the cake is a Lie | ナノ
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1. 余計なお世話

純白の雪。夕日の黄光。花壇の赤い実。
何もかもがきらきらと鮮やかに輝いていた、九歳の冬の日。
それが私の中でずっとずっと忘れられない、大切なあの少年との出会いの日だった。









イギリス、ウィンチェスターのとある孤児院。
まだたっぷりと残る雪が、温かいオレンジ色の陽の光を浴びて瞬く夕方のこと。

ゆるやかに胸を揺さぶる鐘の音が、近くの教会から響いてくる。
私はそんな優しい音と子供たちが遊び回る声を聞きながら、プレイルームの隅でクレヨンと紙に黙々と向かい合っていた。

普段なら夕方の自由時間は友達と遊んだりお喋りをするのだが、この日は何となく一人でお絵かきしたい気分の日だった。
スクールの図書室で読んだ絵本の、色とりどりのお菓子の絵。
その可愛らしさを自分でも真似してみたくて、スラスラとクレヨンと動かしていく。
あの絵本のように上手には描けなかったが、それでも色を沢山使って自分が思う最高に美味しそうなお菓子を描くというのはなかなか楽しい。
ふと、昔両親とよく食べた日本式のショートケーキを思い出し、記憶を頼りに描いていく。
最後に熟れた苺を赤いクレヨンで塗りつぶし終えたその時──突然紙に被さる影。

不自然なその様を不審に思い顔を上げてみると、見知らぬ少年が目前にいた。

「わっ」

人の気配なんてまったくしなかったというのに、いつの間にそこにいる、小さくやせ細ったみずほらしい少年。
彼は何の言葉も発さずに、ただもの静かにじぃと私の描いたものをのぞきこんでいた。

サイズが合っていないだぼだぼした服。
ろくに整えてもいない乱雑な黒髪。
クッキリと主張する隈。
死んだ魚のように輝きのない目。

どこを見てるかも何を考えているかも分からないような不気味な表情で爪を噛み、ひたすらに紙を見ている。
挨拶もなく至近距離へやってきて本当にただ見ているだけの少年の姿は、どこをどうみても明らかに不審だった。

(なにこの子…)

ふとここ数日、孤児院のあちらこちらで盛んに飛び交っていた子供たちの噂を思い返す。

──新しく入ってきた子、何だか気味が悪い変な男の子なの!しかもハウスに来て一時間もしないうちにいじめっ子たち全員を返り討ちしたんだって!──

見慣れないこの子こそ、例の少年かと思い当たる。
しかし気味が悪いのはその通りだが、あのいじめっ子たちをボコボコにしたようには全く見えない。

ちょっとパンチを食らったらぽきっと容易く折れてしまいそうなそのガリガリの体。
おそらく私よりも背が小さい。年下だろうか。

少し顔をそらしながら盗み見るように少年を観察してみるが、観察すればするほど噂通りの喧嘩の強い少年には見えない。
また別に新入りの子がいるのだろうか。この子の名前はなんていうのだろうか。
なんてあれこれ考えこんでいても、目の前の少年は凍ってしまったかのようにぴくりとも動かず、やはり私の絵を見続けていた。

早くあっちいってよ、これじゃあ気味悪くてお絵かきどころじゃない。

もしかしたら本当に噂通り乱暴者かもしれないので怖くて文句も言うことができず、冷や汗を流しながら俯いて悶々としていると、突然少年の視線が私へと向けられた。

「日本で親しまれているショートケーキですよね、これ」

日本という単語が飛び出したことに驚き、私も顔を上げる。少年のまん丸の黒い瞳は真っ直ぐに私を捉えている。

「ふわふわの黄色いスポンジ、白いクリームに赤い苺…日本のショートケーキです」

恐ろしいほどの無表情のまま軽やかに話し、イギリスではあまりお目にかかれない日本のショートケーキについて知っていた彼。
日本ではケーキの代表としてよく親しまれているショートケーキだがこのケーキが主流なのは日本だけで、イギリスにそのようなケーキはない。
まさかこんな小さな少年が、遠い日本のショートケーキを知っているなんて思いもよらず、私は途端に高揚を感じて考えるよりも先に身を乗り出していた。

