これは、現世では決して有り得ない、だけど彼らが夢見た平和な日常の片鱗。
ただの夢だったと終わらせるには些か無理のある、ほんのささやかな短い間の、確かにあったはずの夢の情景。
はて、自分は夢を見ていたのか、あるいは、今ここにいる自分こそが夢なのだろうか。
今ここにある自分を定義する根拠(もの)は何だ。

つまるところーー夢が見せる世界とは、違った側面から見た全く同じ世界である。







鴉が鳴いている。

身体が浮上する感覚と共に眼が覚める。
寝起きの良さには自信があり、一度眼が覚めれば途端に覚醒するのが彼の体質だった。
此処はーー?
杏寿郎は己の状況を整理すべく、未だ働きの鈍い脳を無理矢理働かせ思考する。
が、その直後に走る腹部の鈍痛に顔を顰め、思わず手を当てるとそこには何重にも包帯が巻かれていた。

「そうか。ーー俺は、」
「煉獄さん!!!」

名を呼ばれ、そちらを向くよりも先に杏寿郎の視界は声の主によって覆われる。
と、同時に、二本の腕が首に巻き付いて、

「むぅ!?」
「れ……煉獄さん……よっ、良かった……良かったです本当に……ッ、わ、私、不安で不安で……ッ!」

そう言って泣きじゃくりながら、止めどなく流れ出す涙を拭おうともしない。
あたたかな涙が杏寿郎の頬に落ち、そのまま重力に従って伝い枕を濡らす。
彼ーー杏寿郎は、そんな彼女に驚き何度か眼を瞬かせた後、震える背中に腕を回し、

「心配をかけてしまったな。すまない」
「あ……謝らないで、ください……貴方がこうして、生きて帰って来て下さった……その事実だけで、わ……私は……ッ」
「ワハハ……そうだな。どうやら俺は無様に生き長らえてしまったらしい」
「ぶっ、無様だなんて! そんなふうに仰らないでください……!!」

ほんの少し怒りを孕んだ声で、それでも尚、彼女は一時も離れようとはしない。
心の底から愛らしいな、と思う。
だが、意識を失う寸前までの過程を思い起こそうとした時、杏寿郎はハッとする。

「! ーーそうだ!!あの後、 乗客は……」
「安心なさってください。全員無事です。あと一歩というところで鬼には逃げられてしまいましたが、陽の下では鬼は無力。煉獄さんもひどい怪我でしたが、同行していた炭治郎君がすぐに応援を呼んでくれたので」
「……そうか。竈門少年が。後輩らに命を救われてしまった。柱として不甲斐ない」
「そんなことないです!! ーー炭治郎君から聞きました。煉獄さんが決死の覚悟で鬼に挑んだこと。自分以外の皆を守る為に。たった一人で。……私、その話を聞いて……ほ、本当に……ッ、怖かった……ふっ、不謹慎かも、しれませんが……煉獄さんが、死、んで……しまっていたら、なんて……そんな……不吉なこと、を」
「……名前」

杏寿郎は回した手で優しく背中を撫でながら、あやすように、愛するように、いつまでもいつまでも抱き締めていた。
傷口がまだ痛むのだけれど、それ以上に今は彼女を抱き締めて安心させたかった。

「言っただろう。例えどの様なかたちになっても必ず君の元に帰る、と。約束は必ず守る」
「ッ」

そこで、ようやく名前は再び溢れ出した涙を手の甲で拭い、赤くなった瞳で小さく頷く。
まだまだ涙は止まりそうにないが、そんな彼女への愛おしさが込み上げてきて、杏寿郎は眉を下げて笑う。

「ただいま」
「……お帰りなさい。煉獄さん」

これは、上弦の鬼との決戦後、九死に一生を得た彼のお話。
死の淵を見た男が見事生還を果たし、愛する彼女の元に帰った『もしも』の物語ーー


□■


上弦の鬼・猗窩座との死闘の末、致命傷を負った杏寿郎が蝶屋敷へと運び込まれたのは今からひと月も前の話なのだそうだ。
当時の彼は、まさしく満身創痍。
片目を失い、内蔵は潰れ、特に貫かれた腹部からの出血が酷く、蝶屋敷に保管されていた輸血用の血液パックは全て彼の治療に費やされた。
その間のことは何ひとつ覚えていない。
三途の川を見るようなこともなく、ただ、そこには無の時間があっただけ。
とはいえ、ひと月もの長い間生と死の狭間を彷徨っていたことは事実であり、しのぶやアオイらによる懸命な救命処置が結果として彼の生命をこの世に繋ぎ止めた。
どうにか死を回避した杏寿郎だったが、 猗窩座から受けた傷は相当深く、腹部は抉れたまま完全に塞がれることはなく、片目の視力が戻ることもなかった。
当時の医療技術では潰れた眼球を復元する術は確立されておらず、眼帯で覆うか、あるいは硝子か何かで義眼を作るしかない。
失われたものは戻らないが、それでも、死に損なった自分にもまだ選択肢があるのだということはとても幸福なことだと思う。

