24. バースデー ハロウィンの日は残念なことに雨だった。 日本の感覚で言えば真冬と言ってもいいくらい、すっかり寒くなってしまった空の下。 私は頭がさえる程に冷たい空気を胸に満たしながら、霧雨のなか赤い傘を差して孤児院の庭を歩いていた。 グラウンドでは、室内遊びに体力を持て余し退屈したのだろう元気な少年たちが、厚手のレインコートだけ着て楽しそうに走り回ってる。 イギリス人は傘を使わない、というのは本当で、この国では大人でさえも土砂降りでも無い限り滅多に傘をささないようだ。 しかし、イギリスで来てからまだ数年しか経ってない日本人である私は、傘をささずに雨の中を歩くということに未だ慣れることができない。 もこもこの温かいコートを着込み、わざわざハウスのスタッフに赤い傘を借りて、やっと雨降る庭に出ることができたわけだ。 (どこ行っちゃったんだろう…) 傘の柄を握る手は寒さにかじかんでいたが、そんなこともお構いなしに私はきょろきょろと辺りを見渡す。 こんなに寒く雨降る外にわざわざ出てきた理由──それは、エルを探すためだった。 今日はエルが孤児院にやってきて初めてのハロウィン。 孤児院では毎年ハロウィンの日、「トリックオアトリート」と唱える子どもたちへスタッフがお菓子を授けるイベントを開催している。 私は今年で三回目の参加となるがそれはそれは楽しいイベントで、朝から相部屋の友だちと簡単な仮装をして孤児院中を歩き回った。 バスケットいっぱいの飴玉やチョコレート、そして小さなカップケーキ。 今年も手当たりしだいに大人たちに声を掛け続け、甘くて美味しいものを沢山集めることができた。 そして一通り回り終えた後、私は友達と別れてひとりエルの部屋へ向かった。 甘いものが大好きなエルのことだ、普段は個室に籠もりっぱなしだがさすがに今日は部屋の外に出て、沢山お菓子を集めただろう。 私はお菓子が詰め込まれた小さなバスケットを片手に廊下を歩き、上機嫌のままエルの部屋の扉を叩いてみた。 ──しかし、ドアの向こうから何の反応も聞こえない。 いつもならエルかワイミーが「どうぞ」とちゃんと返事をしてくれるのに、どうしたのだろう。 不思議に思った私は、少し悪い気がしながらも勝手にドアを開けて部屋の中に入った。 パソコンとやらのよくわからない機械で埋め尽くされた無機質な部屋には、唸るような低く小さい機械音が鳴り響くばかりで誰もいなかった。 トイレにでも行ったのだろうかと少し待ってはみたが、いくら時間が経っても誰も戻る様子はない。 スクールに通うこともなく、ただひたすらにこの部屋に籠もってパソコンに向かい続け、食事でさえも食堂ではなくこの部屋で済ましてしまうエル。 そんな彼がこんなにも長く部屋に戻らないというのはどうもおかしい。 彼の身に何かあったのではないか──不安にかられて居ても立っても居られなくなった私はお菓子のバスケットをそのままにエルの部屋を飛び出した。 しかし、バスルーム、食堂、医務室、スタッフルーム──ハウス中のあらゆる場所を探したがエルは見つからない。 何人かのスタッフにエルを見ていないかと尋ねてみても皆首を横に降るばかりで、ワイミーが今日は用事で朝から外出しているという情報しか得られなかった。 そうしてしびれを切らした私は傘を持ち、わざわざ外までエルを探しにきたというわけだ。 早足で歩く私のレインブーツは、じっとりと濡れた土に柔らかく沈む。 何か用事があってワイミーと一緒に出かけ孤児院を不在にしている──その可能性も十分に考えられたが、私にはどうしても確認したい場所があった。 広い庭の片隅に置かれている古ぼけた木のベンチ──個室を与えられる前のエルがよくいたところだ。 孤児院にあるパズルを全て解いて退屈を持て余したエルは、自由時間に外に出て誰と遊ぶでもなく、一人あのベンチにちょこんと座っていることが多かった。 彼なりにお気に入りの場所のようでエルが室内にいない時は大抵そこにいたので、私は彼に用がある時は絵本やスクールの宿題を抱えてそのベンチを訪れていた。 だからもしかしたら、今回もそこにエルはいるのではないかと、そう思ったのだ。 