「なんで知ってるの?日本のケーキのこと…」
「日本の知識がある程度ありますから」
「日本人なの?」
「いえ、多分違います。でも日本語は理解できます」

日本人じゃないのに日本のことを知ってて日本語ができる──その珍妙さに疑問符を浮かべて小首をかしげる。
少年の瞳や髪は日本人と同じく真っ黒だが、よくよく見てみれば目鼻立ちは一般的な日本の子供よりもハッキリしている。
では西洋人に見えるかと言えば顔つきに独特の癖があり難しいところなのだが。
何人かはっきりせず曖昧なことしか言われないことをじれったく思い、再び口を開いたところで──私ははたと気づき、これ以上問い詰めることをやめた。

孤児院に来る子供というのは私も含めほぼ訳ありだ。
ここの子供たちは皆、友人の過去を無駄に詮索してはならないことを子供なりに理解していた。
もしかしたら彼にも何か悲しい過去があるのかもしれない。
初対面であれこれ詮索しては失礼だ。

思いとどまって口を噤んだ私に、少年は掴みどころなく呑気に続けた。

「食べたことありますか、ショートケーキ」
「…うん、昔ね」

少年の問いに生きていたころの両親を思い出してしまい、声は自ずと小さくってしまう。

親の転勤のため家族そろってイギリスに移住したのは私が七つの時だった。
なれない英語に戸惑いながらも幸せに暮らしてたが、一年ほど前に両親を突然の事故で亡くした。
日本にこの身を引き取ってくれる親類もおらず、途方にくれていた私の前に現れたのはワイミーだった。
深くは知らないが父親と共に仕事をしたことがあるらしく、今回の訃報を聞いて私の身を案じてくれていたそうだ。
彼が創設した孤児院にこうして無事引き取られ、そこで友達も作って平和に日々を過ごしていたが、やはり度々なにかの折に両親のことを思い返してしまう。

私は今一度自分が描いたショートケーキを見つめた。
日本にいた頃。三人で笑顔でケーキを食べた幸福な日を思い出してしまい、悲しみに目をうるませていると、突然グウとどこからかお腹の音が鳴り響く。
その音の間抜けさと言ったら、私の感傷的な気分などあっというまに蹴散らしてしまうのに十分であった。
私と少年は見つめ合い、そして彼は相変わらずの無表情のままお腹に手を当てた。

「すいません、お腹が空きすぎて鳴ってしまいました」

こんな感情なんて存在しない不気味な人形みたいな風貌してて、お腹はちゃっかり空くのだなと感心してしまう。
目の前の少年の珍味さに涙なんてとうに引っ込んでしまい、私は苦笑しながら彼を見据えた。

「さっきおやつの時間だったじゃない。食べそびれちゃったの?」
「野菜スティックだったので全部残しました。おやつが甘いものではないなんて信じられません」

急にいじけたように唇を指でいじり始めたその様がなんだか可笑しくて吹き出す。

「野菜、嫌いなんだね」
「…甘いものだけ食べたいんです、私。糖分が足りなくてパズルをする気力もなくふらふらしてたら、あなたが美味しそうなお菓子を描いていたのでつい見てしまいました」
「絵なんていくら見てても食べられないのに?」
「…あまりにも糖分に飢えていたので、気分だけでもと」

頭の良さそうな喋り方で変なことを真面目に話す少年。
なにそれ、と可笑しくて可笑しくて笑い出してしまう。
そんな私を彼はしばらく見つめた後、どこか恋しげに絵に描かれたお菓子へと視線を戻した。

