14. 歓び キラ逮捕のため莫大な財を投じて作られた新拠点に移り住み、早二週間。 依然として捜査に進展は全く無い。 その日の心臓麻痺死亡者のデータとまとめたり、警察庁捜査本部宛に送られてきた信憑性の薄い情報について調査してみたりと、捜査本部の皆は細々とした仕事を処理する毎日を送っている。 高スペックのパソコンも無数のモニターも屋上のヘリも、竜崎が用意した最新鋭の設備のほとんどが全く出番のないまま鎮座するばかりだ。 これでは宝の持ち腐れもいいところだが、しかしこれまで懸命に捜査して得た手がかりを全て失ってしまった私達に、今はどうすることもできなかった。 というより、いくら皆が気合を入れて頑張ろうとしても捜査本部のトップである竜崎がずっとやる気をなくし落胆したままで頼りにならない。 毎日怠そうに月くんに引きずられるようにやってきたかと思えば、椅子の上でもぞもぞしながらスイーツを食べ続けるばかり。 いや、さすがにただ毎日を怠惰に過ごしているわけではなく、キラ事件に着手してから溜まる一方だったその他の事件の捜査を少しずつ片付けてはいるようだが、その目は相変わらず光がなく死んでいる。 一方。私はミサを監視する都合上捜査本部の皆とは別行動をとることが多くなった。 基本的にはミサに同行してマネージャ業務に励み、時間があれば自室でノートパソコンを使って捜査関係のデータをまとめる。 本音を言えばミサの仕事に付き合うばかりではなく、もっと捜査に貢献できる仕事がしたいのだが、ミサと手錠で繋がれている以上私がとれる行動は少ない。 ミサを監視することだって私に課せられた重大な任務なのだし、直接捜査に関わる機会が減ってしまったのも仕方がないことだ。 しかしたまに見かける度に元気なさげに丸まっている竜崎の背中。 それを眺めて切ない焦燥に駆られつつも、どうしようもできない歯がゆさ。 現状に納得しながらもどこか感じてしまうやるせない気持ちのまま、私はミサと共に自分の仕事をこなすだけの日々を過ごしていた。 ──そんな中。 ミサのCM撮影の仕事を終え、二人で捜査本部に帰ってきた時のことである。 慣れない仕事で疲れ切った身体を引きずり、いくつものロックを解除してようやく最後のセキュリティゲートを通過したところで、懐かしくも美味しそうな匂いを鼻に感じた。 空っぽの胃を刺激するようなその優しい香り。 引き寄せられるように足早に休憩室へ向かってみれば、そこにはテーブルの上で所狭しと美味しそうな和食の数々が並んでいる。 「ああ、おかえり二人共。模木がな、時間を持て余していたから作ってくれたんだ」 夜神局長の少し高揚したようなその台詞に驚いて、ミサと二人で目を丸くする。 肉じゃが、揚げ出し豆腐の肉そぼろあんかけ、ほうれん草のおひたし、水菜とごぼうのサラダ、味噌汁。 テーブル上のどの料理も文句なしにとても美味しそうなのだが、これを本当に模木さんが作ったのか。 ミサの「美味しそう!お腹すいた!」と騒ぐ声を横で聞きながら、どうにも信じがたい事実にぽかんとしてしまう。 捜査を共にした日々の中で彼の趣味が料理だと聞いたことはあるが、目の前にならぶ何とも家庭的な料理と模木さんのあの屈強な風貌が結びつかない。 そんな失礼なことを考えつつもまじまじと料理を見つめていれば、やがてエプロン姿の模木さんがおひつの抱えながらやってきて、テキパキと白米をよそい始めた。 「土鍋で炊きました」と当たり前のように言う模木さんの手付きと、米のつややかな美しさ。 それらに目を奪われてしばし立ち尽くしてしまったのだが、夜神局長に促されて急いでミサと二人手洗いをすませ、手錠を装着し直した後席についた。 個々のお盆に丁寧に並べられた和食の数々を眺めていると、最近感じていなかった食欲がどこからか湧いてくる。 ホテルにいるころはルームサービスの食事、そしてここへ移り住んでからはワタリが手配したケータリングばかり口にする生活を送っていた。 もちろんそれらは決して安物ではない上質な品でとても美味しかったのだが、さすがに三食毎日食べているとどこか味気なくて飽きてしまう。 そんな日々の中こんなに美味しそうな手料理が食べられるとは夢にも思わず、自ずと心弾んでしまうというわけだ。 こういう家庭的な食事は親睦も兼ねて皆で大きなテーブルを囲み食べられればよかったのだろうが、この休憩室には四人がけの丸テーブルが数個あるのみで、私達は席を分かれて座ることとなった。 