こんな寒い雨の中あんなところにエルがいるわけない、そう思う気持ちもあったが、どうしても確認したくて────。 そして私は足を止めて、息を飲んだ。 やっと、見つけた、小さく華奢な白い猫背。 やはりこのお気に入りのベンチに私の探していた人──エルは居た。 「エル!どうしたのこんなところで!」 エルを見つけた喜びに浮かれたのもつかの間、私はあることに気づいてギョッとしてしまい、思わず大声で彼を呼ぶ。 ぼぅっといつものようにベンチで空を眺めていたエルは、突然遠くから声を掛けられて少し驚いたように目を丸くしてこちらを見た。 髪は雨に濡れて普段よりもはね方が控えめで、白いシャツはぺたりと肌にくっついている──エルはこの雨の中、傘どころかレインコートも身にまとわずに、いつもどおりの格好でそこにいたのだ。 「こんなに寒いのに…大丈夫?」 眺めているだけで凍えてしまいそうなそのみずほらしい姿に、私は慌てて駆け寄って傘を差し出した。 エルは「大丈夫です。いりません」と面倒くさそうに私の傘を断ろうとしたが、目の前で雨に濡れ続ける友人の姿なんて見たくなくて、強引に彼の手に傘を押し付ける。 「傘だけじゃ寒いでしょ…?コートも貸そうか?」 「そのコートを脱いだら今度は香乃子が濡れます。風邪ひきますよ」 「でもエルのほうが寒そう…」 「私は大丈夫です。慣れてますから」 傘をもたせることには何とか成功したが、依然として彼はまだ寒そうな格好のままだ。 さすがに彼もコートの一枚くらいは持っているはずだが、窮屈な格好を嫌うのかよほど酷い天気で無い限りは白シャツとジーンズで庭にいることが多かった。 エルなりに身につけるものに何かこだわりがあるのだろう。 しかしこんな寒い、しかも雨の日にそのまま外に出てしまうなんて。 濡れたシャツがうっすらを透けて肌色を見せるその様があまりにも寒そうで、私は思わずぶるっと震えた。 「あったかいハウスの中に帰ろう」 「…」 室内に戻るように促してはみたものの、エルからの返事はない。 私の声は間違いなく聞こえているはずだが、彼は私から視線をふっとそらしてねずみ色のどんよりとした空を再び眺め始めてしまった。 ハウスに戻るつもりはさらさら無いようである。 私はエルと過ごした一年足らずの月日の中で、彼がとても頑固だということを嫌というほど思い知らされていた。 一度言って駄目ということは、何度帰るように促してみても全く意味はないだろう。 早々に諦めの気持ちに至った私は、小さく苦笑いを零す。 どんな時だってマイペースで頑固な彼の性格に困り果ててしまう時もあるが、周りに流されずに自分のしたいことをただ貫き続けるその姿は私にとって好ましくもあり、憧れだった。 ベンチの上であの独特な座り方のまま赤い傘を差しているエル。 なんとも珍妙なその姿を可笑しいような微笑ましいような気持ちでしばらく眺める。 隣に座ろうかとも考えたが、いくらレインコートをまとっているとは言え、濡れたベンチに腰を下ろすのも何だか憚られて、私はエルの側に佇んだままコートのフードを自分の頭にすっぽりかぶせた。 「エルが外に出るなんて珍しいね」 「そうですね」 「どうしたの急に、こんな雨の時に…」 薄着のまま冷たい雨に打たれに行くなんて、正気とは思えないその行動の訳がやっぱり知りたい。 エルは相当な変わり者で突拍子もなく変な行動に走ることがよくある。 その度に理由を聞いてみても、よく分からない難しい言葉を並べた説明が返ってくるだけで私はエルの意図がちっとも理解できないのだが、それでも良かった。 こうして取り留めもない話をしているだけで楽しいし、何よりもエルのことをもっと知れることが嬉しくて、私はなにかある度にいつもエルへと率直に質問を投げかけていた。 彼の方へと見下ろし小首をかしげてみれば、エルは横目で一瞬だけちらりと私を見た。 そしてすぐに雨降る空へと視線を戻し、少し間をためた後ようやくその薄い唇を開く。 「少し、懐かしい気持ちになっていました」 「…なつかしい…?」 雨に打たれること。懐かしいこと。 