the cake is a Lie | ナノ
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23. 嘘

二人の乱れきった呼吸が静かな部屋にこだましているのを、しばらくぼんやり聞いていた。

快楽の波が引いた体に残る、淫猥で生々しい倦怠感。
まだちかちかする瞳でどこか遠く感じる天井を眺めながら、私は冴えていく脳の中罪悪感が膨らんでいくのを感じた。
膣外射精ではあったものの、避妊具もつけず竜崎のペニスを挿入してしまったその事実。
避妊せずに行為に及ぶなんて、と竜崎を責める言葉が脳裏によぎるが、しかし甘い快楽の中、竜崎のことを考えてばかりでまともな判断もできず彼を受け入れてしまった私にも当然責任はある。
腹の上でまだ熱を失っていない精液の感触になお一層罪悪感を煽られながらも、私は何も言えず遣る瀬無さに目を閉じた。

やがて膣のじんじんとした痺れが治まってきた頃、竜崎は私の上にかぶせていた上半身をのっそりと起こした。
薄目を開けて彼の様子を見てみれば、ベッド脇のティッシュに手を伸ばしている。
腹の上のものを拭いてくれるのだろう。
彼に素肌を綺麗にしてもらうのだと思うとどうも落ち着かないが、しかしそれ以上に自分の手で竜崎の精液を拭うのは恥ずかしい。
どんな顔で拭かれていれば良いのかさっぱり分からず、私はまだ絶頂の余韻にまどろんでいるふりをしようと、彼から顔をそらしてくったりと脱力してみせた。

「すいません、無理をさせてしまいました」

視界の外から突然聞こえたそれは、つい先刻までの熱の篭った物言いとは違う、普段どおりの抑揚のない声音だ。
絶頂に達する寸前にうっかり溢れてしまった告白の返事でもない、だだただ淡々とした謝罪の台詞。
腹を拭われる中そう言葉をかけられてしまえば、沈黙を守るつもりだった私もいよいよ無視するわけにいかなくなってしまう。

「少しびっくりしましたけど…合意の上のことですし、大丈夫です」
「……先にシャワーをどうぞ。私は後で良いので」
「…」

あらかた精液を綺麗に拭ってもらったが、まだ肌の上に妙な違和感は残っている。
腹以外にも、激しい運動で全身に汗をたくさんかいたし、股間のあたりは互いの体液でぐちゃぐちゃだ。
セックスの後の余韻にゆっくりとまどろむ中、竜崎の私に対する本心を一秒でも早く聞いてみたい気持ちはあるが、早く身体を洗ってさっぱりしたい気もする。
先にシャワーを使うことを譲ってもらえたことだし、竜崎もまだこの部屋に残るつもりのようなのだから、ひとまず焦る必要はなさそうだ。
さっさとシャワーを浴びてしまおう。
そう思い、早速バスルームへ赴くためベッドに腕をついたところで────思うように力が入らないことに気づいて絶句した。
激しいセックスのせいだろう、腰のあたりの筋肉が思うように動かず、いつもどおりにすんなりと上半身を起こすことができなかった。
予想以上にダメージを受けていた貧弱な自分の身体を恥じ、私は顔を真っ赤に染める。
さっさと起き上がることも出来ない情けない姿を竜崎に見られたくなんかない。
そう思った私は、いち早く腕の力だけでなんとか起き上がろうと、たどたどしくその手に力を込める。

すると。

「私が連れていきます」

突然竜崎の手が私の肩に回ったかと思えば、そのままグイッと引っ張られるように身体を起こされ、先刻のようにその腕に抱えられてしまった。
今日二回目の独特な浮遊感に口をつぐんで驚いていると、竜崎はスタスタとバスルームへと歩き始めてしまう。
先程抱えられた時は熱に頭を浮かされ、ただただ竜崎の力強さにうっとりとするばかりだったが、正常な判断ができるようになった今では、いい大人が抱っこされるなんて行為恥ずかしさが募るばかりである。
横抱きにされているせいで段々と腰元まで下がってくるスカート。
その中が晒されてしまうのが今更になって妙に恥ずかしく感じてしまい、私は沈黙を守ったままバスルームの道中必死でスカートの裾を押さえるしかなかった。