当然ミサが月くんの隣に座りたがるので、私も彼らと同じテーブルの、竜崎の隣の席へと腰を下ろす。 竜崎のお盆だけは料理ではなく、みかん入り牛乳寒天がガラスの器に盛られて置かれていた。 模木さんの用意の良さと、牛乳寒天をじっと見つめている竜崎の不思議な姿。 それらを微笑ましく思っているうちに、皆で「いただきます」と手を合わせて食事が始まった。 「んー!もっちー美味しい!料理が趣味とか信じられなかったけど、本当に上手なんだ!」 「本当だ…すごいですね模木さん。土鍋で炊いたお米もすごく美味しいし…。仕事も料理もそつなくこなせるなんて、僕尊敬します」 ミサと月くんの称賛の声に、向こうのテーブルの模木さんが照れたようにどこか可愛らしく頭をぺこりと下げた。 美味しそうに料理を食べているミサたち。もう一方のテーブルで和気あいあいと食事している日本警察の皆。 何とも平和で穏やかなその光景を眺めながらも、私もお盆に向かいあう。 まだ完全に食欲が戻ったわけではないが、せっかく模木さんが厚意で作ってくれて美味しそうなご飯だ、出来るだけ残さず食べたい。 そうひとり決心して、弱った胃を慣らすためにもまず汁物から頂こうと汁椀を手に取る。 ごろごろ野菜がたっぷり入った味噌汁の温もりが、椀を通して手のひらに優しく伝わってくる。 湯気と共にのぼる、出汁と味噌の匂い──それを鼻に吸い込んだ瞬間、私は図らずも目を見張った。 この匂いに感じる、感情の高ぶり。何故だか無性に胸が高鳴っている。 私は己の様に狼狽えながらも恐る恐る椀を顔へ近づけ、美味しそうな香りの汁をそっと口に含んだ──。 「……!」 「…香澄さん?ど…どうしたんですか」 私の異変にいち早く気づいたのは、隣に座る竜崎だった。 牛乳寒天をスプーンで突っつく手をピタリと止め、珍しく焦ったような口ぶりで声をかけてくれる。 しかし、今の私にその声に応える余裕なんてない。 ──私はただただ、お椀を持ったまま無言でボロボロと涙を溢れさせるしかなかったのだ。 「え!?どうしたの香澄ちゃん!?なんで泣いてるの!?」 「香澄さん?すいません、お口に合いませんでしたか?」 騒がしくなったこちらのテーブルに気づき、模木さんに心配げに声をかけられた。 こんなに美味しい料理を作ってくれたのに「お口に合いませんでしたか」なんて言わせてしまったことが申し訳ない。 いつまでも泣きじゃくっている場合ではないと私は無理やり涙を堪え、戦慄く唇で何とか言葉を紡ぐ。 「違うんです、すごく美味しいんです。…子供のころに母が作ってくれたお味噌汁と味が似てて、あまりにも懐かしくて泣いちゃいました。すみません」 そう──この味噌汁の懐かしい味に私は人目も憚らず思いっきり泣いてしまったのだ。 なんとも不思議なものである。 母がなくなったのはもう二十年近く前だと言うのに、一口飲んだ瞬間に、幼い頃の母の思い出が一瞬で鮮明に蘇ってしまった。 嗅覚や味覚というのは記憶や本能に強く結びついて脳に残ると聞いたことがあるが、本当らしい。 長い欧州暮らしで日本の家庭料理の味なんてすっかり忘れていたというのに、模木さんが作ってくれたこの味噌汁は私に大きな感激をもたらしてくれた。 「お出汁は何ですか」「味噌は何を使ってるんですか」と次々に湧き上がる疑問を高揚感のままに模木さんに投げかけながら、私は味噌汁のみならず全ての料理をぺろりと平らげてしまったのだった。 そしてその翌日から、私は暇に乗じて度々模木さんに日本料理を教わるようになった。 亡き母の味を思い出すあの手料理をもっと知りたい。私自身も作れるようになりたい。 そう事情を説明をして頼み込んで見れば模木さんは「自分で良ければ」と快諾してくれた。 特にやることもなく士気の下がった捜査本部で、手作りのご飯が食べられる機会が増えることに誰も反対しなかったし、ミサも一人暮らしの役に立つからと共に料理を教わることに乗り気だ。 このビルには生活のためそれぞれのプライベートルームに立派なキッチンが備え付けられていて、模木さんの料理教室には休憩室に近い空き部屋のキッチンを使っている。 ミサの仕事が無い日は夕方から三人でキッチンに立ち、模木さんに手順を教わりながら夕食の準備をした。 こんな広々としたキッチンで料理をするなんて、ホテルを転々とする日々なら出来なかったことだ。 東京のど真ん中に建てられた高層ビルで料理教室なんて何だか随分御大層だが、まあとても有意義なので良しとしよう。 