3. 未練 こうして私はあっけなくエルを失い、そして無様に失恋した。 いつも部屋にこもりっぱなしだった気味の悪い少年がいなくなったことは、またたく間に孤児院中の子供たちに知れ渡った。 しかし、エルは私以外に交友関係を持っていない。 つまり皆エルのことを大して知りもしなかったし、興味もなかったのだ。 彼が失踪した話題は数日間だけ面白おかしく語り尽くされた後、あっという間に孤児院から消え去っていった。 エルなんて少年は初めからこの孤児院にいなかったかのように、皆が当たり前のいつもどおりの日常を営んでいく。 そんな無情を肌で感じる中、私は一人だけ悲しみに暮れながらもこれからの人生の道筋を定めた。 涙も枯れ果てた後、私は友人らに気味悪がられるほどただがむしゃらに勉学に励み、一日一日を過ごしていった。 このころ孤児院は資金も潤い、子供たちの勉学や得意分野の育成に力を入れるようになっていた。 望めばどんなに高い本も、静かな部屋も、学費も用意してあげられると大人たちは言う。 私は豊かな環境をもたらしてくれたあの少年に感謝しつつ、寝食も忘れひたすらに勉強に努めたのだった。 やがてシックスフォームを経て、無事に総合大学へと進学することとなる。 大学生になってからも怠ることなく勉学に励み、私は目指す進路へとひたすらに突き進んだ。 そして卒業後。 私はフランスのリヨンへと移住し、思い描いていた通りにICPOの事務総局に就職することができた。 全てはただエル──いやLにもう一度会いたいが故だ。 この頃Lは探偵として多大な功績を挙げながらも、絶対に素性を明かさない謎の人物として名を馳せていた。 到底私のような一般人が手を伸ばして届く存在ではない。 しかし、LとICPOは度々捜査のため協力し合い、接触を持つ。 ならばICPOに身を置けば、いつかは私の存在に気づいてもらえるかもしれない。会えるかもしれない。 どんなに振り払おうともあの甘いケーキのように幸せな日々を忘れることは出来なかった。 だから私はエルと再び会える可能性を掴むため、ICPOの職員になれるように何年間も懸命に努力を続けたのだ。 目論見どおり、ICPOにいればLの存在を身近に感じることが出来た。 Lは自分の気になった事件にしか手を出さないが、それでもICPOに協力を要請することは何度かあった。 私はその度に泣きたくなるほど心を踊らせる。 会議中に聞こえるLの声はボイスチェンジャーを通しているが、あの癖のある淡々とした話し方は間違いなく彼のもので懐かしかった。 休憩中にどこからか聞こえる、捜査員たちのLの素顔を模索する会話。その答えを唯一私が知っているという事実は愉快だった。 司令室の大きなスクリーンに映し出されるあの「L」の文字は、かつて彼の肩越しに見たものと全く一緒で嬉しかった。 まだ彼と会うことが叶わずとも、いとしい人のかつての面影を感じることができる日々は確実に幸せだったのだ。 しかしある日のこと。 私は主に本部でデスクワークをこなしたりオペレーターとして現場の捜査員のサポートをしている。 その日は司令室に各分野多数の捜査員が集まり、Lと今後の作戦について会議を行っていた。 Lの声が聞けることに喜びはあったが、こんな大きな会議の中でまだ若輩者の私が目立つようなことをするのは不可能である。 おとなしく真面目に会議の内容に耳を澄ましていたところ。 「では被害者たちの通っていた教会からモーターウェイへの最寄りのインターチェンジ、その道中にある公園を現地で調べた捜査員の方はいますか」 無機質なLのその台詞に私の心臓は止まりかけた。 私がサポートを担当していた捜査員からの情報を、Lは求めている。 しかし当の捜査員はまだここ本部へ戻れていない。 であれば、捜査員が得た情報をLに伝えるのはこの場にいる私の役目となる。 隣で座っていた上司が「早く伝えろ」と私を急かした。 心臓が激しく脈打つと同時に、手が小刻みに震える。 緊張のあまり口が思うように動かず、依然として声を発しようとしない私を、周りの捜査員たちが不審そうに見ていた。 