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「今夜、私の部屋に、来てほしいの」

恥を押し殺し震える手を抑えこみ、ぽつんと秘めやかに声を絞り出した。情けないことにかすれ声だった。
目前の扉間は私の言葉に微かに目を見開いたが、何も言わない。沈黙。
羞恥心で顔は熱いはずなのに、あまりの気まずさに背筋が凍るような心地がして、もの恐ろしさに背を丸める。
とにかくこれはどうにかせねばと、私は慌てて笑顔を浮かべた。

「ごめん、タチの悪い冗談、なーんちゃって…本当にごめん」

こんな途切れ途切れの物言いでは、とっさの言い繕いだと丸分かりだ。「はは…」とあまりにもお粗末すぎる乾いた笑い声に、尚一層二人の間に流れる空気はどんより色を増した。
当然彼も私のそんな言い繕いを信じる様子はなく、依然として難しい表情を浮かべたままだった。
外から聞こえる軽やかな小鳥のさえずりと、稽古場の部屋に流れるあまりに重たい沈黙の対比が恐ろしいほど不愉快である。
そもそも場違いだった、わかっている。なぜ私はこんな場所で、唐突にこんなお誘いをしてしまったのだろうか。

「お前、自分自身が何を言ってるか分かっているのか」

ようやく口を開いてくれた扉間に大きく私の肩は跳ね上がってしまう。
大失敗というショックに気を失いかけていた私は、大急ぎで彼のその瞳を見つめ返した。
咎められているのだろう。彼の重たい声音も険しい表情も、どう見たって同調してくれているようには見えない。
かと言ってこんなふうに問い詰められてしっぽを巻いて逃げるなど不可能でもある。現に先ほどの私は情けなくもしくじった。
細かに考える時間なんて無く、ええいと半ばヤケになり、私は直立のまま数度頭を上下に振った後やるせなさに下を向いた。

「後悔はしないのだな?その時になって泣きわめくのは無しだぞ」
「しないよ、絶対にしない。もう私、大人だもの」

そうだ、大人だ。私は大人だ。
こうやって好きあう異性を、夜、部屋に呼んで「お誘い」してしまうくらいには、たぶん大人だ。

扉間と恋仲になって、もうそこそこに日は経った。まさか憧れの彼と心通じ合える時が来るなど夢にも思わず、日々桃色気分で浮かれに浮かれていたことすらも、今となってはしみじみと思い返すことができる。
然らば、恋仲になった大人の二人がそういう関係になるのは時間の問題でもあり、ごくごく自然なことなのだ。
この戦乱の世、一族繁栄とは重大事項であり、子を成すことに繋がる婚前交渉は特別咎められるようなことではない。
かといって当然あけっぴろげに出来るようなことはないので、婚前にそういう関係になるための手段は限られてくるわけで。
そのうちの一つこそ――いわゆる夜這い。女が好いた男を部屋に呼ぶ。男は約束通り夜な夜なこっそりと赴く。その果てに行われる行為は言わずもがなである。
知識としては知っていたが、まさか自分が実際にその立場になろうとは夢にも思わなかったので、私は柄にもなく大層悩み抜くはめになった。
もちろん事が事なので、「夜這いの正しい手順を教えて欲しい」などと周りの人間に尋ねることなど間違ってもできない。
皆、こういうときってどう答えを見つけて行くのだろう。やはり手探りだろうか。

あれやこれやと思い悩み、二人っきりの逢瀬の時に色気を醸し出しながらお誘いしよう。そう決めたはずなのに、私が道場で、まして修行の最中だなんて微塵の色気もないシチュエーションで誘いの言葉を口走ってしまったその訳。
修行で汗を流す扉間があまりにも、あまりにも男前で、恋する私にはこの上なく扇情的だったからである。
あんなに思い悩んだ時間は一体何だったのかと思えるくらいに、私は無意識に単純に彼を求めてしまった。
恋とは実る前も実った後も、失敗や無駄ばかりで中々うまくいかない。
私が並外れて不器用なだけかもしれないが。

「分かった」

扉間の声に私はようやく顔を上げられるようになり、そして乾いた唇でゴクリと息を飲む。まさかの、同意であった。
思いがけない台詞に今まであれこれと考えていたことなど、ぽんと一瞬で頭の中から消え去った。真っ白だ。

「今晩、お前の部屋へ行こう。覚悟を決めろ、俺とて男よ、」

もう収まりはつかんからな――と。
そう口にした扉間のその声音、表情、瞳。なんと表現すれば良いのだろう、わからない。わからないがこの胸の中の渇望を煽るような、とにかく艶っぽい色を灯していた。
私の知らない扉間のその姿に思わずゴクリと生唾を飲む。
不思議だ。まるで別人のような有様だったにも関わらず、恐怖や困惑なんてこれっぽっちも感じることはない。
ただ、無性に身体がしびれた。ませた言い方をすれば情欲をそそられた。つばを飲み込んだばかりだというのに嫌に喉が乾く。
火照った頬も早鐘を打つ心臓も、全てが扉間の「男」である一面に興奮している証拠なのだろう。
女に生まれたが故の性だ。本能でもある。こんなこと誰にも教わっていないし初めての経験だというのに、私も所詮人の子。そう思えば溢れる自嘲の笑みで、私の唇はようやっと弧を描くことができた。





