the cake is a Lie | ナノ
2. 独り善がり

「…え、今の一回ポチってやったのでそんな沢山のお金使っちゃったの…?」
「はい。まあ、少し待てば何倍にもなって返ってきますけどね」

今日もおやつを届けに部屋を訪れていた私は、エルの後ろからコンピューターの画面を覗き込んでいる。
表示される金額のゼロの多さに、私が取引したわけでもないのに身体がすくみ上がって身震いしてしまう。
一方取引した張本人であるエルといえば、まるで何事もなかったかのように飄々といつもどおり爪を噛んでいた。

当時の幼い私は投資のことなんて何一つ分からなかったが、しかしそれでもエルがとんでもなくすごい額のお金を稼いでいることは理解していた。
ハウスの運営資金も大分潤うようになったのだろう、古ぼけたおもちゃの数々が新しくなっていき、私達子供に提供されるおやつや食事も豪華になった。
しかしそれがエルのおかげだということはワイミーから他言しないように言われていたので、皆は知らないだろう。
ワイミーと、そして私とエルだけの秘密なのだ。


「それで香乃子」

モニターから滅多に目を逸らすことのないエルが、突然私へと顔を向けた。
ギョロッとした無感情の瞳にいきなり見つめられて、一瞬たじろぐ。

「今日のアフターヌーンティーのおやつは何ですか」
「ああ!ちゃんと用意してあるよ!…ほら見て!手作りプリンでーす!」

ジャジャーンと戯けた言葉を口にしながら、二つのプリン──カスタードプディングとスプーンが乗ったトレイを彼へと見せる。

「…すごく美味しそうです」
「エルに喜んで欲しくて頑張って作ったの!」

エルが珍しく目を輝かせてカスタードプディングを見つめているので、私も嬉しくなって恥じらい気味にはにかむ。
人差し指を咥えながらもう片方の手で皿を掴もうとするエルを静止し、ワゴンからティーポットとカップを下ろしてお茶の準備を始めた。

この頃は時間があればエルのために手作りのおやつを作るようになっていた。
大人たちもエルのためならとキッチンを使うことを許可してくれた。
エル本人だって調理師が作った健康的な甘さのおやつよりも、たっぷりお砂糖を入れた私のおやつのほうが好みのようで、手作りするのを歓迎してくれた。
むしろスクールが忙しくておやつが作れなかったりする日は露骨に残念そうに肩を落としている。
感情豊かな面を見せてくれるようになった少年が、私は可愛くて可愛くてしかたがなかった。

二人仲良く向かい合って座りながらのアフターヌーンティー。
一口食べ、なかなか美味しく作れたなと自画自賛しながら目の前のエルへ視線を向ける。
エルは難しいことを考えているのかどこか遠くを見つめているようだが、黙々と口に運ばれるスプーンを持つ手は止まらない。
彼は自分の食べたいものしか食べない性分だ。
黙っていてもこうしてスプーンが進んでいるのは美味しく思っているということ。
その事実だけで私の胸は喜びで満たされる。

「美味しかったです、ご馳走様でした」

日本語でしっかりと労りの言葉をくれる彼の律儀さに、照れ笑いを浮かべる。

私とエルだけの、二人っきりの特別な時間。
特別な人間の特別な存在になれるというのは、幼いながらにもとても気分が良かったのだった。




さらに時は流れ、私がセカンダリースクールにも十分に慣れた頃。
以前と変わらず、多少遅くなっても時間があれば彼へとおやつを作り、二人エルの部屋でお茶をしていた。
エルはスクールにも通わず部屋にこもりっぱなしの毎日だったが、勉強を全くしていなくともセカンダリースクールで習う内容など全て頭に入っているようで私より遥かに賢い。
その頭脳は勉学のみならず、どの分野においてもワイミーが絶句するほど異次元的に優秀だった。

最近は投資はそこそこに、各国の警察機関にハッキングして勝手に情報を集めては「L」という探偵として難事件解決することが楽しいようである。
常に忙しなくコンピューターの前でカタカタとキーボードを打ったりしているエルだが、お茶の時間は可能な限りその手を休めてくれた。
私との他愛もないおしゃべりにもちゃんと応えてくれる。
いや、エルは同時に複数のことを考えることができるので、きっと頭の中では調査中の事件について思案しているのだろうけれど、それでも私としっかり向き合ってくれる時間を作ってくれるというのは嬉しかった。
ワイミーは大抵エルの部屋で彼の補助をしているが、このお茶の時間だけは気を利かせてくれて席を外してくれるのだ。