そんなたわいもない会話を交えながらも、和気あいあいと料理を習う時間はとても充実していた。 兎にも角にも、模木さん大きく無骨な手で作り出される繊細な日本食の数々は何度見ても素晴らしく、何度食べても美味しい。 私とミサが褒める度に「自分の料理の腕なんて大したことありません。ただの趣味です」といつも謙遜する彼だったが、その手際の良さと知識量にはただただ尊敬するしか無い。 そんな模木さんの料理を習えば習うほど、食べれば食べるほど、この懐かしい味を我が物にできることがとても嬉しくて、私は料理を習うことにどんどん意欲的になっていく。 やがて自分で選んで和食のレシピ本を買い集めるようになり、時間さえあれば出先でもそれらを読み込むようになった。 ──今日は模木さんは何を作るつもりだろうか。 ──献立を任せてばかりだと大変だろうから、この本を参考に私からも料理を提案してみようか。 調理以外の時間の中でも、今日の夕飯についてあれこれ考えることすら私にとっては楽しくてたまらない。 こうして、模木さんとミサ、そしてたまに手伝ってくれる松田さんとで、睦まじく食事の準備をする平和な日々が続いたのだ。 「…で、今日の竜崎のデザートはわらび餅です」 「わらび餅…」 「冷やして食べる夏にぴったりな和菓子だそうですよ。まあもう九月ですけどまだまだ暑い日が続きますし、せっかくなんで日本の涼菓子味わってみてください」 そんな取り留めもない話をしながら、夕食の配膳を終えて席につく。 今日は日本警察の皆は警察庁に用事があるため居らず、竜崎、月くん、ミサと私の四人だけの食事だ。 いただきますと三人で手を合わせれば、ワンテンポ遅れて竜崎も真似するように手を合わせた。 「これ、ミサが頑張って作ったんだよ!」と嬉しそうに月くんに自慢しているミサの声を聞きながら、私も早速一口食べてみる。 和え物もうまく出来たし、煮魚もほろりと柔らかく味がしみて美味しい。 模木さんが居ない中上手に作れるか心配だったが、失敗もなく完成できて良かった。 模木さんの書き残してくれたレシピメモを頭に浮かべてほっと胸を撫で下ろす。 すると何やら隣から感じる、刺さるような視線。 「…?どうしたんですか竜崎?」 「そちらの料理は美味しくできましたか」 「え、まあ、はい。食べてみますか、煮魚。まだこっちの端は手を付けてないですから…」 まともな食事を摂る気がない竜崎には料理は配膳せず、毎回甘味だけ与えているのだが、今日はこちらの料理にも興味があるらしい。 折角なのだから一口食べてみてば良いと思い、そう提案したところで私は固まった。 どうやって竜崎に分け与えよう。 竜崎の盆にはわらび餅用の菓子楊枝があるのみで箸はない。 では私の箸で──と一瞬考えもしたが、脳内で即却下する。 家族でもない他人同士の成人した異性に同じ箸で食べ物を与えるなんて。 ──なんてそれらしい言い訳を考えてもみるが、そういえば私達は「一応」交際中だった。さらに言えば、間接キスとは比べ物にならないほど濃厚に接触した経験も一度や二度ではない深い関係だったりする。 (…そうは言っても、) まあとにかく恥ずかしいから嫌なのだ。 そんな私の葛藤も露知らず、テーブルの向こうで困惑気味の苦笑いな月くんと、彼に「あーん」で料理を食べさせようとしている呑気なミサ。 目前で繰り広げられる二人の姿に気まずい思いをしていると、竜崎は首を横にふった。 「いえ、今は魚を食べる気分ではないので」 竜崎が断ってくれたことに内心ひどく安堵してため息をつく。 話題を変えなくてはと焦りつつも少し悩み、未だ手を付けられていないわらび餅を眺めた。 「わらび餅、ぷるぷるもちもちって感じで美味しく出来たんです。煮詰めただけですけど、黒蜜も手作りなんですよ、」 「…この透明の餅、香澄さんが一から作ったんですか」 「はい!わらび粉っていうのを本当は使うらしいんですけど、片栗粉でも簡単につくれるって模木さんが教えてくれたんです。本当に簡単に作れちゃいました」 簡単な甘味も作れる模木さんのあの女子力を見習いたいものだ。 そう思いつつも笑顔で答えれば、竜崎はそれっきり黙ってしまった。 柔らかなわらび餅は楊枝でつんつんと突っつかれ、きなこと黒蜜が天辺から滑り落ちていく。 甘いものに目がない竜崎がすぐに食べようとしないなんて、もしかしてこの手のお菓子は嫌いなのだろうか。 竜崎のその様子に不安になってきた頃、彼はようやくわらび餅を一つ口に放り込む。 