笑みで次ははっきりと言葉にした。
 ウワっとなって、涙が私の意思とは関係なく流れ落ちた。

 そして運命の日、私は彼の顔を見て、言葉を失う。
 いつもと違う装いだが、確かにあの彼だ。
 それからのことは全く覚えていない。
 やけ酒を飲み、路上で正体を失くしてしまっていた私は警察で保護。
 引き取りに来たのが姉だった。
 その後ろにはあの彼もいた。
 最悪。
 朝まで二人は一緒にいたわけだ。
 彼の住む部屋がすぐ近くだからという姉の言い訳に、私は無性に腹が立った。
 悔しくて悲しくて、私は言葉にしてはいけない気持ちをぶちまけ、その場から逃げ出した。
 姉からの電話にも出ず、それっきり、もう何年もあっていない。
 その数か月後、二人は結婚したらしい。
 逃げ帰った私はばたばたと荷物をまとめ、止める母親の手を振り解き、家を飛び出していた。
 誰にも会いたくなくて、一人、街を離れ、海が見える街へとたどり着いた私にも、ようやく春が訪れようとしている。
 気まずい別れをしてしまった姉に連絡をするのは、相当勇気がいた。
 受話器の向こう側、戸惑う姉の顔が見えるような気がする。
 「もう心配させて」
 明らかに涙声だった。
 「ごめん」
 「本当に悪いって思っている」
 「うん」
 「だったら誠意を見せてよ」
 「誠意?」
 「そ、誠意」
 「だから謝っているじゃない」
 少しキレ気味で言う私に、姉はのんびりとした口調で返してくる。
 「あのね、あんた人の彼捕まえて、誑し扱いして、喚くだけ喚いて、自分が先に好きになっていたなんて言うだけ言って、姿消すなんて卑怯でしょ」
 ウッ、そういうことをさらりと言うかな?
 「あん時は仕方なかったでしょ」
 「仕方がないって、随分身勝手な言い分ですこと」
 言葉の割には穏やかな物言いだった。
 「まぁちゃん何が言いたいの?」
 「電話じゃないしっかりとしたじゅんちゃんの気持ちを形にして、あの時のじゅんちゃんを、彼に届けてよ」
 「何を言っているの?」
 「私もじゅんちゃんに謝らなければならないことがある」
 心がざわめく。
 街で偶然姉を見かけた彼は、最初、私だと思って声を掛けて来たと言うのだ。
 人違いと分かって、去ろうとした彼を引き止め、何食わぬ顔で恋に発展させていった。彼も同じ気持ちだったと言うのだ。照れ隠しで本を読むふりをしていただけ。座らずにいたのはドアに映る私を見ていたかったからだそうだ。私の告白に、彼の心は揺らいだ。揺れて揺れて、姉と一緒になった。戸惑いが残る結婚生活。声を詰まらせ話す姉を怒る気にもなれず、私は深い溜息を吐く。
 「とにかく書いてみるよ」
 「ありがとう」
 ふと気になって、私は電話を切る間際、言葉を滑り込ませる。
 「彼、元気?」
 一瞬の間が出来、わたしはうん? と思う。
 以心伝心。
 人は信じないだろうけど、時々そんなものが二人の間に起こる。
 「もしかして、病気しているの?」
 結婚して一年目で子供が生まれ、何とか幸せを感じられるようになったある日、彼の躰に異変が現れた。
 発熱を繰り返し、喉に違和感を覚える。
 病院を転々として、やっと病名が分かった時には相当進んでしまった後だった。
 「バチ、当たっちゃった」
 そんなこと言うな。
 「まぁちゃん、私ありったけの気持ち書くけど、良いよね」
 「うん。それが励みになるなら」
 「分かった」
 電話を切って、しばらく私は動けずにいた。
 バカだな。まぁちゃん書けるわけないでしょ。
 玄関チャイムが鳴らされ、日に焼けた彼が嬉しそうに笑い、当たり前のように中へと入って来る。
 テーブルに広げられた便箋を見て、彼が不思議そうに私を見る。
 そして、私は一つの名案が閃く。
 
 細々と命を繋ぐ彼の元へ、私は幸せを運んで行った。

 すっかりやせ細ってしまった彼は、あの頃のような穏やかなまなざしっで、私たちを祝福してくれた。
 
 これで良い。
 
 彼はもう姉のもの、家族なんだ。

 花瓶に花を活けて戻ってきた姉を自分の元へ呼び寄せた彼が、嬉しそうに話す。

 「似ているでしょ? オレ、最初間違っちゃって。でもまぁ運命ってもんはこんなもんなんだろうなって、最近思うんだよね。妻には苦労かけちゃって、こんなこと、俺が言えた義理じゃないけど」
 「もう何よ行き成り」 
 「いやほら、何か純菜さんに悪くてさ。なかなか本心が言えずにいたからさ。本当に良かった。これからは大手を振って、真亜子を愛しているって言える」
 ぎゅっと抱きしめられた姉が、大粒の涙を流し、顔を顰める。
 ようやく私に長い失恋劇が幕を下ろした瞬間だった。

 ――あれから三年。

 彼は生きながらえている。
 無理は出来ないが、ちゃんと凛として姉を愛してくれている。
 それだけで充分だ。
 だって私たち、以心伝心。幸せが伝わって来るから。 
 
2018/03/19 (17:25)

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