早く、早く、喋らなくては。 「…、…現地の捜査員からの情報では、非常に見通しのいい公園で目の前の道路は人通りも多く、少なくとも日中はそこで犯行に及ぶことは困難だろうとのことです」 「わかりました。では次に───」 こうして彼と私の、あの別れの夜以来の約十年ぶりの会話はあっけなく終わった。 会議が終わった後、私は気分が悪いなどと適当な嘘を周りに伝え、大急ぎでトイレの個室へと駆け込んだ。 扉を閉めてようやく一人になれたところで、声を押し殺し静かに、しかし激しく泣いた。 十年ぶりに彼と会話を交わすことができて嬉しい反面、途方も無い虚しさを感じてしまった。 エルと再会することだけを頼りに何年も死に物狂いで頑張ってきたが、いくらあがいてももがいても、縮めようのない住む世界の違いを感じてしまったのだ。 私はLにむけて一言語りかけるだけで心臓が止まってしまいそうなほど緊張したというのに、彼はそうではなかった。 そもそもきっとLは、あの時声を発していた人物が、かつて孤児院で共に過ごした少女と同一人物であったことすら知らないだろう。 当たり前だ、私が懸命に勉強に励んで念願のICPO職員となったことを彼は知る由もない。 ただいつもどおりにいち捜査員に話を聞いただけ。 それ以上でもそれ以下でもない。 そして私は己がこの十年間、完全に無駄な努力をしていたことにようやく気づいたのだ。 かつてはあんなに近くにいて触れることができる身近な存在だったとしても、今は違う。 もはやLは次元の違う存在だ。 そんな彼がこの凡庸な私に気づくことは断じてありえないし、再会の機会を作ることもない。 こんな簡単なことに十年もの間まったく気づかず努力し続けてきた私は、なんて醜く滑稽なのだろう───。 もはや叶うこともない狂気的な愛の行き場を失い、私は苦悶に苛まれながらただ嗚咽を漏らすしかなかった。 そんな失意のままただ流されるように日々を過ごし、今年もついに残り一月という頃。 ここ数日ICPO本部では、世界中の犯罪者たちが心臓麻痺で死亡する事件についての話題が絶えなかった。 突然発生し、そして今なお増え続けていく謎の死亡事例に焦ったICPOは、ついに世界各国の警察機関の代表者を招集し、昨日会議を開いたらしい。 そこでLが今回の件を大量殺人事件と断定し、捜査開始を宣言したとのこと。 本部の人員は世界中の警察機関から情報を集めるためにここ数日慌ただしく動いていたが、しかしこの時間になって皆手を止め司令室に集まり、スクリーンに注目している。 Lがこれから日本でキラ事件についての放送を行うからだ。 私も時計を確認し、緊張しながらスクリーンを凝視する。 今回のLの作戦はICPOにも、少なくとも私のような一般職員には詳細が全く語られていない。 これから何が始まるのか期待するようなこと誰かが小声で話していて、私も固唾をのんで放送開始時間を待った。 そしてノイズの後、映し出された全く知らない謎の男が、あのLを名乗ったのだ。 この場にいる皆がざわついている。今まで頑なに素性を明かさなかったLがその素顔をついにテレビに晒したことに驚きの声が上がっていた。 もっと年老いた男だと思っていた、だとか、思っていたよりもハンサムだな、だとか彼の容姿に関する呑気な話題が飛び交う中、私は一人困惑する。 そのテレビに写っている男性が、本物のLではないと知っているからだ。 当然といえば当然だ、今日まで頑なに素顔を晒さなかった彼が表に出てくるはずがない。 それならなぜ代役を使って放送を行うのだろう。 あのLのマークよりも力強く印象的に意見を述べるためだろうか。 この場でテレビに映る男が代役であることを知るのは間違いなく私だけなので、この困惑を周りに悟られてはならない。 謎の男が語る台詞なんて頭に入って来なくて、その裏にあるであろうLの真意について静かに考えるので精一杯だった。 「く、ぅああッ」 しかし偽物Lがもがき苦しむ突然の声に、司令室に緊張が走った。 胸を押さえ、そしてデスクに突っ伏して動かなくなったその映像に、ここにいる皆がキラの犯行であることを察してしまった時、突然画面が切り替わった。 