その二つが全く結びつかず、私は頭上へとさらに疑問符を浮かべた。 「子どもたちが洒落た衣装を来てお菓子を求めに練り歩く姿を、毎年遠くから眺めていました」 何でも無いふうにいつも通りの表情のままさらりと台詞を口にしたエルだが、私はそれを聞いてハッと息を飲んだ。 ──エルが孤児院に来る前のことを、私はほとんど知らない。 彼に質問を投げかけるのが大好きな私でも、その過去を尋ねるなんて無遠慮なことははさすがにご法度だと理解していた。 そもそもエルだけでなく、孤児院に来る子どもたちというのは大抵訳ありな過去を持っているものだ。 子ども同士でも皆、無意味に友人の過去を詮索することは避けている。 やせ細った身体にぼろぼろの服をまとって孤児院にやってきたエルが、どんな過去を背負っているのか──詮索する気になんてとてもなれない。 だから私はエルの台詞を聞いて驚いた。 自身のことをあまり語ろうとしない彼が、唐突に自分で己の過去の話題に触れるだなんて夢にも思わなかった。 いつも代わり映えなく間の抜けた表情をして無感情に見えるエル。 しかし、おもちゃを横取りされて拗ねたり、ゼリーを床に落として落ち込んでいたりと、これでいて見た目以上に感情豊かな子供だ。 朝からハロウィンに浮き立つ子どもたちの様子を見て、彼なりに何か心にひっかかることがあったのかもしれない。 しとしとと空から零れる雨音の向こうで、ほんの少しだけ子供たちが騒ぐ声が聞こえる。 いつだって元気いっぱいな子供たちで溢れかえる賑やかな孤児院の片隅で、切り取られたかのように静かなこの雨降るベンチ。 当然私達の他には誰もいない、とても静かな空間だ。 私は視線をあちこちに揺らして少し迷う。 しかしせっかく彼から話してくれたんだ、もう少し踏み込んでみよう──私はそう覚悟を決めて大きく息を吸い込み、エルの方へと向き直った。 「エルは…参加しなかったの」 「ハロウィンの衣装どころかまともなコートすら持っていない見知らぬ子供が、知り合い同士で固まった集団の中に交じるわけにはいきませんから」 何となく予想はしていたが、孤児院に来る前はかなり厳しい環境の中で育ったことをはっきり察してしまうその台詞に、私は口をつぐむ。 身寄りも全くいないストリートチルドレンだったのか、あるいはまともな上着すらも買い与えてくれないような保護者の下で育てられたのか──考えられる可能性はいくつかあるが、いくら踏み込んでみようと思ってもこれ以上追求するのはさすがに憚られた。 あれだけ甘いものに目がないエルが、楽しそうに沢山のお菓子を貰う子供たちをどんな気持ちで見ていたのだろう。 そんなことを考えてしまうと、胸が締め付けられるように苦しくて──エルに楽しい気分になってほしいと、自ずとそう思って私は思わず前のめりになる。 「じゃあ、今年こそは参加してみようよ!大人たち、いーっぱいお菓子持ってたから、エルの分もきっと残ってると思う」 「私もそうしようと思って部屋から出てきたんですけどね」 エルはやはり私のほうを見ようともせず、ぼさぼさの前髪の向こうにあるそのじっとりとした目で、どこか遠くを見つめながら台詞を続けた。 「どんな顔して、どんな気分で、どんな振る舞いで参加したらいいのか、さっぱり分からなくて困りました。あの子供たちの中に自分が混ざるんだと思うと、どうも無性に落ち着かないんですよ」 「…」 「昔と違って今はお菓子を毎日食べることが出来ますし、今朝もワイミーは出かける前に沢山のチョコレートを置いていってくれました。今更無理にハロウィンのイベントに参加したところで疲れるだけ。無意味なのだと気づきました」 「それで、皆と交じるのやめて庭でひとりいじけてたの…?」 「いじけているわけではありません。『懐かしい』と言ったでしょう。昔、雨の中ハロウィンで浮かれる子供たちを見ていたな、とノスタルジーな気分に浸っていたんです。こうしているほうが私はよっぽど落ち着きます」 抑揚のないいつも通りの声音。 そんな代わり映えのない様子から、エルのハロウィンに対する本心を窺い知ることは難しかった。 