やがて脱衣所に到着し、身体を降ろされた私はひとりでシャワーを浴びた。
竜崎を長く待たせるのも申し訳なく、身体だけささっと洗い終えてバスルームを出たところで、何を着るか迷う。
着替えを持ってくるのを忘れたが、汗やら何やらで汚れた服を再び身にまとうのは気が引けるし、何よりショーツはベッド脇に無残に投げ捨てられたままだ。
仕方がなくバスタオルを巻きつけて、下半身に違和感残る身体のまま壁伝いでなんとか寝室に戻って竜崎にシャワーを譲ったのだった。

「いつもヒューマンウォッシャーで身体を洗っているのでシャワーの浴び方がわかりません」なんてバスルームから呼ばれたらどうしようと心配したのも杞憂に終わり、私が部屋着に着替え終えて間もなく竜崎はすぐに戻ってきた。
さすがにこの部屋に男性物の着替えはないので、先刻まで着ていた服でいつもの装いにもどった竜崎。
ボディソープの穏やかな香りの向こうで感じる、どこか生々しく色気を感じる汗の匂い。
まだ先程の情事の痕跡があちこちに残る部屋に気まずい沈黙が漂い、私はその気まずさに何か声をかけねばと慌てて口を開く。

「…おかえりなさい」
「はい」
「………」
「香澄さん、まだ声が少し枯れていますね」

ベッドに腰掛けなんとなく俯きながら声を掛けてみれば、返事として言われたのはそんな指摘だった。
恥じらいも忘れて嬌声を上げ続けていたセックスの最中が自然と脳裏をよぎり、思わず熱い顔を上げてみれば──その拍子、いつの間にか近くまでやってきて猫背に突っ立っている竜崎の、その黒い瞳とばっちりと目があってしまった。

先刻までの熱に浮かされた雄の欲情のかけらも見えない、普段どおりの無表情。
ぎらついた炎の消えた、感情の込められていないのっぺりと真っ暗な瞳。

見上げた先、手を伸ばせば届きそうなほど近くにある竜崎の顔つきの、セックスの最中との変わりよう。
私は一瞬のうちにそれに気づいてしまい、先刻までの恥じらう気持ちも忘れて狼狽に息を飲む。

竜崎は本来非常に理性的で、頭の切り替えが早いタイプの人間だ。
しかしつい先程までのあの情熱的な様を思い出せば、今目の前にあるその姿はまるで別人にでもなってしまったかのようで──。

先刻まで二人溺れていたあの甘味でとろけてしまいそうな情事は、もしや夢うつつだったのだろうか。
そう本気で思えしまって私が漠然と不安を感じている中、竜崎はうろたえるこちらの心中などお構いなしにふいと素っ気なく顔をそらしてしまった。
黒い前髪を揺らして私に背を向け、そして寝室から出ていってしまった彼の白い猫背。
その光景を何も出来ず見つめながら、私は何とも言い表し難い一抹の焦りを感じる。

男の人というのは一度射精した後、己とメスを外敵から守ろうとする本能ですぐに気持ちが切り替わると言う。
竜崎だって人間だ、きっとそういう事情があってそっけない態度になってしまったのだろう。きっとそうだ。そうに違いない、それだけなのだ。

胸元に未だ残っているだろうキスマークの部分を呆然と指でなぞりながら、必死に己にそう言い聞かせる。
しかしどうしても感じてしまう、何とも言葉に表し難い漠然とした恐怖。
身の竦むような不快な感覚に襲われた私が、ベッド端で丸まっていたカバーを適当にかき集めて膝の上に抱えた頃、竜崎は片手に水の入ったコップを、そしてもう片方の手に溢れんばかりの飴を握りしめて戻ってきた。
体型維持のため甘味を制限していたミサがどうしても糖分をとりたい時に舐めていた、フルーツ味のカラフルな飴たち。
甘いものに飢えた竜崎はキッチンでこれらを見つけ、自分で食べるつもりで持ってきたのだろう。
淡い色のベッドシーツの上、竜崎によって乱雑に置かれた飴が鮮やかなに散らばっていくのを視界の端に捉えながら、感謝の言葉を添えてゆっくりとコップを受け取った。
ひんやりと冷たい水が喉を通る優しい感覚に少しホッとしながらも、私の横にぴょんと飛び乗る竜崎の方を見る勇気は湧かず、俯き続けるしかなかった。