「それで妙に上機嫌だったから思い切ってエヴァに直接聞いてみたの。そしたらね、最近ボーイフレンドが出来たんだって!」
「そうですか」

適当な返事を口にすれば、エルは次々に手作りドーナツを口の中に収めていく。
抑揚のないその声は声変わりを終えて、低く耳心地の良い声音となっていた。
彼はいつの間にか成長期を迎えて背がぐんと伸び、私の身長をあっという間に越してしまった。
かつての小さくみずほらしい雰囲気は消え去り、顔つきも精悍なものになったエルだったが、ひたすらにおやつを頬張るその様は今も昔も全く変わっていない。

普段にもまして興味なさげな気怠い返事に私は臆すことなく、彼の随分大人びた顔を見つめ続ける。

「しかもね、告白されてOKしたその日にいきなりキスしちゃったんだってー!」

おしゃべりすることに夢中になってドーナツを食べることすら忘れ、私はキャッキャッとクラスメイトのことを話し続ける。

やはり年頃の女の子なので恋愛ごとについてお喋りすることはとても楽しい。
目の前のエルは全く興味なさげだが、それでもちゃんと私の話に相槌を打ってくれるので十分である。
こうしてエルに話しかけているだけで私は楽しいのだ。

「すごいよねえ、大人だよねえ!もうみんなそういうのを経験しちゃうお年頃なんだ。ボーイフレンド作ってキスしてみたり……。良いなー私もいつかそんなことしてみたいなー」

クラスメイトの経験したことのロマンチックさに浮きたち、なんの他意もなく、ただただ思ったことを口にしただけだった。

頭の中はドラマや映画で見た男女の甘いシーンで埋め尽くされている。
キスしたことを教えてくれたエヴァのあの恥じらうような甘酸っぱい表情に胸が高鳴り、どこか彼方をぼうっと見ながら息を吐き出してみると、Lは突然食べかけのドーナツを皿に置いた。

「香乃子」

名前を呼ばれてエルへと視線を戻した瞬間、力強く手首を掴まれ、引き寄せられ──それで────。






初めてのキスは甘ったるくてどこか油っぽい妙な味がした。




数秒触れ合った唇はあっという間に離れていく。
何をされたのか理解できないまま初めてのキスを終えた私は、エルの唇が離れた後も何も考えられずに氷のように固まるほかない。

「これで満足できましたか」

エルの声はいつもと何も変わらない何の感情も含まれていない平坦な声音だった。

「そういう経験がしたいからって適当にボーイフレンド作ったりしないでくださいよ。ボーイフレンドにかまけておやつを作る時間がなくなったりしたら私困ります。ただキスがしたいのであれば今ので満足してください」

彼の普段どおりの淡々とした台詞にようやく私は我に返り、そして触れ合ってしまった己の唇に震える指を添えた。

そうきっと。エルにとっては何の意味もない行為だった。
私がキスしてみたいなんて言ったから、それに応えただけ。
しかもその理由は私が手作りおやつをやめてしまうことを恐れてのこと。
本当にただそれだけなのだ。

しかし私とってはとてもとても大事なファーストキスだった。
日本語が喋れてどこか可笑しな友人に、私はいつの頃からか淡い恋心を抱いていた。
こうして懸命に毎日おやつを手作りして持っていくのも、彼に恋しているから。
彼が恋愛にかまけるような柄でないことは重々分かっていたので、進展は望んでいなかった。
ただ毎日彼のことを想いお菓子を作り、そして二人でお茶を楽しめればそれで満足だったのだ。

しかし───。



食べかけのドーナツを再びつまんでパクパクと食べ始めたエル。
数十秒前にキスしたなんて思えないほどの彼の変わらなさに、もしかして幻でも見たのかと己を疑う。
しかしこの唇の焼けるような感触は、決して嘘ではない。

私は締め付けられるような心地の胸元を手で押さえる。
固く目を瞑り詰まった息を大きく吐き出した後、恐る恐る彼の名を呼んだ。

「今のキス、もう一回…して」

頬は火が付きそうなほど熱く、恥ずかしさのあまり目頭が疼く。
それでも私はこの衝動を抑えることが出来ず、エルへと懇願の言葉を伝えてしまった。

好きな男性と、あんな不意打ちではなくちゃんと自覚をもってキスしてみたい。
ませた願望に苛まれる脳は熱に浮かされて、くらくらしてしまう。

珍しくエルのまんまるの目が驚いたように見開かれていた。
驚いた様子のエルなんてなかなか見れないな、なんてどこか他人事のように想いながらも、スカートの裾を鷲掴みにする私の手は小刻みに不安で震えていた。