てっきり、その協調性のない性格から皆にうまく交ざることが出来ず、ひとり雨にうたれて自虐的に拗ねていたのかと思っていたのに、本人曰く「懐かしくて落ち着く」だけらしい。 強がりの可能性も捨てきれないが、彼はひとりで自分のやりたいことをやりたいようにやるタイプの子供で、さらに言えばかなり変人だ。 強がりでもなんでもなく、本当にひとりで雨に打たれることで落ち着きを感じられる性分なのか、あるいは、過酷な状況でひとり生きてきたエルが心の安らぎを得るための、昔っからの癖なのかもしれない。 その口から放たれた言葉を何度も頭の中で繰り返し、彼の心情をひととおり思い描いた後──私は「そっか…」と小さく呟いた。 ハロウィンに参加するよりもひとりでぼーっとしてるほうが落ち着くのだとはっきり口にしたエルを、無理に皆のところへ連れて行くのはよそう。 そう本心がどうであれ、無理にその手をひいて皆のところに連れて行ったところで、きっとエルは楽しい気分にはなれない。 それならばこのまま、エルの好きなように居させてあげたほうがずっといいはずだ。 胸の内でそう思い至り、私は身体の脇でエルへと伸ばしかけていた手をそっと引っ込めた。 ──霧雨はまだ止まない。 さぁ、と柔らかでか細い水の雫が庭の木々に擦れる。 その音だけが辺りを包むように優しく響く中、私はエルと同様に空を見上げた。 空一面の灰色に秋特有の色褪せた緑が揺れてる様は雨音と相まって思いの外美しく、なるほどこうして静かに雨の中佇むのも悪くないなとそう思えてくる────のだが、やはり私は寒かった。 レインコートから飛び出た指先は冷たい雨に濡れてかじかんでしまい、自然と身体がふるりと震えた。 厚手レインコートに身を包む私でもこれだけ寒いのだ、霧雨とは言え傘もささず上着も着ずに濡れたままここにいたエルはもっと寒いはず。 雨に濡れて周りの様子を眺めることが「懐かしい」とエルは言ったが、しかしいくら懐かしくて落ち着くと言っても、こうして雨に打たれ続けていればさすがの彼も寒いものは寒いだろう。 (そう言えばあと二ヶ月でクリスマスだけど…) 私はふっとクリスマスが迫っていることに気づいた。 これから寒さが日増しに厳しくなっていく中で、孤児院の子供たちはクリスマスに向けて準備を始める。 皆で協力して大きなクリスマスツリーを作り、ハウスのいたるところをキラキラの装飾で飾り、クリスマスの歌を口ずさむ。 クリスマス当日にはそれはもう浮かれて皆で集まって美味しいものを食べたり、ゲームを始めたりするはずだ。 そんな中を、エルは一体どう過ごすのだろうか。 間違いなく皆に交じって浮かれ騒ぐことはない。 個室の中でひとり閉じこもってパソコンとやらに向かい合ってるだけなら良いのだが、もしかしたらまたエルなりに思うところがあって部屋を飛び出し、ひとり庭の片隅で物思いにふけ始めるかもしれない。 クリスマス頃には当然今よりも冷え込む。場合によっては雪だって降る。 今日のように軽装で外で飛び出しなんかしたら、さぞ寒い思いをすることだろう。 そう考えてみると気が早いかもしれないが、クリスマスのエルの行方が心配になって仕方がない。 大切な友人が無防備に風邪を引いたりするなんて、傍から見ているだけで辛いものだ。 クリスマスだけではない、孤児院で季節ごとに行われる様々な行事の度に、エルが皆に馴染めずひとりぼっちで過ごそうとするのかと思うと、私は無性に悲しい気分になっていってしまう。 「エルってクリスマスとか誕生日とかもその…ひとりだったの」 一年の中で主な大きなイベントをいくつか頭の中に浮かべ、顔は空を見上げたまま目線だけを彼に向けながら遠慮がちな口ぶりでそう尋ねた。 エルのことが心配だったとはいえ、こんな無遠慮で辛いことを直球に聞いて良かったのだろうか──そう今更になって後悔してしまうが、口から飛び出したものを撤回することなんて出来ない。 私はただ静かにエルの反応を待つしか無く、寒さと緊張に身をこわばらせ続けた。 「そうです。そういうことを祝って楽しむ余裕はありませんでした。」 少しだけ間をためた後、唐突にふざけるように傘を回して遊び始め、そして何でも無いように飄々とそう答えるエル。 