「し…信じられない…」 ああ、エル…! 珍しく困惑を孕んでいるようだがいつものボイスチェンジャー越しのその声。 Lの身にはキラの魔の手が及んでいないことを察して酷く安堵する。 先刻倒れた代役の男の安否については気になるが、たとえ手の届かない存在になってしまったとにしてLが無事であることは私にとってとても重要なことだった。 突然代役ではなくL本人が出てきたことに皆がさらに困惑しているが、さらに大きな問題がこの場にはあった。 「な、なんて言っているんだLは?」 「これは日本語か…?」 先刻まで英語で代役の男が語っていたというのに突然L本人が日本語で話し始めたので、ここICPO本部にいるものは何を言っているか理解できないのだ。 あらかじめ日本語で放送すると分かっていれば通訳をこの場に用意したはずだが、いきなりのことなので当然いない。 Lが放送で何を語っているのかを疑問に思い戸惑う声が至るところから上がっていた。 私は急いで辺りを見渡す。 皆日本以外の国を母国とするものばかりで、日本人は私しかいなかった。 やるしかない。 私は自分が今すべきことを理解し、大急ぎで近くにあったマイクをセットしスイッチを入れた。 「”よく聞け、キラ。 もし今あなたがリンド・L・テイラーを殺したのなら それは今日この時間に死刑なる男であり、私ではない”」 Lの声に集中し、即興で英語に通訳していく。 完璧には通訳しきれなくても、とにかくLの語ることを皆に理解させられれば良い。 突然の私の行動に皆は驚き、ひとり残らず私に注目しているが、構うものかと通訳に集中した。 「”さあ!私を殺してみろ!早く!できないのか ”」 Lが発したとは思えないような強い語気の台詞にワンテンポ遅れて、私の通訳後に皆がざわめいた。 私も皆と同じように戸惑ってみたいが、いちいちLの台詞に心揺さぶられていては通訳がお座なりになってしまう。 ひとまず今は余計なことを考えないように努め、集中力を研ぎ澄まし、私にしか出来ない仕事として責任をもって通訳し続けた。 やがてLはこの放送が日本の関東地区にしか放送されていないことや、新宿の通り魔が初めの犠牲者であること、キラを死刑台に送ること、己こそ正義であることを、鋭い調子で語り、そして放送を終えた。 画面が真っ暗になり、通訳の仕事を終えたことを悟ると一気に疲れに苛まれる。 同時通訳者の仕事は過酷だと噂には聞いていたが、確かにこれは脳の疲労が大きい。 ドッと体が重くなり、額に手を当ててため息をつけば、皆から感謝と労りの言葉をかけられた。 君がこの場にいてくれて助かったなんて同僚や上司から口々に褒められれば、普段ならとても嬉しいのだろう。 しかし今はLのことで頭がいっぱいで、ぬるく喜びに浸っている場合ではなかった。 あんなふうにLとして人を挑発する姿は見たことがない。 しかもその相手は世界中で同時多発的に人を殺せる超能力者。 そんな前代未聞の異次元の相手に喧嘩を売ったのだ。 極秘の犯罪者をテレビで見ただけで殺せるのだから、Lがあの瞬間殺されても可笑しくはなかった。 何故こんな無茶なことをしたのか。なぜ「殺してみろ」なんて挑発を使ったのか。 きっとLなりに理由があっての作戦なのだろうけれど、しかし傍から見ていて気が気でない。 こんな明らかな喧嘩をうって、以後どうやって捜査していくのだろう。 もしかしたら放送を終えた今この瞬間に、なんらかの手段でLが殺されてしまうかも。 そう思うと気もそぞろである。 しかしどんなにLを心の底から心配してみても、彼の生死を確かめる手段は私にはない。 そのもどかしさがあまりにも辛くて唇を噛んでうなだれていると━━突然ポケットの中の携帯が震えた。 今司令室ではLの放送の話題があちらこちらで盛り上がっており、がやがやととっ散らかった状態になっている。 これなら部屋から抜けても大丈夫そうだと判断し、私はこそこそと退室して通話可能な場所で携帯のボタンを押した。 「はい。香乃子です」 「ああ良かった、香乃子、久しぶり」 「ロジャー!」 