ぱくりと素早く食べてしまったかと思えば、時間をかけて何度も味わうように噛んでからようやく飲み込んだようだ。 「美味しいです」 表情はいつもどおりの無愛想さだが、遠慮を知らない彼が口でそう言ってくれたというのは本当に美味しく思っているということ。 彼のその言葉を聞いた途端に胸のうちに溢れる、この喜びの懐かしさ。 なんだか孤児院時代にエルにお菓子を作り続けた日が戻ってきたようで、はからずも笑みをこぼしてしまう。 「良かった…竜崎に美味しく食べてもらえると、…その、嬉しいです」 懐かしい過去を思い返しながらも照れ笑いで肩すくめた。 竜崎は何も応えずにぱくぱくと次々にわらび餅を食べているが、この会話のない独特の空気感でさえも懐かしく思えてしまう。 なんだか幸せな気分でにこにこしながら自分の食事を再開すると、手に付いたきなこを舐めている竜崎が唐突に口を開いた。 「香澄さん、いつの間にか食事も普通に摂れるようになりましたし、もうすっかり元気ですね」 そう言われて茶碗を持ったまま彼へと顔を向ける。 残り一つのわらび餅を残したところで、竜崎は楊枝をぷらんと揺らしていた。 「…お陰様で、やっと胃の調子も戻りました」 「お陰ですか…。私は何もしていませんが」 「…?…言葉の綾ですよ」 「模木さんのお陰ですね」 いまいち上手く噛み合っていないような会話に私は疑問符を浮かべる。 竜崎が何を語りたいのかはさっぱりつかめずに、箸を握りながら小首を傾げた。 彼の言っていることは事実だ。間違いない。 私は模木さんが作った懐かしい味の味噌汁を飲んだこときっかけに、ようやく気分を晴らすことができた。 日本に来てから不慣れな捜査作業ばかりで、ろくに趣味や息抜きも出来なかった日々の中、模木さんに教わる料理の時間は純粋に楽しく、私に大きな喜びをもたらしてくれた。 「模木さん…そうですね、模木さんのお陰です」 「…」 「模木さんに料理を教わるの、とっても楽しいんですよ。日本の家庭料理にふれる機会なんて子供の時以来だったから、亡くなった母の面影に近づけるような気もして、何だか幸せになれるんです。まさか料理を習ってこうもあっさり元気になれるとは思わなくて、自分でも吃驚してるんですけどね」 「…」 「すごい方ですよね模木さんって。料理はお上手だし、仕事だってすごく優秀でよくサポートしてくれますし…こんなにもお世話になっちゃって、いつかお礼しなくちゃ…」 模木さんの料理中の穏やかな様子や、ミサ確保時に見せた勇ましく頼りがいのある姿を思い出して微笑む。 どんなお礼をしたら喜んでくれるだろうかと味噌汁に口をつけながら考えていると、竜崎は黙りこくったまま最後のわらび餅に楊枝を突き刺した。 その手付きが珍しく乱暴というか、やや過剰に力が込められていることに気づき、私はハッと息を呑む。 「…竜崎?」 恐る恐る彼の名を呼んで見れば、竜崎はのっそりと顔をこちらに向けた。 眉根を寄せるその様に彼の機嫌がよろしく無いことを察してぎょっとしていると、「なんですか」と拗ねたような唇で最後のひと口を食べてしまった。 私の発言の何がいけなかったのだろうか。 気まずさに冷や汗を流しながらも必死に頭を巡らせて、そしてようやく一つ思い当たる。 監禁中の忙しい最中わざわざ電話で労りの言葉を伝えてくれたりと、竜崎は事あるごとに私の体調を気にかけてくれた。 長く続く体調不良を度々上司に心配してもらったというのに私は一向に回復しなかったが、しかし他の人間のなんでも無い行動によってあっさりと立ち直って、今は能天気に楽しそうに振る舞っている。 そんな私の様を見ていれば、自分の労りの気持ちを踏みにじられたように取られてしまってもおかしくはない。 竜崎の唐突な不機嫌の理由を理解してしまい、しどろもどろに困惑する。 ここで慌てて「竜崎が気にかけてくださったのも感謝してます」なんて取ってつけたように言ったところで、彼は絶対に喜ばないだろう。 しかし──私がどう適切に弁解すべきだろうかと頭を悩ませているうちに竜崎は最後のひと口を飲み込み終わり、気だるげに私を見遣った。 「もっと食べたいんですが。おかわりはありますか」 「え?」 拗ねたような口から思ってもみなかったことを問われて、思わず間抜けな声を出してしまう。 おかわりしたいほど手作りわらび餅を気に入ってくれたことは嬉しいが、いじけながらもおかわりを強請ったりする竜崎の突拍子のなさに頭がついていかない。 「…多めに作ったんでありますけど…。