そして、何よりーー名前の存在。
彼女は一日のほとんどの時間を杏寿郎の看病に費やした。
着替えも食事も、加えて体を拭くことさえも彼女は進んで手伝おうとしたが、さすがに情けないと思ってしまった杏寿郎はそれらの申し出を丁重にお断りした。
もっともそれは単なる彼の見栄であり、怪我による生活への支障は多大なるものだったので、本当にどうしようもない時に手を借りることはあれど、例えばそれは食事を口に運んでもらったり、起き上がる際に肩を借りる程度だった。

「煉獄さんが蝶屋敷(ここ)へ運ばれて来た時、心の臓は完全に鼓動を止めてました。一時はどうなることかと思いましたが、持ち堪えてくれて本当に良かった。お体の調子は如何ですか」
「なるほど! 俺は死の淵から蘇ったという訳か! 改めて感謝するぞ胡蝶! 今のところ至って健康だ!」
「実際、健康体からは程遠いですけども、お元気そうで何よりです。苗字さんの看病のおかげですね。煉獄さんが眠り続けてひと月もの間一日も欠かさず通われてましたよ。彼女」

愛されてますねぇ、そう言ってにっこりと微笑むしのぶに対し、杏寿郎はそれ以上に口端を大きく持ち上げて、

「そうか! ならば後ほど名前にも改めて礼を伝えるとしよう! して、胡蝶に頼みがあるんだが! どうか聞き受けてもらえないだろうか!?」
「内容にもよりますが、とりあえず話していただいても?」
「一日でも早く退院したい! 出来ることならば今夜にでも!」
「駄目です」
「なんと!!」

即答したしのぶの口元の笑みはより一層深いものになっていたが、それはつまるところ、彼女の確固たる曲げぬ意思を示していた。
しのぶの判断は正しい。
先述したように杏寿郎は酷く負傷しており、治療には更にひと月どころかふた月あってもまだ足りないほどだ。
退院だなんてとんでもない。ただでさえ煉獄さん、あなたは無茶をしがちなのですから。
しのぶはそう言って、決して聞き受ける様子ではなかったが、意志の強さは杏寿郎の方も負けてはいない。
むしろ誰よりも意志の強さに関しては負けるつもりがなかった。

「では、こうしよう。今日含めあと三日はここで世話になり、四日後にはここを出る。治療自体はとうに済んでいるのだろう?胡蝶が危惧しているのは、俺が君の忠告を無視し体を酷使させることだと踏んだ。必ず安静にすると約束する。さすがにこの傷の大事さが理解できぬほど愚かではないし、痛い思いは強いて経験したくないからな。慣れているとはいえ、だ」
「しかし、今後の生活はどうするおつもりですか?鍛錬は疎か日常生活すらままならないお体で。ーー誰よりも自覚されているはずです。痛め付けられたその体は以前と同じ状態には戻らない。あまりに傷が深すぎました。刀を振るうことは、もう……」
「……」

この身体は決して以前のようには動かない。
それ自体はとうに自覚していた。
自分はもう柱として鬼殺隊にはいられない。
嗚呼、なんと情けないことだろう。
これでは責務を全うできない。
杏寿郎は今の今まで『炎柱』として鬼の頸を斬ることこそが己の存在意義だと思っていた。
つまるところ、それしか知らない。
そんな今の自分に生きている価値などあるのだろうか?

「不甲斐ないな……本当に」

彼の、誰に聞かせる訳でもない小さな呟きに答える者はいない。
しのぶの耳には届いていたが、彼女は口を噤んだままただただ悲しそうに眉を寄せた。
不甲斐ない、なんてことはない。
結果として杏寿郎は多くの人命を救った。
鬼を倒せなかったとはいえ、その功績は皆が手を叩いて賞賛するだろう。
だが、彼の無念も大いに理解できる。
ゆえに否定も肯定もできず、もし共感したとしてそんなものは気休めにすらならないと知っていたので、しのぶはその話題には触れず、たったひと言「お疲れ様でした」と労うのだった。



34 / 表紙
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