Lと共に姿を消したワイミーに代わり、今施設の代表者を努めているロジャーからの電話だった。 私はよく知るものの声に安堵し自然と顔を綻ばせる。 「本当に久しぶりね、そちらの皆は元気?」 「ああ変わりない。職員も子供たちもみな平穏に過ごしているよ」 「そう、良かった…。それで、どうしたの?何か用事?」 そう問うてみれば、電話の向こうから沈黙が流れてきた。 なかなか声を発しようとしないその様子を不審に思い、今一度彼の名前を呼んでみると、彼は間をもたせるかのように「あーいや、」と曖昧な返事をよこした。 「今日は仕事は早く上がれそうか?」 「…あと数時間で一応退勤の時間だけれど…今例の事件で忙しいから多分残業」 「いや、実は、大学生になったテレンスが今、リヨンにいてね。ほらあの子は君と同じようにICPOへの就職を希望しているだろう。だからリヨンにいる今、会って進路について相談したいそうなんだ」 だから仕事が終わったらその子と少しの時間でいいから会ってやってくれないか、ロジャーはそう言った。 テレンスのことは知っている。孤児院にいる時から真面目で勉強熱心な子だった。 その子が何故こんな時にわざわざリヨンを訪れているかはわからないが、それでも会って進路相談にのってほしいとあれば協力してあげたいと思う。 八歳で引き取られてから、私はたくさんのものを孤児院で授かった。 ゆくゆくは恩返しをしていきたいとは思っていたし、次の世代の育成に協力することで受けた恩を返せるのならば最高だ。 私はこれからのスケジュールを思い返し、少し悩んだ後、口を開いた。 「わかった。二時間くらいなら時間を作ってあげられるから、その子に会いましょうと伝えておいて」 ロジャーは電話の向こうで安心したようにため息をついていた。 こうして待ち合わせ時間と場所を定めた私はロジャーとの電話を終え、仕事へと戻った。 未だLとキラの話題で持ちきりだった本部での仕事は慌ただしく、Lの安否について懸念し感傷に浸っている暇なんてなかった。 私はICPOのいち職員として、自分が今できる仕事を懸命にこなしていくのだった。 そして通常の退勤時間となり、皆が当たり前のように残業する中、私は事情を説明して二時間ほど抜ける許可もらった。 コートを羽織って黒の通勤かばん片手に外へ出れば、もうとっくに日は沈みあたりは暗くなっている。 十二月の寒さに震えながらタクシーに乗り込み、指定されたカフェへと向かう。 まだほんの僅かに明るさを残す夜空で、やや欠けた月が綺麗に瞬いていた。 タクシーを降り、さあ店内へと足を踏み出そうとする──その時だった。 「香乃子」 老いた男性の声で呼び止められ、振り向き──そして息をするのも忘れるほどに驚愕する。 私の後ろに立っていたのは、十年前にエルと共に姿を消したワイミーだったのだから。 「あ、あなた…わ、」 「久しぶりですね香乃子。いきなりで申し訳ないのですが、私についてきてもらえますか」 私の言葉を遮るように、しかし優しい口調でこちらに話しかけるワイミーの姿に戸惑う。 聞きたいことはいっぱいあるが、何故ここにワイミーがいるのかその理由が全く分からずぽかんと立ち尽くしていると、テレンスのことが脳裏をよぎった。 「あ、でも中で人と待ち合わせをしていて…」 そう私がしどろもどろに答えれば、穏やかに弧を描いていたワイミーの目が眼鏡の向こうで意味ありげに私を捉えた。 そうして私はその瞬間察したのだ。 テレンスがリヨンに来ていることも私に進路相談したがっていることも全てウソ。 すべては私を呼び出すためにワイミーが図ったことなのだと。 突然私を呼び出したその訳はさっぱりわからない。 しかし同行することを望まれているとあらば拒否する理由もなく、私は大人しくカフェに背を向け、ワイミーの後をついていった。 駐車場に停められていた黒塗りの高級セダンに足を竦ませながらも大人しく乗り込めば、特殊な形をしたサングラスを手渡される。 