今持ってきますから、待っててください」 「いえ、自分で取りに行きます。香澄さんは食事を続けていてください。…すみません月くん、キッチンに行きたいんでついてきてください」 「何だ竜崎、突然…」 そうのたまった竜崎はあっという間に椅子から飛び降り、慌てて箸を置く月くんのことも気にしないままのそのそと退室してしまった。 ミサと睦まじく食事していたところを突然手錠でひっぱられ、困惑のまま強制的に同行させれる月くんの背中に申し訳無さを感じてしまい、肩をすくめてミサに視線を送った。 「…竜崎さん、どうしたの?」 「わらび餅のおかわりがほしいから取ってくるって…」 「でもなんか、拗ねてるっぽくなかった?もー。せっかくライトとラブラブしてたのに、竜崎さんってば空気よめなーい」 そう可愛らしく不貞腐れながらも一人ぱくぱくと箸をすすめるミサ。 そんな彼女を眺めながら私はそれ以上何も言えず、胸の苦しさを吐き出すようにため息をついた。 それから三日後。 竜崎はあの件についてそれっきり何も言わず、結局今もあの日の不機嫌な理由は有耶無耶のままだ。 竜崎と顔を合わせる度になんとなく気まずい思いをしてしまうが、今更話を掘り返すのもためらわれて何事もなかったかのように私は振る舞っていた。 ミサの芸能活動が忙しく、そう頻繁に彼と会うわけではないのが救いである。 今日は撮影が近い映画の台詞を覚えるのだと意気込むミサの意を汲み、私は少し離れたところでソファーに座り、ノートパソコンでデータ整理の仕事をしている。 台本とにらめっこをしている彼女のため出来るだけ静かにしようと努めてはいるが、こちらもノートパソコンで作業している以上キーボードの音がどうしてもなってしまう。 本当は一人にさせてあげたいものの、竜崎の命令で外出時以外は手錠を外すことを禁じられているのでこればっかりは仕方がない。 彼女を気遣い、可能な限り優しくキーボードを叩きながらパソコンの画面を見つめていたところ──突然部屋のチャイムが鳴り響いた。 「あ!ライトかな!?」 夜神局長たちがこちらの部屋にわざわざ訪れることは滅多に無いので、恐らくそうだろう。 今まで大事そうに握っていた台本をぽいと雑に投げ出してエントランスルームへと走っていくミサ。 ジャラジャラと仰々しい音をたてる手錠に左手首をひっぱられ、わずかに重たい気分で彼女についていく。 エントランスのドアを開ければ予想どおりそこにいた月くんと、そして竜崎の姿に咄嗟に視線を逸らした。 「ライト!今日デートの日だったっけ?それともミサに会いたくなって来てくれたの?」 「いや、僕じゃなくて竜崎が会いたいって」 「えぇぇ?竜崎さんがミサにぃ?」 「ミサさんじゃありませんよ。それに月くん、私会いたいなんて言葉は言ってません。少し用があるだけです」 そんなやり取りと一歩離れたところで黙ってみていれば、会話が途切れたところで突然月くんと竜崎の視線が私へと向けられた。 つられてミサの視線もこちらへやってきて、三人に見つめられる状況に肩を強張らせる。 「え…。私に用、ですか…?」 どぎまぎしながらも思わず自分を指差せば、月くんはニコニコと見目のいい笑顔で頷いた。 「何か捜査の話でしょうか?とりあえずどうぞ中へ入ってください、今お茶を準備しますね」 「お茶はいらないです香澄さん」 そう断られてぽかんと小首を傾げる。 大抵いつでもコーヒーか紅茶を飲んでいる竜崎にお茶を断られるということは、ここで立ち話ですませるのだろうか──? だがそんな私の予想に反して、竜崎は早々と靴を脱いで上がり框へと足をかけた。 遠慮もなく私の横を通り過ぎ、月くんも引き連れてずんずんとリビングへ行ってしまった竜崎。 いまいち事情が分からず呆然と背中を見ていると、左手に紙袋がぶら下がっていることに気づいた。 とりあえず二人を追いかけリビングへと戻ってみれば、竜崎は早速紙袋の中身をつまみ上げてテーブルに並べている。 水筒とそして可愛らしい赤い箱が二つ。 てっきり捜査資料か何かが出てくるかと思っていたところに予想外のものが出てきて私はさらに疑問符を頭上に浮かべた。 「なんだろうこれ?」 「…なんだろう?お菓子の箱っぽくない?」 ミサと二人でまじまじとテーブルの上のものを見つめていると、キッチンから人数分のカップとソーサーを持ってきた月くん達がこちらへやってくる。 「開けてみてください。香澄さんはこっちの箱で、ミサはこっちの箱」 月くんにそう言われ、ソファに腰掛けた後早速開けてみれば、そこにはコロンと可愛らしいひと口サイズの丸いチョコレートが4つ鎮座していた。 