竜崎がかしゃかしゃと飴の包を開けようとする音が、重たい沈黙の中で嫌に耳につく。
再び二人の間に流れる静寂の、なんと気まずいことか──。
やはり私は耐えきることができず、まだ半分水の残ったコップを持ったまま恐る恐る息を吸った。

「竜崎も、あんな風に我を忘れたりすることがあるんですね」

竜崎は普段どおりに目をまんまるにしながらちらりと私をみて、そして宙へと視線を戻した。

「…私も男ですから」
「でも、昔こういうことをしていた時だって竜崎はいつも理性的でした。こんなに、その…男性的な姿見るの、初めてです」

あんなに激しく情熱的に私を求めてくれたその理由を知りたくて声をかけてみたものの、いきなり核心に迫るのもなんだか憚られる。
今の私には遠回りで曖昧なことを言うだけで精一杯だった。
緊張にばくばくと心臓が鳴っているのを感じる中、そろりと隣を盗み見てみれば、竜崎は飛び乗ったベッドの上で膝を抱え、何食わぬ顔で飴を口に放り込んでいる。
一度ちらり私のことを見た後は一切こちらに視線を向けず、飴の包も適当にシーツの上に置いてどこか宙をずっと眺めている様子。
その整った鼻筋を眺め、竜崎がこの瞬間何を考えているのか不安を感じてしまうが、今更こんな状況で引き下がることなんて出来ない。
私は引きつった笑顔を何とか浮かべ、そしてコップを握る手に少し力を込める。

「私、嬉しかったです。竜崎の、その…普段見れない姿を見れて…」

そうして恥じらい気味に肩をすくめてみせる。
竜崎はこちらを見ることなくただまっすぐ前を見つめ、少し間をおいた後ゆっくりと口を開いた。

「見苦しい姿を見せてしまいました」
「み、見苦しいなんてそんな、」
「おそらく、いつか話した『自分の命に危険が迫れば迫るほど、性欲が昂ぶる』というやつかと。酷い焦燥感に飲まれていたとは言え、香澄さんの身体に負担をかけてしまったことは申し訳ないと思っています」

竜崎のその台詞を鼓膜に受け取った瞬間、私の呼吸は止まる。
みぞおちのあたりを握りつぶされるかのようなもの恐ろしい感覚に愕然とし、その言葉の意味を胸の内で反芻して背筋を凍らせた。

──命の危険。
彼の口から放たれてしまったあまりにも惨たらしい言葉が、ぐるぐると頭の中で回り続ける。
なぜ、どうして。
これまでは不安にかられながらも何とか澄まし顔を保っていられたが、こんな台詞を唐突に聞かされてしまえば、眉間に深くシワを刻んで瞠目のまま身を竦ませるほかない。
ずきんと下半身が痛むのを感じたものの、そんなこともはや気にしてなどいられないほど、私の頭の中は竜崎のことでいっぱいだった。

「命が危険ってどういうことですか…。竜崎はさっき、『一刻を争う状況ではない』って、」
「そうです。今の状況では、弥が次にどんな行動を取るのか、待つしか無い。今の私たちが一刻を争って何かできる状況ではないということです」
「……竜崎。ミサの件、どこまで察しがついてるんですか」

ミサについてある程度予想がついてると竜崎は先刻言ったはずだが、それでも尚、彼の脳を持ってしても何の打つ手もないのだろうか。
コップを握る手はじっとりと汗ばみ、嫌に力が込められたまま。
だが、随分と悲惨な台詞を耳にして思わず全身をこわばらせてしまう私とは対照的に、竜崎の表情は相変わらず変化することがない。
セックスの最中は切羽詰まった顔をしてみたりとあれほど人間味あふれていたというのに、今は何故危機的状況を理解しながらこんな淡々としていられるのか──竜崎の心境が微塵も理解出来ない。
不気味なほどに無感情をしめすその様にさえ恐怖を覚えてしまい、私は尚更身が竦む思いだった。

