これは、彼がこの世を去ってから、ずっとずっと先の未来のお話。



「ーーおはようございます」

この世界は、未完成である。
未完成なまま世界は廻り続ける。

願っていなくとも朝は来る。
そこに世界が在る限り。
あと何回繰り返さなくてはならないのか。
そんなことを考えつつも彼女は生きる。
数多の朝と夜を、出逢いと別れを繰り返す。
この世界を駆けていく。
いつ訪れるかも分からない、彼との約束を果たす日に向かって生き続ける。
どんなに時代が移り変わろうとも、彼への想いだけは決して朽ち果てることを知らずーー




□■


「時間がない」

ある日、彼女はぽつりとそう呟いた。
ほんの少しだけ怒ったような声音で。
彼女は存外怒りん坊で我の強い性格なので、彼はふぅと溜め息を吐きつつ言葉を返したりはせず、作業中の手を止めようともしない。
だって何を言っても慰めにすらならないし、答えが無いことも知っていた。
彼女は同情して欲しい訳ではない。
ただ、吐き出したいだけなのだ。
彼は共感は出来ずとも、彼女にとってこの世でたった一人の理解者であり、彼女を労うことのできる唯一無二の存在だった。

「このままでは、本当に……死んでしまうのでしょうね。彼も、私も」
「ーー」
「私のことはいいのです。どうでも。ただ、彼のことだけは絶対に殺させない」
「お前は本当に欲張りだな。俺たちにはただ待つことしかできないぞ」
「はい。せっかちなので」
「知っている」
「もっと言うと、私は……少し違う。私に残された時間は無限ではないので、気長に待ち続けることも叶いません」
「肉体は朽ちない。老いもしない。その点、何ら変わりはないだろう」
「でも、記憶は?ーー私の中の“あの人”が少しずつ薄れていて、きっといつかは完全に消えてしまう。人格を形成するのは記憶です。今の私は記憶で形成されている。記憶が無くなってしまったら、それはきっと私ではない。別の私です」
「なら、お前も残せばいい。どんな形であれ目に見えるものなら手元に残せる」

そう言えば、彼女は顎に手を当て悩んだ末、

「……愈史郎さんのように素敵な人物画を描ける自信が無いです」
「誰も絵を描けとは言っていない」

それに、俺は溢れんばかりの珠世様への気持ちを絵という形に昇華しているだけであって、本当は俺以外の輩にあのお方の美しさを知られたくはない。独占したい。本当は。
恥ずかしげもなく真顔でさらりとそう口にする彼ーー山本愈史郎は、一癖も二癖もある天才画家として珠世への愛を今日も描き続けている。
愈史郎は、珠世が生み出した鬼だ。
他の鬼とは生まれ方が異なる。
故に体質が特殊であり、元祖の鬼が死して幾百年と経った今も尚、人肉を食わずとも生きながらえてる。

だが、彼女ーー苗字名前の場合は?

「私が今の私を保てるのは、鬼舞辻無惨が本当の意味で死ぬまでです。本来、鬼舞辻無惨に鬼にされた者は、彼の肉体の消滅と共に全て滅びるはずでした。私は本当に運が良かっただけです」
「その結果こそが、鬼舞辻無惨がお前ただひとりだけを愛していたという確かな証だ。良くも悪くも」
「……」
「あいつは大罪を犯した。……珠世様を殺めたのだからな。地獄に落ちた後も大層苦労していることだろう。ざまあみろ。罪を清めるには相当の時間を要するはずだ」
「だけど、それも永遠ではない。ーーあれからもうだいぶ年月が経ちました。彼の罪は赦されつつあります。私の中の……僅かな鬼舞辻無惨の細胞がそれを物語っています」