グラシンケースの中でカラフルなトッピングシュガーを沢山身に纏い、つややかに光っているそれら。 とても美味しそうだが、しかしよくよく見てみると少し形がいびつでトッピングシュガーのかかり方もまばらである。 どこかから取り寄せたものだとばかり思っていたが、もしやととある可能性に気づき、月くんと竜崎の方へ顔を向けた。 「うそ、もしかして手作りですか…?」 「竜崎が唐突にお菓子作りがしたいって言い出したんですよ。暇だから気晴らしにって」 苦笑しながらそう答える月くんの後ろで竜崎がどこか居心地が悪そうに背を丸めた。 ポケットに突っ込んでいた右手を持ち上げ、宙を見ながら唇をいじり始める。 「香澄さんたちがあまりにも楽しそうに料理をしていたので、私も挑戦してみたくなりました。模木さんに協力してもらって、溶かして固めてトッピングしただけですが…中々有意義で面白かったです」 「ライトも一緒につくったの!?ってことは、ミサの箱のチョコレートはライトの手作りってこと!?」 「竜崎がやるってなったら僕も強制的に付き合わされるからね。沢山作りすぎたからお裾分け。溶かして固めただけだけど、素材が良いから中々美味しく出来たんだ」 「手作りチョコレートなんて、ミサすっごい嬉しい!!ありがとうライト、大好き!」 たくさんのハートを飛び交わせて月くんに抱きつくミサと、彼女を上手く受け止めつつカップの準備をして水筒の中身を注ぎ始めた月くん。 水筒から流れ出る黒い液体からただよう香ばしい匂いに思わずうっとりしていると「せっかくだから豆から挽いて美味しいコーヒーも準備してきたんですよ」と説明される。 何だか至れり尽くせりな有様に嬉しい反面、何か裏があるのではないかと身構える。 まあしかし、ここまで入念にもてなしてくれるのだ、その厚意を無碍にするわけにもいかない。 私は動揺しつつも目の前のチョコレートを見つめ、嬉しさに破顔した。 ふと視線を感じて顔をあげてみれば、月くんの横でソファにも座らず何故か立ちっぱなしの竜崎がじっとりと私を見つめていた。 「…竜崎?どうしたんですか」 「…月くんとミサさんが隣同士で座ってしまったので、どこに座ろうかと。香澄さんの隣、良いですか」 何を今更改まっているのだろう。食事の際には丸テーブルを囲んでいつも隣に座るというのに。 私は竜崎の改まる意図が分からないながらも、「どうぞ」と笑顔でソファの隣の席を開けた。 互いの鎖が絡まったりテーブルの上のものをなぎ倒してしまわないように手錠の位置を調整しながら、竜崎が隣のソファーにひょいっと飛び乗った。 ソファの座面が沈み、彼の方へ身体が傾きかける。 その拍子に竜崎の距離の近さを妙に意識してしまい、私は慌てて竜崎から少し距離を取ってテーブルへと視線を逸らした。 「…竜崎がお菓子作りに挑戦してみたなんて、何だか不思議ですね。キッチンに立ってる姿とか全然想像できないです。」 未だ落ち着かない鼓動をごまかしつつ、竜崎の前にコーヒーとシュガーポットを用意する。 早速コーヒーに落とされる数多の角砂糖を眺めながら、私はそわそわと続けた。 「じゃあ早速頂きます」 すると竜崎はコーヒーの砂糖を混ぜ終えた後、カチャンと音を立ててスプーンを置いた。 そしてその手でチョコレートをつまみ上げ、あろう事か私の顔の前に差し出してきたのだ。 もしかして、いや、もしかしなくてもこれは…。 竜崎のまさかの行動に何も出来ずしばらく固まってしまうと、その大きな黒い瞳から向けられる視線がじっとりと私に絡みついてくる。 いつまでも絶句している場合にもいかないことを察し、私は狼狽えながらも息を吸い込んだ。 「自分で食べられます…」 「…いいですから、口を開いてください」 「いえ、あの、こんなの恐れ多いというか、恥ずかしいというか」 そこまで言ったところで、竜崎は渋々とでも言いたい風な目付きでようやく腕を下ろしてくれた。 あの強引な竜崎を何とか退けることが出来たことにこっそり安堵しつつも、「どうぞ」と普通に手のひらへ差し出されたチョコレートを受け取る。 小さい割にはずっしりと重みを感じる気がする、まん丸のチョコレート。 その可愛らしさを目で楽しんだ後、ゆっくりと口の中に入れてみた。 口内の体温で少し溶かしてその仄かな甘さを味わい、そしてそっと歯を立てる。 トッピングシュガーのじゃりっとした歯ごたえの後で、口いっぱいにチョコレートの風味が広がった。 