気付くと、杏寿郎は“そこ”に居た。
もうずっと居たような気がするし、つい今し方訪れたような気もする。
ただただ、ひどく心地好い。
この感覚だけは疑いようもない。
まるで揺りかごに揺られるような、ぬるま湯の中で顔だけ出して浮かんでいるような、そんな柔らかな感覚。
杏寿郎は寝返りを打とうとして、頭の下の感覚が普段と違うことに気付く。
その正体を確かめるべく何度か頭の位置を変えたりしていると、すぐ真上から笑みを含んだ柔らかい声が降ってきた。

「もう、煉獄さん。こそばゆいですってば」

名前を呼ばれ、応じるように眼を開く。
瞼を開けば視界に飛び込んでくるのは眩い白い輝きと、こちらを見つめる優しい眼差し。
泣きたくなるくらい愛おしい、彼女の姿。

「名前」
「はい。煉獄さん」
「……名前」
「ふふ、なんですかもう。そんなに呼ばなくても私は此処におりますよ」
「……」

思い出す。ここは、誰かの夢の中。
もう何度目かも分からぬが、彼はこうして幾度となく同じ夢を見続けている。
不可思議な話だが、これは事実。
唯一確かなことと言えば、彼女との関係はもうすでに終わりを迎えているということだ。
何故なら、彼ーー煉獄杏寿郎は、とうに生命を落としているのだから。

これより、回想。
彼は、何時ぞやの遠い記憶を遡るーー


□■


初七日(しょなぬか)
煉獄杏寿郎の死後七日目

仏教では人が亡くなると七日毎にあの世で裁判が行われ、極楽行きか地獄行きかが決まる。
その最後の判決が、四十九日目。
つまり、死んだ人間の魂が現世に留まることが許される日数は四十九日間ということ。
どうやら三途の川はないらしい。
誰に教えられた訳でもないのに、杏寿郎にはそれが知識として脳に刷り込まれていた。
もしかするとこれは本能的なもので、元より人は死んだらそうなるのだと理解出来るように創られているのかもしれない。

ーー……裁判。

杏寿郎には、裁判における自身への評価に対してあまり自信が無い。
一般的に善いとされる行いを心掛けていたつもりだが、それらを他者にどう受け止められていたかは分からないし、善意ある行動は時に悪意ある行動にもなる。
そして何より、自分は父親よりも先に死んでしまった。
親より先に死んだ子は、親不孝者だ。
ともなれば、杏寿郎を裁くであろう顔も名も分からぬ仏的存在が、彼の生前の行いをどう解釈するかによって杏寿郎の今後の命運(?)が決まる訳だが、今更、覆しようもない過去の行いをどうこうするつもりはない。
今の自分に出来ることは、四十二日後の判決を待つことだけ。
思うことは多々あれど、死した身で考えるべきことはさほど無い。
家族への言葉や鬼狩りとしての責務は、幸い死に際に託したいと思える後輩に託せた。

それでも、他の誰にも託せなかった大切な想いがひとつだけある。
それこそが、杏寿郎が遺してきた唯一の未練だ。

「名前」
「……はい? 煉獄さん」

名を呼ぶと、キョトンとした名前がこちらを振り返り、微笑む。
なんてことのない日常の風景。
ただ、杏寿郎が死んでいることを除けば。

目覚めた名前と共に彼女の生まれ故郷を目指す旅の最中(さなか)、夜道では彼の視力の良さが存分に発揮される。
杏寿郎がすでに故人であることを名前が知る術もなく、早々と蝶屋敷を出た。
道中、小芭内と遭遇した時はさすがの杏寿郎もひやりとしたが、彼の口から己の死を告げられることはなかった。
生前、杏寿郎は柱の皆に手紙を認めており、小芭内に宛てた文には以下の旨を記していた。

『伊黒。君は俺が死んだ後、きっと名前の身を人一倍案じてくれるのだろう。存外過保護な君のことだから、口ではとやかく言いつつも誰よりも気遣いが出来ることを俺は知っている。古い好だ。君は優しいからな。俺はそんな君と古い馴染みで在れたことを光栄に思っている』
『彼女は決断力のある女性だ。その姿が君の目には無謀で愚直に映るやもしれない。それでも、名前には名前の心が命じるままに動いて欲しい。どうか名前を止めてやらないでくれ』

無論、このまま隠し通すつもりはないが、またこうして彼女と共にいられて嬉しい。
反面、未来のない自分に彼女の貴重な時間を割いてもらっていることが申し訳なく思う。
せめて、許される限りーー四十九日目を迎えるその瞬間までは愛する名前の隣に居たい。
彼女の為に何かひとつでも多くを成したい。

「……あの。煉獄さん?」
「すまん!呼んだだけだから気にするな!」
「はぁ、そうでしたか」

と、特に気にするふうでもなく頷く名前。
意思疎通には問題無し。何故、名前とだけそれが可能なのかは分からない。
加えて、触れ合うことも可能。
ただ自分が死んでいるというだけで、なんら変わりなく幸福な日々を送ることが出来る。
それでも終わりは刻一刻と迫る。
……いっそ取り憑いてしまおうか。
出来るのだろうか。そんなことが。
このままでは何か悪いものになってしまいそうな気がする。
どうやら清く正しい「煉獄杏寿郎」は肉体と共に死んでしまって、かつて抱いていたはずの真っ直ぐな正義はどこかへ置き忘れてしまったらしい。
地獄行きでも構わないと思ってしまうほど、死者の禁忌に触れ、世界の理に逆らうことになったとしても、杏寿郎は今この瞬間を名前と共に在ることを望んでいる。

「ーー嘘ですね」
「!」
「何でもない人はそんな顔しません。煉獄さんは今ご自分がどんな顔をされていらっしゃるかご存知ですか」

気にしない方が無理な話です、そう言って名前は顔を顰め、それでも理由は問わない。
深く干渉して来ないのは彼女なりの気遣いだ。

「そんなに酷い顔をしていたか。俺は」
「酷くはないですよ。物足りないって顔です」
「……成程。あながち間違いではない」
「何が足りないのですか」
「何だと思う?」
「質問に質問で返さないでください」
「ならば正直に言う。君と手を繋ぎたい」
「……え、手?」
「うむ」
「それだけ?」
「逆に君は一体どんなことを要求されると思っていたんだ?」
「べっ、別に、変なことなんて、考えておりませんでしたけども」
「変なこと」
「そこは聞かないでください」

名前は分かりやすいくらいにしどろもどろになって、視線を泳がせ、何処と無く落ち着かない様子。
そんな彼女の頭の中を覗いてみたい。
杏寿郎は含み笑いを浮かべながら、名前のすぐ隣に立ち、その手をすくい上げた。
思い返せばーーこうして横に並ぶことはあまり無かったような気がする。
常に前方を歩いていた。守るために。
守りたい存在を常に背に感じていた。
そうすることで己を奮い立たせていた。守る為には歩みを止め、膝を着く訳にはいかない。

「変なことは宿に着いてからしよう!」
「!? や、ですからっ、そういうことでは」
「さぁ、急ぐぞ名前!夜明けが近い!このまま宿に辿り着けないと野外で変なことをすることになるぞ!」
「しませんよ!?」

陽光を避け、闇夜に生きる。
名前のことだけを考えて生きる。
生きていた時よりも我儘に生きてみよう。
この限りある刻を、悔いを残さぬように。

これは、幽霊になった煉獄杏寿郎のお話。




1 / 表紙
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