ひとしりき笑ってすっきりした私は、親指を口に含みながら絵を見続ける少年を今一度観察してみる。

見た目も中身もかなり変わっているが、悪い子ではなさそうだ。
なんだかんだどこか憎めないような愛嬌もあって、異国の文化や言葉を知っていることと喋り方から察するにおそらくかなり賢い子だ。
そしてお腹をすかしてひもじそうに爪を噛んでいるその姿はどこか哀愁を誘う。

魔法でも使えたら、この絵を本物のお菓子に変えて少年にプレゼントしてあげられるのにな、なんて幼稚でくだらないことを考えていると、ぴんと突然あることをひらめいてしまった。

私は閃きの高揚感に包まれたまま、首をぐるんと回して辺りを見渡した。
今孤児院は自由時間。プレイルームではたくさんの子供たちがおしゃべりしたり遊んでいたりと楽しそうだ。
しかしへんてこな少年が気になるのだろう、遊びながらもちらちらとこちらを盗み見る子たちもいるようだ。


良いことを思いついてしまった私は、はにかみながら少年へと視線を戻す。
私が何か企んでいることに気づいたのか、少年はきょとんとした顔で私を見つめ返していた。

笑顔のまま誇らしげに身を乗り出し、息を大きく吸い、そして言葉を紡ぎ出す。


「”二階の空き部屋にワードローブがあってね、下から二段目の板の裏に、秘密の飴玉を何個かテープで貼り付けて隠してあるの。あなたにあげる!”」

私の言葉を聞いて、目の前の少年が少し驚いたように顔色を変えた。
ミステリアスな少年の表情を変えることができたことが嬉しくてたまらず、私はいたずらに笑った。

「日本語…」
「そう!意味分かった?」

少年が怪訝そうな顔で頷いた。
よかったと安堵すると同時に、自分の口から生み出した日本の言葉が通じたことに興奮を覚える。
ちらりと振り返ってこちらを窺い続けている子供たちの様子を見てみれば、頭上に疑問符を浮かべてぽかんとした様子だ。
私は作戦が成功したことを確信し胸をはる。

「向こうであの子達聞き耳立ててるけど、こうやって日本語で喋ればあなた以外誰にもお菓子の隠し場所聞かれずにすむでしょう!」
「…」
「この前ボランティア活動の時もらった飴、食べきれなかったから何個か残したの。ベッドルームじゃ相部屋の子にすぐ見つかっちゃうし、あそこに隠していつか食べようと思ってたけど…いいよ、お腹が空いてるならあげる!」
「いいんですか」
「うん!私はもうすぐピアノのレッスンの時間だし、ふたりでこそこそしてると怪しいから、一人でこっそり取りに行ってね」

目の前でひもじそうにされては、無視できない。
丁度お菓子を隠していたことを思い出した私は、この少年にそれをあげることを決めたのだ。
ルームメイトに奪われるのも何だか癪なので隠してはみたが、別に何が何でも食べたいわけではない。
いつまでも隠したままでいつか腐りかけた時に仕方なく食べるくらいなら、今こんなにひもじそうにお腹をすかしている少年にあげるのが一番だろう。

(喜んでくれるかな…?)

日本語のまま彼に魂胆を説明し終わり、上機嫌に満面の笑みを浮かべながら返事を待つ。
すると少年は少し考えるように遠くを眺めた後、ようやく口を開いた。

「いつ新しい子供が入るか分からない空き部屋の中を隠し場所にするのは…良い判断とは思えません。いくら人の多いハウスの中と言っても、もっと確実でまともな隠し場所があるでしょう」
「えっ」
「というか私、飴玉二つ三つでは満足できません」

ぺらぺらと流暢な日本語であれこれ話し始めた彼に、不意をつかれて笑顔のまま固まる。
異国の言葉でぐうの音も出ない正論をスラスラ述べることができる──やはり彼は私よりもずっとずっと頭のいい子なんだな。
彼と会話をはじめてまだ数分も経ってないないが、それでも感じてしまう溢れ出るような優秀さ。
完全に圧倒されてしまって、言い返す気なんてまったく起きない。