中に何が入っている訳でもない、トッピングシュガーが添えられている以外は至ってシンプルなチョコレートだが、このシンプルかつどこかチープな味が良い。 来日してから竜崎と共に食べるスイーツはどれもワタリが用意した高級なものばかりで、こんな素朴なお菓子を食べたのは久しぶりだ。 口の中を満たす甘みがもたらす幸福感に、はからずも頬が緩む。 「美味しい…」 「そうですか。良かったです」 竜崎は私の表情を確認するようにちらりとこちらを見た後、無表情のまま自分の手元に視線を戻して静かにコーヒーに口付けた。 テーブルの向こうのミサに「こっちのチョコレートも美味しいよ!」と興奮した口ぶりで話しかけられ、二人で顔を見合わせながらぐもぐとチョコレートの味を楽しむ。 満足げに笑う月くんがコーヒーについてあれこれミサへと語り始めたのを一緒に聞いていると、隣から竜崎の声がした。 「手作りと呼ぶのも憚られるような簡単なチョコレートですが、これでも結構難しいものですね。湯煎で溶かしていたらお湯が入りそうになって焦りましたし、あれこれしているうちに手がチョコレートまみれに汚れてしまいました」 独り言のような声音の台詞を耳にして、口の中ですっかり蕩けた甘いチョコレートを飲み込む。 なぜ急にお菓子作りに挑戦してみようなんて思ったのだろう──彼の語る言葉を聞いているうちに、改めて疑問が湧きあがる。 竜崎の今の台詞を聞くに、どうやらお菓子作りは初めての経験らしい。 いつもスイーツに囲まれて甘いものと縁が深い彼だが、とにかく多忙な人なのでお菓子作りの経験が無いのも当然だろう。 別に作らなくてもその潤沢な資産でいくらでも世界中の高級スイーツを手に入れることができるし、専属のパティシエを雇うことだって容易のはず。 趣味でもなければ彼自身がお菓子作りをする意味はない。 しかし竜崎はとにかく好奇心旺盛な人でもある。 折角時間を持て余しているので気晴らしも兼ねて新しいことに挑戦してみたかったのかもしれない。 月くんとミサは二人で楽しそうにおしゃべりに興じているし、こちらはこちらで竜崎との会話を始めても問題はなさそうだ。 せっかくだから何故お菓子作りをしようと思ったか、直接本人に聞いてみたい。 そう思って私は口を開きかけるのだが──。 「香澄さんはかつて、こんな手間なことを毎日私のためにしてくれていたのだと、今日身を持って知ることが出来ました」 唐突なその台詞に心臓を鷲掴みにされたような心地がした。 傍から聞けば何を意味しているのかわからない曖昧な台詞だが、私はすぐに察してしまった。 「かつて」とは孤児院時代のころを指しているに違いない。 毎日毎日大好きなエルのことを思い、スクールから帰ってきてすぐにキッチンに立っていたあの頃だ。 まさか幼少期の話題を振られるとは思わず、呆然としてしまって言葉も紡げずに瞠目する。 「自分の作ったものを誰かに食べてもらうというのは、何だか不思議な気分ですね。そわそわと浮き足立つと言いますか。香澄さんに美味しいと言ってもらえて、妙に安心してしまいました」 「…全然そんなふうには見えなかったですけど…。でも、そうですね。私もあの頃は毎日そんな気持ちだったような気がします。もう、うろ覚えですけど…」 月くんとミサが直ぐ側にいるのではっきりとしたことは言えないが、言葉をぼかしながらもそう答えてみる。 ちらりと竜崎を盗み見てみれば、成人男性らしいその精悍な横顔に、昔の小さな少年だったころの面影が垣間見えるような気がした。 うろ覚えなんて嘘だ。 私にとってエルと孤児院で過ごした日々は宝物のように大切なものなのだから。 何度も何度も思い出しては、切なくて涙を流していた。 もうあんな幸せで満ち足りた日は来ないのだと悲観に呑まれるばかりだった思い出を、今はとても穏やかな気持ちで思い返すことができる。 エルと再び出会えたこと。 彼の下で働き、日々を共に過ごし、そして彼の作ってくれたお菓子を食べれたこと。 泣きじゃくっていたあの頃の私では到底信じられないような幸福な未来だ。 「まさか竜崎の手作りお菓子を食べられる日が来るなんて思いませんでした。何だかすごく嬉しいです」 はにかみながらも竜崎へと向き直れば、彼はカップを置いてずいっと私の顔を覗き込むようにこちらに迫ってくる。 その素早い動きに驚いて思わず肩をすくめると、竜崎が私を観察するような目つきで指を咥えた。 