「ボイスレコーダーの内容を全部聞いた時から、弥が部屋に帰ってきたタイミングの良さにずっとひっかかりを感じていました。香澄さんに助けが必要な状況だと分かっているような良いタイミングでしたが、しかし二人の間で何らかの合図を送りあったにしては帰ってくるのが遅すぎます。まあ、第六感で偶然戻ってきた可能性も否定はできないので追求するのは後回しにしていましたが、ずっと気に留めてはいたんです」
「…それで、竜崎は火口逮捕時に死神の存在を認識して、ミサのタイミングの良さの裏に死神が関わっていると察したんですか」
「はい。逮捕時と同じように火口の側には死神がいた。そして死神は第二のキラであった弥に接触した。死神が何の意図で弥と接触したのか、何故隣の部屋の様子を伝える必要があったのかは謎ですが、死神の存在がこの世にあると認めた以上、あの状況はこう推測するのが一番自然かと」
「行為の最中に火口が『なんだ』と呟いた時、見上げるように何もないところを見つめていました。松田さんと相沢さんが死神を見上げる姿と一緒で…。あの時、火口の側に死神が存在していたことは、間違いないかと」
「なるほど。香澄さんがその様子を見たのであれば、より確信をもてます」

セックスの残り香を孕むどこか湿っぽい空気の中で話すにしては、あまりにも深刻で陰鬱とした話題。
しかし今の切迫した状況を考えれば、ムードだの場違いだのそんなことはどうでも良い。
飴玉を味わいながら自分の予想を語る竜崎に必死に応え、何か少しでも役に立てる情報を自分の脳内から引き出せないかと思案する。

「ミサはあの日拒絶することなく死神と対話し、話を信じた。つまりミサと死神には確実な信頼関係があるということで合ってますよね」
「はい」
「…これでミサが第二のキラであると断定できるのでは」
「この推測の上でならそうと言えますが、証拠はありません。現状、物として証拠が確かに存在する十三日ルールを覆すほどにはなり得ませんね。何らかの因縁をつけて強引に弥を拘束でもすれば、すぐに夜神月に情報がいきます。そうなれば、確実な証拠をもって真キラと第二のキラを逮捕することはほぼ不可能です」
「そんな…」
「もちろん、何も手を打っていないわけではありません。ウエディやワタリたちに弥海砂を監視するよう言ってあります。自宅にもカメラを設置済みです。私の予想では、ノートはもう一冊存在する。自由になった今、弥は必ずそのノートを手に入れようとするはずです」

できる限りの対処は既にしている──その事実は今の私にとって僅かな救いではあったが、しかし相手は人智を超えた謎のノートで人を殺め続けた人間なのだ。
ミサが本当に第二のキラなら、名前も必要なく顔を見ただけで人を殺せるはず。
つまりミサがノートを手にいれるということは、私達は限りなく敗北に近づいてしまうということになるだろう。
竜崎はミサを大学で拘束する前に、自分の素顔を晒している。
ミサが「顔を見るだけで名前のわかる目」とやらであの時竜崎の名前を知ることに成功していたら──。
唐突に鮮明な輪郭を帯びて脳裏によぎる竜崎の死の可能性に、私は顔を歪ませて息を飲んだ。

「彼女がノートを手に入れた後犯罪者をさばいて、それでやっとミサを逮捕できるということでしょうか」
「その段階で弥を逮捕しても捕まえられるのは第二のキラだけです。キラと第二のキラ両方を捕まえなくてはこの事件は終わりません。キラに…夜神月に確実な証拠を突きつけられるようになるまで、弥のことは泳がせます」
「そんな、それじゃあ竜崎が危険すぎます…!ミサがノートを手に入れたら、真っ先にあなたを殺すことを考えるはずです。泳がせているうちに、まだなにか私達が知らない能力を使ったとしたら、竜崎は…っ」
「わかっています。しかし現状は待つのが最適解だと、理解してください。香澄さんが火口に強姦されかけた事実に配慮するいうことで、あのボイスレコーダーに記録されたものは私以外誰にも聞かせていません。つまり、弥と死神が接触したことを、幸いにもまだ夜神月に知られていないということです。夜神月と弥海砂がじっくりと今後の計画を立てられる機会はまだ遠い。弥海砂の動向に注目する時間はあります」