覚悟はしていたが、やはり本人の口からはっきりとそう告げられるのを聞いてしまうと、自分が悲惨な経験をしたわけでもないのに全身が竦み上がるような切ない気持ちに襲われた。 所詮は他人事である私がこうして勝手に尋ねて勝手に辛い気持ちになるなんて、実際に身を持って苦しい経験を沢山しただろうエルからすれば失礼に違いない。 ──そうとは分かっているのだが、私はエルを憐れむ気持ちをどうにも抑え込むことが出来ず、どんなふうに会話を続けていけば良いのか迷い、遣る瀬なく俯いて口をつぐんだ。 ────するとエルがいつの間にかこちらをじっと見つめ続けていることに気がつく。 そののっぺりとした真っ黒の丸い瞳と視線が絡み合った瞬間、エルはフッと──珍しく小さな微笑みをこぼした。 「香乃子、すごく悲しそうな顔をするんですね」 「えっ、」 「全く悲しくなかったと言えば嘘になります。正直に言うと私もまだ子供なので、他所の家庭でクリスマスや誕生日を祝う幸せそうな子供の姿を見て、複雑な気持ちになった時もありました。しかしこういうことも案外慣れるものです、何度もみじめな思いをしているうちに、どうでも良くなりました。まあ私の場合はハロウィンと誕生日が同じ日なので、無意味にみじめになる日が一日少なくてすみましたが」 どうして私を見て急に微笑んだりしたのだろう、だとか。 いくらエルでも幼い子供なりにみじめでつらい思いになったりすることもあったんだな、だとか。 そういう辛いことに慣れて何も感じなくなってしまうというのはすごく寂しいことだな、だとか。 色々なことを私へと語ってくれたその台詞に抱く感想は沢山あるが、そんなものはエルの最後の言葉を聞いて彼方へと吹き飛んだ。 誕生日について語った彼が口にした「ハロウィンと誕生日が同じ」という台詞。 私は何かの間違いではないかと何度も彼の台詞を頭の中で繰り返して確認した後、恐る恐る息を大きく吸い込む。 「……ちょっと待って。エルの誕生日…もしかして、今日なの?」 「はい」 「ほんと?」 「はい」 また傘を回して手遊びしながら、あっけらかんに頷き続けるエル。 その素っ頓狂な姿と口ぶりに、私は思わず眉根を寄せて驚きのまま彼へと詰め寄った。 「今日が誕生日なんて初めて聞いたよ…!もっと早く言ってくれたら、何かプレゼントとか用意したのに…」 まさか今日がエルの誕生日だったなんて。 こんな唐突なこと夢にも思わず、私は大きな驚きを感じる一方で、少し残念な気持ちに苛まれていた。 この孤児院の中で一番エルと仲良しなのは私──そんな自信があったというのに、結局は誕生日すら把握していない程彼のことを何も知らなかったわけだ。 思いの外大きかったエルとの心の距離をこうも思い知らされると、何だか落ち込んでしまう。 レインコートの裾を頼りなく掴み、しゅんと肩を落としてしまえば──エルはそんな私のことを不思議そうに見つめてぱちくりと大きな瞬きをした。 「香乃子がそんなに落ち込んでしまうなんて予想外です」 「…だって大事な友達の誕生日だもん、ちゃんと祝いたくて…」 眉尻を下げてそう口にすれば、エルがふっと一瞬だけ私から視線をそらした。 少し雨に濡れた前髪が、覆い尽くすかのように彼の黒い瞳をひた隠しにする。 そんな様を口をつぐんで見つめていると──エルは再び視線を上げ、射抜くように私を見つめた。 「誕生日とは元々、悪霊から子供を守るために神に祈りを捧げた行事です。私には毎年誕生日に祈りを捧げてくれるような親はいませんでしたが、それでも幸運なことに何度もこの日を生きて乗り越えることができました」 「……エル…」 「そして今年は空腹に苦しむこともなく、着るものも住むところも十分に備わった状態でこの日を迎えられた。私はそれだけで十分なんですよ。こうして昔のように懐かしく雨に打たれてみて、今自分がどれだけ恵まれた環境に身を置いているのか──それを改めて確認することができた、有意義な誕生日でした」 ──まだ幼いながらにも孤児院中のパズルを全て解き明かし、毎日起きている時間のほぼ全てをコンピューターの前で費やして、何やら難しいお金の取引をしているエル。 