ああ。どんな返事をされるのだろう。
こんなことを頼む私をエルはどう思うだろう。
何の意味もないキスにこんな大層な反応をされて、面倒なことになったと後悔しているのかもしれない。
こんな俗っぽい人間だと思わなかったと私に失望しているのかもしれない。
彼に嫌われたかも、しれない。

ネガティブなことばかりが頭の中を駆け巡り、我慢しきれず目を閉じて俯くと、ふっとスカートを握る手に温もりを感じた。

ハッと目を開けて見てみれば、エルの大きな手がそこには重ねられている。




「…いいですよ」



そう密やかな声音が聞こえてきて顎に指が添えられた。
顔を上げさせられた私の目の前には、やはり普段どおりの無表情のエルがいたが、その真っ黒の瞳は確実に私を捉えている。

吸い込まれそう。なんて、そうぼんやり思っているうちに、チュっと可愛らしい音を立てて再び唇が重なった。






この日を境にエルと私の関係は変わった。
いや、胸の内の好意を告白したりすることはなかったが、それでも確実に私達はお互いが異性であることを意識するようになった。

はじめは毎日のお茶の時間に私から頼んで手を握りあってみたり、触れ合うだけのキスをしてみたりするだけだった。
しかし私達は体力を持て余した、もう体だけは大人に近い思春期の少年少女である。
次第に簡単な触れ合いだけでは満足出来ないようになり、キスの最中に体がうずくようになっていた。
私達は次に舌絡ませ合う深いキスを経験してみたが、下半身のうずきは解消されるどころか尚一層大きくなってしまう。

それはエルも同じだったようで、この触れ合いをするようになって何日目か、ついに私の胸へと手を伸ばした。
はじめは優しく服の上から触れるだけ。
そして私が拒絶しないことを確認した彼は服の中へ手を忍び込ませ、ブラジャーを刷りあげて乳房を手で包んだ。
彼のスラッと長いしなやかな指先が乳房をたわませ、乳頭をかすめるたびに私の身体はぴくりと震える。
初めての快楽に溢れる声を両手で塞いでいると、エルはもどかしげに私の手を退けて唾液まみれのキスをしてくれた。

そして私達はエルの部屋で二人っきりなのを良いことに、転がり落ちるかのごとく日毎行為をエスカレートさせていく。

触ってみたり、こねくり回してみたり、舐めてみたり、互いにこすりつけあってみたり。
ただただ若い衝動のままに相手の体を愛撫し続けた。

普段は着替えもワイミーにしてもらうエルが、その秘め事の最中だけは自分で服を脱ぎ着する。
コンピューターの前で適当に睡眠を取るため全く使われないベッドに私を導いてくれる。
いつだって何を考えているか分からない飄々とした無表情の顔が、私の愛撫で色っぽく歪む。
大好きなおやつを食べることもそこそこに、私の体を求めてきてくれる。
秘め事の最中の何もかもが、私に大きな優越感を抱だかせてくれた。

やがておやつの時間だけでは満足できないようになってしまい、私のルームメイトやワイミーが寝静まった夜中にこっそりエルの部屋に忍び込んで睦み合うようになっていった。
大好きなエルと体を弄り合うのことは、心も体も私のすべてを幸せにしてくれたのだ。



そんな性の秘め事に没頭していた私達だったが、一つだけ意図して避けていたことがある。
ペニスの挿入だ。

孤児院暮らしの私達が避妊具を手に入れるのはとても難しい。
登下校は大人たちの送迎だし、用事もなくハウスから出かけることは許されていないので、私がこっそり避妊具を買うチャンスはなかった。
エルのほうはそもそも孤児院どころか部屋からすら出ないので買いに行けるわけない。
ましてやワイミーに「コンドームを準備してください」なんて、さすがに口が裂けても言えるはずがなかった。