ていうか、飴玉二つ三つで満足できないってどれだけ甘いもの好きなの…。

しかし私が苦笑いで口ごもっていると────なんの感情もこめられていないかのような無表情の少年は、途端にフッと柔らかに息を吐き出した。

「でも」

そして少年の口が、なんと穏やかな弧を描く。

「あなたの好意は嬉しいです。助かります。有り難くいただこうと思います」

口角だけニッと上げた、控えめでちょっと不気味な、そんな可愛らしい笑顔だった。

──なんだ。
随分表情に乏しそうに見えるこの少年も、こうしてちゃんと笑えるんだ。

窓から差す夕方の温かい色に照らされた少年の姿は、なぜだか雪のようにキラキラと瞬いているように見えた。
みずほらしく小さな少年の、可愛らしくもへんてこなその笑顔。
私はその瞬間、息をするのも忘れてしばらく見とれてしまったのだった。









その後、ピアノのレッスンの時間が迫っていることに気づいて、彼の名前も聞かぬまま大慌てで少年と別れた。

レッスンも終わり夕食を食べた後、食堂で見かけた彼は、ろくにご飯を食べないことを大人に叱られてポツンと席に残されていた。
好き嫌いせず食べるように注意されているのに、全く反省なんてしてない風に無愛想な顔で皿の上の野菜を除けている。
しかも相変わらずの変な座り方のままでだ。
遠くから眺めていた私は思わず笑ってしまう。
自室へ戻る途中に例の隠し場所を確認してみれば、ちゃっかりと飴玉はなくなっていた。

翌日、私は外遊びの時間に、庭のベンチで空を見上げている少年を見つけた。
スクールの図書室で借りてきた例のお菓子の本を目の前に差し出し、「一緒に読もう」と日本語で声をかけてみる。
少年は表情ひとつ変えず私を見た後、昨日の飴についてお礼の言葉を返してくれた。
拒絶されなかったことに安堵して思い切って名を尋ねてみると、彼は少しの間遠くを眺めた後、「エル」と読んでほしいことをこっそり私に耳打ちで教えてくれた。

あまりの変人っぷりに「あの変な子」などと不名誉な呼ばれ方をするばかりで皆に名前すら覚えられていなかったその少年。
そんな彼の名前を知ることが出来て、私の胸はじんわりと温かみをもって高鳴った。







彼と話すときは大抵日本語だった。
異国の言葉を話す私達を、遠くから眺める子供たちは不可解そうに見つめていたが構いやしない。
懐かしい日本語を使えることが嬉しかったし、何よりも、二人だけにしか通じない秘密の言葉をやり取りできるその事実に無性に心躍った。
私にとって日本語は、エルと秘密の会話が出来る魔法の暗号になったのだ。

二人は仲良し──いや大体は私が一方的に彼のもとに押しかけてばかりだったが、エルは私がやってくれば挨拶はしてくれたし、ちゃんと会話もしてくれた。

エルが他の子供たちとうまく関係を築けない様子に手を焼いていた大人たちは、私がエルと仲良くしていることに酷く安堵しているようだった。
「私達が言ってもロクに聞きやしないから」と時には伝言を頼まれたりして、私も幼いながらに悪い気はしなかった。

やがてワイミーがエルの才能に目をつけ彼に個室を与えた。
エルは全くと行っていいほど部屋から出なくなったし、ワイミー以外の大人が部屋に入ることすら嫌がった。

「香乃子、今日はワイミーがいないから、あなたがあの子におやつを届けてくれる?」

そう頼まれておやつを届けに行けば、やはりエルは私が入室することを拒まなかった。
仰々しい機械と無機質なファンの音とあちこちに張り巡らされた無数のコードの中、コンピューターの画面の前から動こうともしないエル。
それでもこちらへ振り向いて、私の名前を呼んでくれる。

私はそれが、とてもとても嬉しかったのだ。