ワイミーに特別な子として贔屓されるほど才能に溢れ、将来大成することは間違いないだろうと大きな期待を背負っている。 そんな彼に「この子はとてつもない天才なんだ」と私は日々漠然とした感想を抱いていた。 私のような普通の人間では天地がひっくり返ったって到底手の届かない、素晴らしい知力を持つ子供だ、と。 だがしかし。 私は今この瞬間、淡々と語る小さく痩せた少年のその陰りのない眼差しにようやく気づいたのである──エルの優れたところは知力ばかりではない。 彼はその心の強さすらも、普通の人間とは比べ物にならないほど圧倒的なのだ──。 詳細なことは語らなかったが、それでもこれまでの彼の台詞の端々から、エルが孤児院に来るまでどれだけ悲惨な環境で生きてきたかが窺い知れる。 まだ十にも満たない小さな子どもだった彼は、親も失った状況で時には空腹に苦しみ、時には冬の雨に凍え、それでも懸命に生きてきたのだろう。 普通の人間ならば世間を呪い、性根がねじまがっても可笑しくない過酷な環境。 それでも、「何故自分がこんな目に」と周りを恨むことも卑屈になることもなく、ただ淡々と状況を受け入れて生きることができたエル。 その強さこそが、エルの聡さなのだ。 あのワイミーも目も見張るほどの稀代の天才少年は、その強い精神力があってこそ成り立つもの。 冷たい霧雨に濡れながらも何食わぬ顔で指を咥え、傘をゆらゆらと揺らすその小さな身体に、私では一生かかっても確実に敵うことのない圧倒的な逞しい面影が見えて──。 私はしばらくの間、言葉を失ったまま呆然と立ち尽くした。 図らずもエルという少年の過去を垣間見て、不気味なほどに底知れない強さを知ってしまったその事実に、妙な緊張感すら覚えていた。 私のような普通の人間から見れば到底想像もつかないその本質に触れてしまえば、目の前にいるこの少年が、別世界の神々しいある種の化け物にすら思えてくる。 緊張で早鐘を打つ心臓の感覚に、いつの間にか自分の身がすくんでいることに気がついたその時、ずっと私を見つめ続けていたエルが唐突に鼻を鳴らして小さく笑った。 「傘、返します」 いきなりぴょんとベンチから飛び降りたかと思えば、強引に傘を押し付けられる。 突然のエルの行動に戸惑って柄をうまく握ることができず、大きく揺れた傘からぽたりと大きな水滴が彼の肩に落ちた。 「エル、どこか行くの?」 「そろそろ部屋に戻ります。香乃子も風邪を引く前に中に戻ってください」 そう口にしながら私に背を向け、こちらに微塵も構うことなくスタスタと歩いていくエル。 その振る舞いに彼はひとりで部屋に戻るつもりなのだと気づいて、私は困惑しながら傘の柄を握りしめる。 エルは多分、私の顔に恐れが滲んでいたことに気づいたのだと思う。 ハウスの子供たちが得体のしれない変わり者の天才を不気味がって遠巻きに眺めているのと同じように、私はエルに例え一瞬でも恐ろしさを感じてしまった。 エルは聡い子だ、自分をそういう風に見つめる眼差しにすぐに気づいてしまうはず。 目の前に自分を不気味がる子供がいればその子から距離を取ろうとするのは、至極当然のことだろう。 濡れる芝生の上を歩く、ぴちゃぴちゃと水っぽい音が妙に耳に響いている。 止まることなく歩みを進めていくエルの、その白い背中が少しずつ霧雨の中に小さくなっていく様を見つめ────私は居ても経っても居られなくて、赤い傘を力強く自分の身体に引き寄せた。 「エル…っ!」 遠くから聞こえる子供たちの声と雨音くらいしか存在しない静かで湿っぽい空気の中、そんな状況に全く馴染まない大きな声を腹から絞り出して、彼を呼び止める。 私に構うことなく歩いていたエルもさすがに足を止め、のっそりと気だるげにこちらへと振り向いた。 「あのね、もらったお菓子が入っているバスケット、エルの部屋に置いたままでね、」 「…」 「だから一緒に食べよう。私、エルと一緒に食べたくて、お菓子持ってきたんだ」 そうして少し遠くにいる彼へと急いで駆け寄り、手に持っていた赤い傘をエルの頭上に傾ける。 