私が火口に手篭めにされたことが上手く働いたのは予想外だったが、しかしこんなもの根本的な解決にはなり得ない。
隣に座る竜崎は、呑気にも口中でからころと飴を転がしその甘さを堪能していた。
どんなに真面目な話をしている最中でも切迫した状況でも、常に甘いものを食べるのが彼のあるべき姿だとは分かっている。
しかし、自分の命が一瞬の内に奪われかねないことを説明しながら呑気に飴玉で頬を膨らませているその姿を見ていると、得も言われぬ腹立たしさが腹の底から湧いた。
こんな酷い現実を淡々と聞かさている私は、もはや正気ではいられなくなりそうだというのに。
怒り、焦燥、無力感──様々な感情がもつれ合った胸がきつく締め付けられる。
頭の先から爪先まで、この身体の全てを蝕む苦痛に、私は思わず歯を食いしばった。

「ただ静かに待って、それでミサの行動を見てから対処法を考えるということなんですか」
「私もさすがにただ犬死するのは嫌なので、色々なパターンを想定して脳内でシミュレーションしてはいますが…こればっかりは弥次第ですね」
「色々って、例えば…?」

可能な限り感情的にならないよう耐えていたつもりだったが、曖昧なことを言う竜崎にもはや居ても立っても居られず、やや大きな声でそう詰め寄る。
すると竜崎は少しの沈黙の後、子供のように人差し指で唇を何度も弾きながら、当たり前のように平然と答えた。

「そうですね…先に自分でノートに名前を書いて二十三日間はノートの力で死なない状況を作った後、弥が私の名前をノートに書く機会をつくり、死を偽装して、月くんの油断を誘う。そういう手段も検討しています」

とぼけた顔で放ったとは思えないような──あまりにも無慈悲な台詞。
何でこの人はこんな惨たらしいことを、表情も声音も変えず当たり前のように易易と言えてしまうのだろう──。

散々痛めつけられていたはずの心臓は、さらなる苦悶に竦みあがった。
自分の命さえも駒として捜査に挑むその姿勢はこの一年間で十分に理解していたはずなのに、竜崎がもはやこれまで自己犠牲的なことを考えていたとは思わなかった。
自分であの殺人ノートに己の名前を書こうだなんて、どう考えたって正気ではない。
つまりもうまともな手段ではキラに対抗する術が無いほどに、竜崎は追い詰められているということなのだろうか。

あのノートに一度名前を書いてしまえば、キラとの勝負の行方に関係なく竜崎は必ず死んでしまう。
無事証拠を掴んでキラを捕まえられればまだ良いほうで、二十三日のうちに勝負がつかなかったとしたら。あるいは、何か一つでも判断を誤ってキラに出し抜かれ、竜崎の自己犠牲が全く意味のないものとなってしまったら──。

竜崎の台詞をひとつ、またひとつ聞く度に、私の手の中のコップで水面がか細く揺れた。
手の震えを抑えることすらできないほどに、私の身体には恐怖が満ち満ちている。
私はそんな自分の情けなさを煩わしく思い、慌ててサイドテーブルにコップを置いた。
少し水が溢れてベッドカバーを濡らしてしまったが、今の私にはもはやそんなことどうでも良く、切迫した思いを眉間に深く刻んで竜崎と向き直る。

「………Lという偉大な人物が死んでしまうことがどれほど世界にとっての損失になるか、竜崎、あなたなら当然分かっているでしょう…っ」
「もちろん、私だって死ぬのは御免です。可能な限り穏便にキラ事件を終結させる手段は模索し続けますが、最終手段として自分の身を犠牲にすることも想定しているということです」
「キラの存在が世界に与える影響の大きさは分かります。世界がキラの手に堕ちる前に、事件を終結させたい竜崎の気持ちも分かっているつもりです。でも、Lという存在は世界中の凶悪犯罪に対する抑止力でもあるはず。キラを無事捕まえたとしても、Lが居なくなってしまったらその後の世界はどうなってしまうんですか」