妊娠してしまうことだけは避けなくてはならない。
互いにそう納得し、その一線だけは越えないように日々遊んでいたのだ。







──しかし、その日はエルの様子がいつもと違った。

夜中。いつもどおりの秘め事の最中、突然エルから手渡された小さな銀の包。
真ん中が円状に膨らんでいるその包をしばらく見つめた後、私はようやくそれが何かを理解した。

「どうしたの、これ」
「やむを得ず外出しなければならない用がありまして。その時ついでにワイミーの目を盗んで買ってきました」

当たり前のことのように抑揚なく飛び出したその台詞に私は困惑する。
エルが外出することなんてめったに無い。
以前何故かテニスをしていたころもあったが、最近はそれもなく探偵業に没頭していた。
何か大事な用があったのだろうか。
何の用事か聞いてみようと一瞬口を開くが、しかしすぐに辞めた。
エルは何でも簡潔にわかりやすく語る人だ。
はっきりと言わなかったのは、きっと私に知られたくない特別な用事だということ。
私は追求することをやめて再び手元のコンドームの包みを見つめた。

「いやですか?」
「ううん…エルとなら、良いよ」

そうしてエルは再び私をベッドへと押し倒した。
睡眠にはほぼ使われないエルの部屋のベッドは、今や性行為において大活躍だった。
私はスプリングが軋む音に耳を澄ましながら天井を見つめる。
ぴっと小さくエルが例の包みを開ける音が聞こえた。
いよいよ緊張が高まり心臓が早鐘を打つが、エルの姿を見るのも恥ずかしくてただひたすらに天井を見つめるしかなかった。

やがてエルが私に覆いかぶさり、腿へと手を添える。
開かされた股の中央に添えられたのは、酷く熱くて硬いもの。
私は今この瞬間でも、この熱と硬度をもったものがエルの体の一部であることを信じられなかった。

「いれますよ」

その声に頷いてみれば、途端に襲いかかる圧迫感。やがてそれは私の股を真っ二つに裂くように大きな痛みをもって侵入しようとしてくる。

「いっ…!!」
「…ッ」

痛い。ただひたすらに痛い。痛くて仕方がない。

かなり痛むとは噂には聞いていたが、予想を遥かに上回るその激痛に目に涙が滲んだ。
歯を食いしばり、止まった息を吐き出さねばと呼吸を試みるが、痛みのあまりもはやただ息を吸って吐くだけでも難しい。
そんなつもりはないのに、何故か勝手に腰がエルから逃れようと動く。
エルとひとつになりたいのに全くもって言うことを聞いてくれようとしない身体がもどかしく、私はなお一層顔を歪ませた。

「う、…んっ…はあ、」
「…」
「…、い…っ、…痛…」

うっかり口からこぼれてしまった「痛い」という単語。
私は慌てて口を手で押さえるが、エルの動きはぴたりと止まってしまった。

「…すみません、無理をさせましたね。やっぱりやめましょう」

淡々とした声でそう話し、私から体を離していくエルに私の背筋が凍る。

「ご、ごめん。痛いって言っちゃったけど私は大丈夫だよ…!みんな経験してることだもん、私だって我慢できる」

慌てて引き止める台詞を口にするがエルは再開しようとせず、ただどこか宙を見ている。
ああもしかして痛がる私に失望し面倒になってしまったのだろうか。
彼に嫌われてしまったと思って焦った私は、上体を起こしてエルの顔を覗き込もうとする。

すると突然──エルのそのか細い腕からは信じられないような力強さで体を引き寄せられた。


「焦りすぎました。香乃子が急ぐ必要はありません。今日みたいに心の準備をする間もなく突然だったのは良くない。怖かったでしょう」

いつの間にかすっぽりとエルの腕に抱きしめられながら聞く台詞は、初めて聞いたような、とてもとても優しい声音のものだった。
私を諭すような穏やかな口調。
それとは正反対に痛いほどに力が込められた、私を抱きしめる腕。
私の肩に頭を埋めまま、エルはちゅうと首すじにキスを落とした。

その心地良さに、先刻まであんなに緊張で強ばっていた体から力が抜けていくのを感じた。
私、自分でも気づいていなかったけど本当は怖かったんだ。
エルに指摘されてようやく己のことを理解する。
若い性欲に流されるまま、私を無理やり押さえつけて強引に挿入することも出来たはずだ。
でも彼はそうしなかった。
私の様子をちゃんと見ていて、そして怯えて痛がっていることに気づいて中断してくれた。

ああ、なんて優しく愛おしい人なのだろう。
こんなに素敵な人を好きになり、共に過ごせる私は、間違いなく世界一の幸せ者だ。

エルへの愛が胸の中で溢れかえり、精一杯の力で彼を抱きしめ返す。
その滑らかな背中に指を食い込ませ、彼の鎖骨に額を添え目を閉じた。

そうだ、急がなくてもいいんだ。
エルはちゃんと待ってくれる。いくらだって時間はある。
私の心と体の準備が出来てから彼とひとつになればいい。

「ありがとう、エル」

半泣きになりながらも感謝を口にすれば、エルは幼子を慰めるかのように穏やかに私の震える背を撫でてくれた。




それから少し睦み合った後。
気怠げな体でベッドに横たわりエルの体温を感じていると、どこからか眠気が襲いかかってくる。
重たい瞼を何とか開きながらもエルの口づけにこたえ、そして温かな胸に顔をうずめた。