傘が届くくらいにすぐ側にいるエルの、少しだけ驚いたようなまん丸の瞳を見つめ────私はやっぱり彼と一緒に居たいのだと、その瞬間心底思った。 唯一無二の圧倒的な知力と、異常なほど成熟した精神力。 そのやせ細った身体に宿るなんともアンバランスなエルの本質に触れて、不気味だと感じてしまったことは否定できないし、弁解も出来ない。 この孤児院の中で一番エルと仲良くできるという自負があっても、私は結局他の子供たちと同じように、エルを異質な存在だと一線をひいて見ることしかできないのかもしれない。 ──それでもやっぱり、エルと一緒にいることが好きなのだ。 懐かしい日本語であれこれ話すことも、宿題を教えてもらおうとしてエルの難しい説明にちんぷんかんぷん頭を悩ませることも、おやつを届けて一緒に食べるのんびりとした時間も。 かなりの変人で、その一つ一つの振る舞いが素っ頓狂で面白いエル。 そんな彼と一緒にいて、その姿を眺めているだけでも私は楽しくて幸せな気分になれる。 例え底知れない不気味さを時に感じてしまうにしても、私はこの友達と時間が許す限り一緒にいたい。 勝手に彼に恐れを抱いておいて、やっぱり一緒にいたいと願う──そんなワガママで身勝手な私の振る舞いにエルがどう反応するのかが怖くて、私は不安げに肩をすくめるしかなかった。 それでも、エルを大切な友人だと思うこの気持ちだけはどうしても伝わってほしい。 そんな思いのまま不安ながらにも控えめに微笑んでみれば──エルは何かを考えるように上へと視線を向けて、そして数秒した後、再び私を捉えた。 「わかりました。では一緒に部屋に戻りましょう」 相変わらず何を考えているかさっぱり分からない、掴みどころのない無表情。 それでもこちらを拒絶せずに確かに頷いてくれたことが、私はただただ嬉しくて──。 雨に濡れて冷たくなっていたはずの私の頬がじんわりと熱を帯びる。 ぎょろっとした光のない黒い瞳で周りを観察し続けるその様。 変わり者で、いつも変なことばかりしていて、とても頭が良くて、それでいて年齢とは釣り合わない成熟した心の持ち主。 不気味なほどにアンバランスな少年だが、私の大切なお友達だ。 私は心まで温まるような確かに喜びに、彼へと小さくはにかんで頷いてみせた。 そしてエルのひんやりと冷たい手に再び傘を握らせ、レインブーツで小気味よく歩みを進めていく。 隣を歩くエルの気配を直ぐ側に感じながら、レインコートのフードの向こうに見えるハウスの屋根を眺めてそっと口を開いた。 「キッチンのスタッフさんからホットミルクもらって、ワイミーがくれたチョコレート溶かしてチョコミルク作ろう。身体がぽかぽかになるよ」 「良いですね。美味しそうです」 「あ!ミルク貰うついでにろうそく余ってないか聞いてみようか。バスケットの中にもらってきたパンプキンカップケーキがあるから、ろうそく差したら誕生日ケーキの代わりにならないかな?そうしたらエルの誕生日パーティーできるね」 「…パーティーは別にしなくて構いませんが……ケーキにさした蝋燭を灯して悪霊を祓えるよう祈りを捧げるのが誕生日ケーキのルーツです。何をもってケーキとするかは時代や国によって様々ですし、カップケーキに蝋燭でも良いんじゃないですか」 「そうなんだあ。日本だとね、誕生日にはイチゴがいっぱいのったケーキにろうそくと、あとチョコで出来たお名前プレートとか乗っけるんだ。お名前プレート、何だか特別な感じがしてすごく美味しいんだよ」 両親が生きていたころに食べた日本式の誕生日ケーキを思い浮かべてそう言えば、エルは「私もいつか食べてみたいです」と物欲しげに人差し指を咥えた。 そのどこか可愛らしい様に私は自然と顔を綻ばせて、エルとふたり雨の中を歩み続ける。 過酷な環境の中でも、エルがこの年まで死ぬことなく生きのびてくれたこと。 そしてこの孤児院にやってきて、私と友達になってくれたこと。 幾重にも重なった偶然と幸運への感謝を、沢山のお菓子とハロウィン風誕生日ケーキに祈ろうと計画を立てて──。 「──香澄さん、香澄さん」 どこか遠くから聞こえる、耳心地の良い低い声に私はゆっくり瞼を持ち上げる。 