ただ感情的に叫ぶばかりでは意味がない。
そう思った私は声音は大きくとも努めて淡々と客観的に言葉を選んで彼を諭そうとした。
私なんかが今更説明しなくたって、竜崎は当然自分の存在の影響力を自覚しているはず。
つまりその全てのリスクを含めた上で彼は自己犠牲の選択肢も考えている──そんなことは百も承知だが、それでも私は彼を諭さずにはいられなかった。

例えキラを捕まえるためだとしても、竜崎の命が散っていくその瞬間をこの目で見届けたくなんか無い。
竜崎に、エルに生きていて欲しい。死んでほしくない。
──私を残して逝ってしまわないで。

客観的に努めようとする説明の裏で滲んだ、私の心からの本音。
それをなんとかひた隠しにしながらも、彼に訴えかけるようにひたむきな視線を送り続けたが、竜崎はやはり顔色一つ変えることなく、新たな飴に手を伸ばしていた。
平然とした表情でがりがりと飴を噛み砕く竜崎が、ぴっと飴の包装を開けながらこもった声音を放った。

「…香澄さん、確かに私は普通とは違う頭脳を持って生まれ、その才能を有益に生かせる探偵という仕事をしています。しかし世界には六十億以上の人間が存在しているんです。月くんのように、私に匹敵する優秀さを持つ人間はそれなりにいるものです。ワタリも当然私の万が一に備えて、後継者の発見と育成に長年力を入れています。Lの代わりというのは、案外いくらでも存在するものなんですよ」

ただただ、ひたすらに遣る瀬無くて悔しくて──強く痛いほどに唇を噛み締める。
そのあまりにもあっさりとした俯瞰的で完璧な返答に、私はもはや何も言い返すことができなかった。

謙遜がすぎるとも聞こえるような台詞だが、竜崎は自分を卑下するような無意味な物言いはしない。
そんな彼がはっきりとこう言い切ってしまうということは、「Lの代わりなどいくらでも存在している」という事実は、きっと間違いないのだろう。

ワタリが私達の育った孤児院でLの後継者候補を熱心に育成していることは知っていた。
秀でたものを持つ子供を世界中から集めて教育を施し、その中からLの後継になり得る人間を莫大な金も惜しまずに探している。
竜崎も所詮はただの人である、いつ病に倒れたり事故にあったりするかは分からない。
その万が一の時に彼の役割を継ぐことができる人間を準備することは、至極当然のことなのだ。

そもそも、Lという探偵が誕生する前から、この世界は大小様々な諍いを経験しながらもしっかりと成り立っていた。
何だかんだで多数の人々は、それなりに平穏な生活を送ることが出来ていたということだ。
是非はともかく様々な方法で国や世界を統治しまとめあげる存在が、どの時代にも必ず現れる。
オリジナルのLである竜崎がこの世から消えたとしても、Lの後継者を筆頭にその代わりとなり得る新たな抑止力が誕生して、きっとこの現代社会は滞りなく存続していくのだろう。

分かっている。そんなことは容易く理解できる。竜崎の言う通りだ。

でも違う。私が本当に言いたいことはそんなことじゃない。私は──。



「香澄さんは、私を心配してくれるんですか」



本心を話そうとも話せない悶々とした苦しみの中聞こえた竜崎の声。
ハッと顔をあげれば、竜崎は既に開いた飴の包を持ったまま、まっすぐに私を見ていた。


「……竜崎ほどの影響力のある人間が死んでしまうリスクを考えれば、」
「あなた自身は、心配してくれないんですか」


その瞬間既視感に苛まれる。
このやり取り──再会して間もない頃に竜崎と交わしたことがある。
テレビ放送越しに大胆にキラを挑発した竜崎のことが心配でたまらず、苦言の呈した飛行機内での会話──あの時も彼は「あなた自身は心配してくれないんですか」と飄々とした口ぶりで私に尋ねてきたのだ。
竜崎にに未だ好意を抱いているから、好きな人が死んでしまうなんて嫌だから──なんて本心をさらけ出すことも憚られて、強がる私は「昔馴染みだから」と無難に答えてみせたはず。
あの瞬間は、そう答えることこそが事を穏便に済ませられる最適解だった。


