しのぶによる定期診療を受けた後、ひとりになった杏寿郎は思いに耽ける。
ぽっかりと大きな穴が空いたような感覚。
確かに物理的にも空いたのだが、と笑えない冗談を胸の内で呟き、今も尚抉れたままのそこに包帯越しに再び触れると、なんとも異様な感触だった。
よくもまぁ助かったものだ。
猗窩座と名乗った上弦の鬼との死闘を繰り広げ、ほぼ一方的な猛攻を受け続けた末、拳によって体を貫かれた時は本当に死を覚悟した。
大量の血液と共に熱が流れ出る感覚は今でも鮮明に思い出せる。

ーー……あまり思い出したくはないな。

鬼を追う日々を重ねるに連れ様々な感情が薄れてゆき、中でも恐怖なんてものはとうに消え失せたとばかり思っていたが、名前と出会い、彼女との別れをひどく恐れるようになってしまった。
体の熱が徐々に奪われてゆくと同時に、恐怖を色濃く感じるようになって「生きたい」という潜在的本能が浮き彫りになってゆく。
死にたくない。
死ぬのは怖い。
そう思うこと自体が悪いとは思わないが、人一倍責任感の強い杏寿郎は自分の弱さが招くものだと考えている。
致命傷を負ったあの時、あの瞬間、とてつもなく大きな恐怖と悪寒を感じた。
できることならもう二度と味わいたくはない。

「煉獄さん」
「!」
「あっ、申し訳ございません。驚かせてしまいましたか?」

そこへ、病室の扉からひょこっと顔を覗かせたのは名前。
彼女の顔を見た途端、杏寿郎の強張りはまるで氷が溶けるように解れてゆく。

「いいや、問題ない。先程胡蝶の診断を終えたばかりだ。ちょうど暇を持て余していたので、君が来てくれて本当に嬉しい」
「あぁ、診断の内容でしたら私も聞きました。しのぶさんに。二日後に退院されるのでしょう?意外と早いですね。驚きました」
「俺が無理を言ったのだ。ここではどうにも気が休まらない。何より、人目を気にせず君に触れることができないのは辛い」
「人目……」

名前は今し方の杏寿郎の言葉をすぐに理解できなかったが、反復し、咀嚼することによってようやく解釈したらしい。
ぼぼっ、と即座に顔を赤くさせる様は何度見ても愉快である。

「な……ッ、なな……」
「うん?」
「何をおっしゃいますか! というより、それ以前にその身体で動いては駄目でしょう! もうしばらくは激しい運動は控えてください!!」
「ふは」
「……?」
「いや、……ハハ。あぁ、すまん。俺は君に触れたいとは言ったが、激しい運動が伴うものだとは言っていないぞ」
「……」

名前は何か言いたげに口を開き、そのまましばし停止。
怪我人相手に怒ることもできず、どうしたものかと悩んでいるらしい。

「そうしたい気持ちは山々なんだが」
「……自分で言っていて恥ずかしくなってきたので、もうやめましょう。このお話は、はいお終い」

何処かで聞いたことのあるような言い回しに首を傾げつつも、杏寿郎はそれ以上言及しなかった。
あまりに顔が真っ赤なものだから。
からかっては可哀想だ、と思うほどに。

「ち、ちなみに……その、退院後はどうされるおつもりで? 安静にしなければならないことに変わりはありませんし、ともなれば静かな場所が理想的だと思いますが」
「うむ。そうだなァ……今のところ生家に戻るつもりはない。この無様な姿を父上や弟に見せたくはないのだ。せめてひとりで生活ができる程度までに回復してから顔を見せるつもりでいるが」
「……そう、卑下なさらないで。お気持ちはわかりますけども……そうだ。私が借りている、あの平屋は如何でしょう。生活できるだけのものは全て揃っておりますし」
「いいのか?君は」
「勿論です! 元よりあの平屋は借り物で、私の所有物ではありませんし。その間のことはお任せください。私でよければ、煉獄さんのお力になりたいです」

顔の熱を冷ますべく手のひらをパタパタとさせながら、名前はやや前のめりになってそう言い切った。
彼女の好意が素直に嬉しい。
杏寿郎は「それは実に有難い!」と溌剌と返しながら、内心、彼女との生活が楽しみだったりもした。
そう思うことこそが己への嫌悪感を増幅させてしまうことになるのだが。

杏寿郎の父・槇寿郎との関係は決して良好とは言えぬものだった。
槇寿郎が塞ぎ込むことになってしまった理由のひとつが、彼の最愛の妻であると同時に杏寿郎の母親である瑠火の死であることはわかっていたが、遺された親子の関係性が冷え込む理由にはならない。
関係を拗らせたのは、間違いなく自分のせいだ。
杏寿郎は幼き頃から当時炎柱だった父の背を見て育ち、己自身もそうなるものだと当然のように思っていた。故にーー

『お前たちに剣術は教えない』
『今後刀を握ることも許さない』
『炎柱など取るに足らないものだ』
『煉獄家には才能がないのだから』

母の死後、鬼殺の道から遠ざけようとする父の言葉一つひとつは、図らずも杏寿郎の存在そのものを否定しているようで。
それでも杏寿郎は諦めなかった。
亡き母の言葉を胸に、心の炎を絶やさず燃やし続けた。
父に逆らいたかった訳ではないが、結果として杏寿郎は父の意に反した行動を取った。
例え冷たくあしらわれようとも、尊敬の意が消え失せるようなことはなかった。
最愛の人を亡くしたのだ。ああもなる。
名前と出会い、彼女への愛を知った今だからこそ共感できることも多々ある。
とはいえ、父からしてみれば自分はきっと「聞き分けのない反抗児」なので、あれだけ大見栄を張っておいて鬼に大敗を喫すというのは尚のこと恥ずべきことだと考えていた。

「見栄っ張りですからね。煉獄さんは」
「……むぅ。君は人の心が読めるらしい」
「残念ながらそんな超人的能力は持ち合わせておりませんが、煉獄さんの考えていることならわかります。私も同じ見栄っ張りなので」

そう言って、名前は悪戯っぽく笑う。
だが、理解したうえでそれについて傷を抉るようなことはしない。
そんな名前の気遣いが心底有難かった。



35 / 表紙
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