ぼんやりとした視界の中薄っすらと見えるその人影は、今まで私が見ていたはずの少年とは違う、華奢ながらも背の大きな青年。 しかしその乱雑で長い前髪も、整った鼻筋も、そして陰が濃い真っ暗闇のような黒い瞳も、あのよく知る大切な友達の少年とまったく一緒で──。 今まで眠りの中昔の日の夢を見ていたのだと、私はまだ霞がかってうまく働かない頭でようやく気づいた。 「おはようございます、起こしてしまってすみません。そろそろ自分の部屋に戻ろうと思うので声をかけました」 寝惚けながらも段々と明瞭になっていく意識の中、私の顔を覗き込むように見下ろしている竜崎を目で追いながら、眠りに着く前のことを思い出す。 彼に「愛している」と告げられた後、私が泣いてしまったことで会話は途切れた。 性欲を発散し、ミサの件についても話し終え、竜崎は短時間で用事を済ませてしまったわけだが、月くんたちに「これから二人っきりの時間を楽しみたい」と堂々と宣言してしまった手前、早々と自分の部屋に戻るわけにはいかない。 廊下中に監視カメラがある以上こっそりと彼の部屋に戻るのも難しく、竜崎は私の部屋に朝まで居続けることになった。 「せっかくの何もない貴重な時間なので睡眠をとります」と飄々と言った竜崎はさっさとベッドに潜り込み寝てしまい、ひとり残された私も何もすることが出来ず彼の隣に横になるしかなかった。 失恋の苦しみが全身を蝕み続けていたが、竜崎が同じベッドのすぐ隣で寝ている以上泣きわめくことも出来ない。 ただただ早く時間が過ぎることを祈りながら切ない苦悶に耐えて目を瞑っている内に、いつの間にか眠って夢を見ていたようだ。 なんて懐かしい夢だったのだろう。 まだ恋心を自覚する前の、十数年も昔の日の夢──。 その刹那、私はハッとあることに気づいて慌てて時計を見た。 五時を過ぎたところにある針を見つめ、もうとっくに日付が変わったことを確認してから次にカレンダーへと視線を移す。 10月31日。 世間一般で言うハロウィンであり、そして竜崎──エルの、あの日教えてもらった誕生日だ。 「まだ早いですから、香澄さんはゆっくり寝ててください」 ベッドの軋む音を響かせ、竜崎が立ち上がる。 私は竜崎を追うようにゆっくりと上半身を起こし、今日が誕生日である彼に何か声をかけてみようと腹に力を込めるのだが──喉が詰まったように声がでない。 何を言えば良いのか、どんな風に声をかければ良いのか、全く頭に浮かびやしないのだ。 ミサがいつノートを手に入れて彼の名前を書き込んでも可笑しくないこの状況。 そんな死の可能性が拭えない白く丸まった背中に、「おめでとう」と声をかけることが許されるのか、適切なのか、私には分からなくて──。 身体を起こしたまま何も言わない私の様子に気づいたのか、ベッド脇でジーンズの裾を直していた竜崎がこちらへと振り返る。 口を半開きにしたまま言葉に詰まる私の姿を、ただ静かにじいっと見つめる竜崎。 そんな彼を目の前に、やはり何の言葉も頭に浮かばず中途半端に沈黙し続ける私は、狼狽えながらもその視線と見つめ合う。 すると、キシッ──。 唐突にスプリングの音を立ててベッドが竜崎の方へ少し沈んだかと思えば、目の前に迫る愛しい幼なじみの顔。 そしてその薄い唇が私のそれへと触れ、あっという間に離れていってしまった。 「おやすみなさい。また後で」 無表情のまま声だけ嫌に優しくそう言った竜崎は、私への軽い口付けを終えた後ベッドに乗せていた片足を下ろし、足早に部屋を去っていった。 玄関のドアがしまる重厚な音が廊下の向こうから響いたっきり、この部屋を包み込む息苦しい静寂。 私はそんな空気の中、未だ竜崎の甘い香りの残るベッドの上でひとり、震える指で唇にふれて自分を抱え込むように背を丸めた。 ひたすらに辛い失恋の苦悶。 甘く優しい竜崎の嘘に感じる虚無。 そして今──愛しく温い唇の向こうでちらついて見えた、朧気な死の影。 複雑にもつれ合う数多の悲痛な感情に背中を押され、私はこの瞬間やっと一人っきりで嗚咽をこぼし震え泣くことが出来たのだ。 (mainにもどる) |