「嬉しいんですか」 「え…、あ、はい」 「では泣いてもいいですよ」 わけのわからないその台詞に、は?と間抜けな声を漏らしてしまったところで、ようやく気づいた。 ──竜崎は模木さんに張り合っているのだ。 模木さんの作った味噌汁に泣いてしまうほど感激してあっさりと私が立ち直ったしまったことが、竜崎はどうしても気に入らなかったのだろう。 だからこうして彼もチョコレートを作って、私に食べさせたところでどんな反応をするか観察しているのである。 そこまで察したところで思い出すのは竜崎と身体を結んだ春のあの夜、行為を終えた後に「昔の男と私、どちらが気持ちよかったですか」と尋ねてきた時のことだ。 竜崎は私に対して何故か妙な独占欲を抱いている。 孤児院時代から学校行事などで私がやむを得ずおやつ作りを休むといじけてしまったり、竜崎は私が彼の思いのままにならないと納得いかないように拗ねる一面がある。 この執着心が好意から来るものなら私も少しは喜べるのだが、決してそうではない。 彼は小さい頃から周りを一切気にせず気に入ったおもちゃを独占し、それが自分の手から離れれば拗ねていた。 私に向ける独占欲もそれと同じ。 自分が所有しているものを他人に横取りされて子供のように拗ねているだけという、単純で幼稚な感情だ。 それ以上でもそれ以下でもない。 竜崎の強い執着心と負けず嫌いな性分はよく知っているが、私は物ではなく意思を持った生きた人間だ。 こうも何でも自分の思い通りになるおもちゃのような扱いされると気分は良くない。 あの甘く厭わしい夜、行為の後泣きわめいてこの怒りの気持ちを訴えたはずだが、また竜崎は凝りずに私に変な独占欲を向けてきた。 いまいちこちらの心情を理解してくれない竜崎のその幼稚な行動に、私はすっかり呆れてしまう。 ──のだが、その拙い独占欲の末にとった行動がお菓子作りなのだと思うと、今回はどうも怒る気持ちになれなかった。 動機はどうあれ、この不揃いながらも甘くて美味しいチョコレートは私のために作られたもの。 きっと慣れない湯煎にあたふたしながら、手やキッチンをめいっぱい汚してようやく完成させたのだろう。 そんな竜崎の姿を想像してみればあまりにも微笑ましくて、腹立たしさなんて遥か彼方に消え去ってしまうのだから、私も中々単純な質である。 「泣きませんけど…でも、とても幸せな気持ちになれました」 「…しかし涙を流すほど感激はしてないんですよね」 「…あの時はうっかりしてただけで、いい大人なんでそう易易と泣いたりはしません…!でも、心の底から幸せな気分になれたのは本当です。お心遣い嬉しいです。ありがとうございます」 ──本当はこの胸に溢れる喜びの気持ちを、泣いてしまうほど目一杯享受することができれば良かったのだと思う。 しかし竜崎に気遣ってもらえた幸福を何も考えずこの身に満たしてしまったら、再び彼に愛されているのだと勘違いしてしまいそうで、ただひたすらに怖いのだ。 私に執着する竜崎に両思いなのだとうぬぼれて、あっけなくも捨てられてしまったあの日がどうしても脳裏によぎる。 あんな苦悶はもう二度と味わいたくない。 竜崎は妙な負けず嫌いさ故の執着を私に向けているだけで、決してそれは好意なんかではないのだ。 そう理性的に自分に言い聞かせなくては、いつかまた必ず後悔する結末を辿ってしまう。 だから私は自惚れなんて絶対に抱いてはいけない。 穏やかな笑顔を浮かべながらも内心で必死に自分を諭し続けていれば、竜崎は私が泣かないことに何とか納得してくれたのか、諦めたように鼻から細く息を吐き出した。 私から視線を逸らして無造作に頭を掻いた後、おもむろにまだ三つ残っているチョコレートを指差す。 「私も一つ食べてみていいですか。味見できなかったので、どんな味に仕上がったのか気になります。」 常に糖分摂取を怠らない竜崎が、味見もせずにチョコレートを作り続けたその意味──いいや、違う、だめだ、自惚れるな。 これ以上竜崎に見苦しい期待を抱いて感情を揺さぶられるのは嫌だった。 もう難しいことを考えるのはやめよう。 そう己を抑え込み、断る理由もないので「どうぞ」と答える。 嬉しくも切ない非常に複雑な気分をどうにかして紛らわせたくて、まだ口をつけていなかったコーヒーを味わっていると、あっという間に一つ食べ終えた竜崎が訝しげな表情をこちらに向けてきた。 「…既製品のほうが遥かに美味しいですね」 「……そ、そんな、身も蓋もないことを…」 (mainにもどる) |