名前は正真正銘、無惨の手によって生み出された鬼だ。ただし半分。
故に、鬼特有の禁断症状は出ない。
彼女は今より遥か遠い昔にたった一人の血を飲んで以来、一滴も血を飲まずに生きている。
未だ定期的に血の摂取を必要とする愈史郎との決定的な違いがこれだ。
名前は生きることに執着しておらず、ただただ愛おしい人との約束を守る為だけに在る。
彼女の余生は決して幸福からは程遠く、今日に至るまでの世界は美しいとは言い難い。
打算で生き、私欲のために他者から簡単に奪えてしまえる人間は腐るほどいる。
嗚呼、なんと浅はか。なんと愚か。
嫌なところを嫌という程見てきた名前は、純粋無垢なままでいることを許されず、今となっては目的の為だけに生きる亡霊と化していた。
本当に心底嫌になる、その度に、名前は愛おしい人ーー煉獄杏寿郎の言葉を思い出す。
それだけで、重く淀んだ彼女の心はスゥッ、と軽くなるのだ。

名前の身体は今も尚、誰にも穢されることなく貞操を守り通しているのだけど、心はすでに蝕まれ、擦り切れている。
杏寿郎以外を愛せない。愛さない。
最愛の杏寿郎のことを忘れ、他の誰かと幸福な日々を過ごす未来を考えられない。
これを、愈史郎は「呪い」の様だと言う。
……否定できなかった。
本当にその通りだと思う。
愛と呼べば美しく綺麗なものに聞こえるが、実態は美しいものからは程遠い。
だって、こんなにもドロドロとしている。

「私は楽観的にはなれません。最悪、目的を果たせない時のことも考えております」
「話だけは聞いてやる」
「ありがとうございます。やっぱり愈史郎さんはお優しい方です」
「褒めても何も出ないぞ」
「そんなこと言って、私の似顔絵を描いて下さっているではありませんか。はじめはあんなに嫌がっていたのに」

愈史郎はなにも意地悪で名前の絵を描いてやらなかった訳ではない。
もし、彼女が生きた証を目に見える記録として残せてしまったら、彼女は死ぬのではないか。
未練などないこの世には価値が無い。
そう、これは気まぐれだった。
愈史郎は初めて、最愛の人以外を描いた。

「そんな愈史郎さんにお伝えしたいことが」
「嫌だ」
「えっ」

まだ何も言っていないのに、と口を尖らせる名前の顔を見ないまま、愈史郎は聞いていないフリをし続けていた。
名前はそれを知ってか知らずか、そのまま言葉を紡ぎ続ける。

「お館様……輝利哉様とお話をした際に、心に決めたことがございます」
「……」

彼女が今も尚「お館様」と呼ぶ彼は、本名を産屋敷輝利哉という。
彼も名前と同じ時を刻み、鬼を知る、現世を生きる者だった。
例外として、彼は正真正銘人間である。
元は鬼の呪いによって短命だった産屋敷家は、無惨討伐以来、今や長寿の家系として一躍有名となる。
名前は彼と相見え言葉を交わす度に、大正の世はさほど昔の話ではないのだと実感する。
それでも、日に日に老いてゆく彼の姿を見ていると時の流れを痛感する。
短かった大正が終わり、今に至るまで、語り尽くせぬほどの数々の変化があった。
時が幾度となく移ろうとも、名前は大正の世を生きた彼の姿を探し求め、今も過去を生きている。
彼への想いが、未練が、名前の潜在的能力をより強力なものとし、彼女は本来の力を発揮する。
もっともその力はあまりに非現実的なため、只人に信じてもらえるか否かは別として。

「現代医学では脳の病気だとでも言われてしまいそうで」
「あるいは実験対象だろうな。きな臭いことに首を突っ込むのはやめておけ」
「はい。……だからこそ、私は信頼の置けるあなた方を頼りたい」

より良い未来を描きたい。
だけど、それが叶うとも限らない。
名前はただ夢を追いやみくもに行動していた訳ではなく、あらゆる可能性を踏まえ、思考し、彼へと繋げる道を見出そうとしていた。
そこに自分がいなくとも。



133 / 表紙
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