(でも、今なら──)


私は竜崎からふっと視線をそらし、胸元に残っているだろうあの赤い執着の印に触れた。

この一年弱、睡眠すらもまともに取れない極限状態の中懸命に監視を続けたり、数ヶ月間何の進展もなくただ退屈な時間に焦燥を感じたり──キラ事件を長く捜査し続ける中で私は色々なことを経験し、そして沢山の時間を竜崎と共に過ごした。
数え切れないほど言葉を交わし合い、共に困難に立ち向かい、その果てに確かに縮まった私達の心の距離。
再び肌を重ねる関係になり、竜崎は何度も何度も私に執着を垣間見せ、そしてあんなにも熱くひたむきに私のことを求めてくれた。
普段ならば絶対に見せることのない熱に浮かされたような表情で私に触れ、火口に嫉妬し、そして初めてこの身体にキスマークを残したのだ。

竜崎の、いやエルの中で、私に対する何かがきっと変わっている。
今なら、積もりに積もったこの切ない思いを受け止めてもらえるではないかと、そう思えてしまって───。

私の胸の内を見透かすような射抜かんばかりのその眼差し。

昔も今も、ずっとずっと傍で見つめ続けていた黒い瞳。

私はこの胸の内に温め続けた大切な思いを改めて伝えてみせようと、そう決心した。
幼い頃からよく知る、竜崎のそのまん丸の瞳と向かい合い、緊張に乾く唇をか細く震わせ、小さく息を吸い込み、そして──。


「竜崎のことが好き、大好き」


その声はわずかに掠れていたものの、今更そんなこと気にしてなどいられない。
私は一度まぶたを閉じた後、そろそろと頼りなく手をシーツに滑らせ、そして彼のジーンズに少しだけ指先で触れて顔を上げた。


「ずっとずっと竜崎のことを、愛してるの。だから竜崎に、死んでほしくなんか無い、生きていて欲しい…っ」


情事の最中に思わず口走ってしまった好意よりも、より思いを込めてはっきりと明確に言葉を紡ぐ。
戦慄く唇をどうにかこじ開けて思いを伝える内に、長年膨らみ続けていた切ない感情が堪えきれなくなってしまい、最後はもう目に涙を浮かべて半泣きとなってしまった。

それでも、二十年近く積もったこの愛を、自分の意志でやっと口にすることが出来た。
幼少期のでさえ遠慮して言うことのできなかったこの大切な言葉を、今この瞬間確かに伝えることができた。

こうしてはっきりと告白しまえばもはや抑えようもなく、何年も隠し続けていた彼に対する気持ちが堰を切ったように心の中に溢れかえる。
愛おしくて、不安で、どこかむず痒くて、締め付けられるようにただただ切ない。
そんな複雑な感覚を覚えながらも、私は瞬きすら惜しんで懸命に目を見開きつづける。
竜崎から視線をそらしたくなくて、彼がどんな顔で今の台詞を聞いてくれたのか見逃したくなくて──。


しかし──竜崎は全く表情を変えない。

喜ぶわけでもなく、かといって嫌がるわけでもなく、ただただそのままぴくりとも表情に変化を見せなかった。
いつもと何ら変わらない、ポーカーフェイスだけがそこにはある。

こんな至近距離で見つめ合いながら語った言葉が、聞こえないわけがない。
竜崎は間違いなく私の好意の吐露を耳にしたはずだ。
表情に乏しい竜崎と言えど、感情を大きく揺さぶる出来事があればポーカーフェイスを崩すことも珍しくはない。
それならば何故──私の言葉に無表情を保ったままなのだろう。沈黙を守ったままなのだろう。