「申し訳ない、香乃子を信用していないわけではないのですが、念には念を入れて目隠しをさせてください」 その瞬間にぴんとあることに思い至り、私の心臓は激しく脈打った。 「…まさか…」 「…ええ」 本当はすぐにでも行き先を問いただしてみたい。 しかしそれを口にすることが許されるかも分からず、戸惑いながらもそれっきり口を噤んだ。 素直に目隠しを装着し、著しい緊張で荒い呼吸のまま背もたれに体を埋めれば、車は穏やかに発進していく。 ドライブはなかなかに長時間だった。 目隠しをされているので時計を確認することができないが、体内時計の感覚を信じれば二時間ほど経ってしまったと思う。 本部に戻る時間とっくに過ぎちゃったな、とぼんやり思うも、今の私にこの車から降りる選択肢は残されていなかった。 ワイミーは私が退屈しないようにか、ポツポツと当たり障りのない話題を提供してくれた。 美しい一人前の女性に成長してくれて嬉しい、だなんてお世辞から始まり、リヨンで食べた美味しいごはんの事など。 確かに退屈はしなかったし興味深い話もあったが、しかし今の私が知りたいのはそんな当たり障りのないことではなかった。 ワイミーがリヨンを訪れていた事実に、私の中の仮説は一つ確定的になった。 ワイミーとワタリは同一人物であるということだ。 Lと唯一コンタクトをとれる人物として活躍している謎の男ワタリ。 ワイミーが孤児院時代からエルのことを気に入ってよく世話をし、そしてエルと共に失踪したことを考えると、彼がワタリである可能性に自ずとたどり着く。 しかしワタリはICPOの会議など人前に姿を晒す時は、常に忍ぶように漆黒のレザーコートを身にまとい帽子を深く被っていた。 遠目からではその正体を確認することは不可能だった。 昨日、12月4日のLが捜査開始宣言をした代表者会議でも、ワタリは会議場であるICPO本部に姿を現したそうである。 ワタリがリヨンにいて、そしてワイミーもリヨンに現れた。 やはり私の予想していた通り、ワイミーはワタリだったのだ。 そんなワイミーが今私を車に乗せ、目隠しを施すなど最大限の注意を払いながらどこかに向かっている。 もはやそうとしか考えられない。 いや、そうであってほしいという私の願望なのかもしれない。 これから連れて行かれるその先を思うと、もう今から胸がはちきれそうなほど苦しくなってしまう。 私は適当にワイミーとの会話に相槌を打ちながらも、ただ愛しいあの人のことで頭がいっぱいのまま、長い長い時間を過ごしたのだった。 やがて車はどこか静かな場所に停められた。 ワイミーに手を導かれながら恐る恐る車から降りて歩いていく。 ここがどこなのかという不安は確かにあるが、それよりも今の私の胸には大きな期待が渦巻いていた。 「どうぞ目隠しをはずしてください」 歩いて、エレベーターに乗って、また歩いて。 しばらく移動した後ワイミーにそう言われ、微かに震える手でゆっくりと目隠しを外した。 数時間ぶりに光を取り入れたために目が酷く眩むが、徐々に普段どおりの視界を取り戻していく。 ここがどこかは全くわからないが、窓の向こうに優雅にきらめく夜景を一望できるのでビルの高層階だろうか。 部屋の中はひどく無機質で、コンクリートの壁がいやに寒々しい雰囲気を放ってる。 ろくに家具も置かれておらず、淡い色のフローリングが続くだけの広い部屋。 そんな色味に乏しい空間の中、床に直接おかれたパソコンの前で丸まっている白い背中──それを認めた瞬間、私はついに嗚咽を押さえきれなくなってしまった。 その人物がのっそりと振り向く瞬間は、スローモーションのようにもどかしくて────。 ろくに整えてもいない乱雑な黒髪。 クッキリと主張する隈。 死んだ魚のように輝きのない目。 流石にダボダボの服ではないようだが、でも昔と変わらない白いシャツとゆったりしたジーンズ。 「お久しぶりです。元気でしたか、香乃子」 ああ──私を見つけ出してくれた、愛しい人。 十年ぶりの大好きなその声で鼓膜を震わせた瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。 (mainにもどる) |