「眠くなっちゃった…、ねえ。少しだけ寝ていい?少し寝たらちゃんと部屋に帰るから…」
「…はい」

エルに許可をもらったので、心の底から安心して目を閉じた。
大好きなエルの匂いに包まれている。
なんと形容していいかはわからないが、私はこの香りを胸いっぱいに吸い込むと、いつだって性懲りもなくときめいてしまう。

心地よい匂いに包まれいよいよ眠りへと落ちそうな瞬間。
ふとなんとなく、目をうっすらと開けてみる。

エルは黒いまんまるの瞳を、まっすぐ私に向けていた。
その薄い唇が、穏やかな弧を描いていく。

「おやすみなさい、香乃子。良い夢を」

淡々としていながらも優しさがにじむような声音。
私は微笑をかえして、そして幸福な気持ちのまま眠りへの世界へと旅立った。








目を覚ますと私は一人だった。
エルの温もりがないことに違和感を覚えて飛び起きると、そこは自分の部屋。
ルームメイトの寝息が聞こえるいつもどおりの部屋だ。
しかしおかしい。私はエルの部屋で仮眠をとっていたはずなのに。

時計を確認すれば起床時間間近だ。
そして置き時計へと手を伸ばした際に白い袖が視界へ飛び込む。
私は自分がエルの白いシャツを着せられていることにようやく気づいた。

無性に胸騒ぎがして、私は靴も履かずに性急に自室を飛び出した。
まだ子供たちが眠る静かな廊下を一目散に駆けていく。
靴もなく走っているので足の裏が痛むが、そんなことはどうだっていいほど私は焦っていた。

ようやく目的の部屋──エルの部屋にたどり着き、ノックもせずにドアノブをひねる。

容易く開いてしまったドアの向こうには、家具も人もコンピューターも、昨日まであったものが何一つ存在していなかった。







エルが皆よりも早く孤児院を出ていくだろうことは察していた。

名探偵Lとして名声も金も得ていく人間が、孤児院の一室にいつまでもいられるわけがないのだ。
ああいう仕事をしていれば必ずエルの存在を疎ましく思う組織が現れるだろうし、そうなると孤児院はあまりにもセキュリティが弱い。
他の子供たちにも危険が及ぶ。
だからエルはどこか確実に安全な場所でひっそり暮らしていくためにも、きっと早いうちにここを出てていくのだろう、と。

そしてその時が来たら私は、きっと連れて行ってもらえるのだろうと信じていた。
うぬぼれていた。

だってエルは私のことを必要としてくれている。
あの日、ケーキの絵を描いていたことをきっかけに、私はこの孤児院で唯一エルと仲良くなれた人間だ。
出会ってから何年間もほぼ毎日一緒に過ごしてきた。
毎日手作りのお菓子をもっていかないととても残念がる。
あんなに貪欲に私の体を求めてくれる。
だから大丈夫だ。
彼はきっと「私についてきてほしい」と声をかけてくれるはずだ、と。


なんて愚かな思い上がりだったのだろう。
私はエルのことが大好きで依存していたが、よくよく考えてみればエルは私自身を必要としていたわけではないのだ。

たまたま仲良くなった女の子は頼めば毎日おやつを作ってくれた。
性欲を持て余している時には、拒まず応じてくれた。

きっとエルにとって私はそれだけだったんだ。
その証拠にエルは一度だって私に「好き」だとか「愛してる」だとかの甘い言葉を言わなかった。
そういう類の台詞を口にするのが恥ずかしいタイプなのだと思っていたが、今ならわかる。
私のことなんて好きでもなんでもない、どうでもいい存在だと思っていただけということ。
エルのこれからの人生に、私は必要とされなかったのだ。



塵一つ落ちていない無機質な部屋を目の前に、私は膝から崩れ落ちた。
つい数時間前までこの部屋で睦み合っていたのは、もしかして幻だったのか。
とめどなく溢れる涙を堪えるすべもなく、己の存在の無意味さに打ち震えるしかなかった。


ああこんなことなら──。
どんなに痛くても苦しくても一生懸命我慢してエルと一つになれば良かったなあ。