顔色を変えず、何も話さず、ただじぃっと私を見つめ続けてくる竜崎。
その深い深い黒の瞳の奥で一体何を考えているのか私はさっぱり検討がつかず、不安な感情だけが腹の中で膨らみ続ける。
ただいつもの癖で無表情のまま今後について思案でもしているのだろうか、それとも私を拒絶する言葉でも考えているのだろうか。
溢れる不安を振り払うことができず、己で己の首を締め上げるようなネガティブな考えが次から次へと脳裏によぎった────その時。



竜崎は表情一つ変えないままゆっくりとこちらのほうへ手を伸ばした。
戦慄くこの背中に温かい掌を添え、そのままぎゅうっと──優しく私の身体を抱きしめる。



「私も、愛していますよ」



とても穏やかで優しい、耳心地の良い声音で紡がれた言葉。
それを鼓膜に受け止めたその瞬間────これは嘘だと、私はすぐに気づいてしまった。


彼の胸の中、瞬きすら忘れて瞠目する視界の端で、先刻まで竜崎が手に持っていたはずの飴が転がる。
私を抱きしめた拍子に、竜崎の持っていた包からきっとこぼれてしまったのだろう。
赤くきらめく甘い飴玉はシーツの上をころころと勢いよく転がり、そして無残にもベッドから落ちて消え失せた。


竜崎に抱きしめながら見つめたその哀れな光景に、私の目からぽろぽろと涙が溢れる。
「愛している」と竜崎からやっと念願の愛の言葉をもらえたというのに、今の私に涙を抑えることなんてできない。

嘘だと気づいてしまった自分がひたすらに憎くて仕方がない。
何か明確な理由があったわけでもないのに、昔からの長年の付き合いのせいで確かな違和感を察してしまったのだ。

危機的な現状を説明する時も、セックスの最中でさえもあれだけ饒舌だったと言うに、急にシンプルな物言いになった竜崎。
じっとこちらを観察しつづけ、私がどんな言葉を求めているのか慎重に測っているようだった。
淡々と抑揚なく話すその様は、心にもないようなことを言って状況を有利に操作しようとするいつもの竜崎の口ぶりそのままで────。





情熱的に身体を求められ、執着の証を刻まれて、ぬか喜びに浮かれていた無様な己。
男がベッドの中で見せる甘い言葉と態度は、この世で一番当てにならないものだ──そう分かっていたはずなのに、どうして今の自分と竜崎だけは違うと思えたのだろう。
あまりにも意思が軟すぎる自分が、ただただひたすらに恥ずかしくてみじめだ。

嘘をつくなら、もっと上手に嘘をついてほしかった。
それならきっと、私は今も自分が愛されているのだと勘違いしたまま、竜崎の胸で幸せの中にまどろんでいられただろうに。

己の非から逃れるように彼を心の中で責めてみたものの、目の縁からぽろぽろと溢れる涙は抑えようもなく溢れ続け、竜崎の白いシャツを汚していく。
肩を震わせて泣きじゃくる私の様子に竜崎も気づいたのだろう、控えめな口ぶりで「香澄さん」と名を呼ばれてしまって、私は迷った。

「嘘をつくなんて酷い」「心にもないことを言うな」と、彼を非難する言葉が口から飛び出しそうになるのを、歯を食いしばって懸命に堪えた。
彼が無意味な嘘をつくような人間でないことは嫌というほど知っている。
私を「愛している」と偽った意図──あの嘘の裏に隠された意味すらも何となく理解できてしまって、傷心のままに竜崎を責めることすらできないのだ。


今の私がすべきことは何なのか。
私が取るべき選択は、どれなのか。


息もできないほどに辛くて辛くてたまらない苦悶の中、私はなんとか必死の作り笑いを顔に湛え、「嬉しすぎて…」と嘘をつく。
これだけ苦しそうに泣きながらこんなお粗末な嘘をついて竜崎を欺けるかは怪しかったが、彼はそれ以上何も追求しなかった。
ただ口をつぐんだまま、私の戦慄く背中をゆっくりと優しく撫でる竜崎。
先刻まで熱く私の身体を愛撫し続けていたそのきれいな指が、今は私の顎元に添えられる。



──そのまま降ってきた彼の口付けは、私の心にとどめを刺さんばかりに惨たらしく、無慈悲な程に甘ったるかった。