それから夜が更けるまでの時間の長さ、そして恐るべき耐え難さと言ったらもう。

こんなに時の流れを遅く感じたことが今まであっただろうかと一人悪態をつきたくなるほどに息苦しく、それでも万全の状態で彼を迎え入れたいなけなしの乙女心で懸命に思いを巡らす。
身体を清めておくのは当然のこととして、化粧はどうすれば良いのだろう。
いつも通りしっかりと、いやそれではやる気満々のようで品がないのでは。
しかし出来ることなら少しでも可憐な姿であの人との初めてを迎えたい。
紅筆を手にとっては、やっぱり口紅はいらぬと筆を置き、いやいやでも唇の色は色気に重要だともう一度紅筆を持ち上げる。そしてまた口紅の必要性について思案。
まったく自分でも何を阿呆みたいなことをしているのだろうと思いはするが、こう慌ただしく動いてでもいなければ、羞恥心と緊張で爆発してしまいそうだった。本当に。

扉間は無駄な贅沢や華美をあまり好まないようだが、その無駄と無駄でないものの境界線は、恋仲である私でさえ図りかねる。
薄っすらと香を焚きしめた上着をさらり肩に掛け、部屋の真ん中で静かに腰を下ろす。
もちろんこの身体の後ろには、皺無くしっかり布団が敷いてある。
その様をちらりと横目で見遣れば、これから扉間とこの布団で睦み合うのだという生々しい事実を認めてしまい、私はあまりのいたたまれなさに鼻から細く細く息を吐き出した。

どんなふうに、扉間は私を抱くのだろう。
平素の有様のように冷静沈着に、淡々とことを進めるのかな。
それはなんとなく、嫌だ。私は胸がはちきれんばかりに興奮しているというのだ。
彼が淡々とあるのでは、私の独りよがりになってしまう。

――俺とて男よ、

ふと、先刻の扉間の台詞とあの姿が脳裏によぎる。
思い出すだけで、どうしようもなく身体の芯がうずくような心地がした。
あのような熱情的な様で抱かれたいと願えば―――なんとも良いタイミングで、カタンと音を立てる襖。

「…シッ」

緊張と喜びのあまり、やや大きな声で迎え入れようとする私を、扉間は瞬時に牽制する。慌てて口をつぐむ。
その顔は、夜這い相手のあまりの軽率さに、呆れ返りの表情を浮かべているのだろうか。
どうしても彼の表情を見たくてその姿を凝視するが、月の光が思いの外まばゆく目が眩んでよく見えない。

「と、扉間…だよね…?」
「その問いを俺自身が証明することは難しい。疑わしいというのなら、コマチがチャクラで感知して確認するのが手っ取り早いだろうな」

情緒もへったくれもない物言いではあるが正論ではある。
私はすぐさま感知能力で彼の様子を確かめ、そして目の前で物音立てずに襖をしめる男が紛うことなき扉間であることを認めた。
行灯の明かりがゆらゆらとうごめく薄暗い部屋の中、彼は私と程よく距離をおいて腰を下ろす。
馬鹿になった目がようやく慣れてまともに見えるこの扉間の顔に、何一つ乱れはない。いつもの険しい目元。

「…ようこそいらっしゃいました」
「畏まるな、気張って得することは何一つない」
「無理言わないでよ…落ち着けるものならとっくにそうしてる」
「そうか」

と答えながら至って平穏な様子で行灯の中の具合を確認している扉間に、自ずと私の胸がざわつく。
扉間の様子があまりにも平常通り淡々としていて、私は酷く落胆してしまった。
「もう収まりはつかん」と零しこちらを見つめた熱情色の扉間は、私の願望が生み出した幻か何かだったのだろうか。
期待に胸高鳴らせるあまり都合よく、扉間が私を切望しているように見えただけなのでは。
いや、そんなことだとは思いたくないが、しかし、目の前の扉間は私が期待していたような様子ではない。
もっとこう、彼もどこか恥じらいを浮かべながら熱っぽく私を求めてくれると思っていた。
私の知らない扉間を見れるはずと思っていた。
これではやはり私の独りよがりのようではないか。落ち着きなく準備にてんやわんや手間取った私が、馬鹿みたいだ。

途端、胸元に不安が溢れ返り、私はつい眉をひそめる。
からからに乾いた唇を軽く噛んで、何とか苦悶に耐えるため密かに息を吐き出した。

後悔したくない。しかし、どうすれば良いのかもわからない。


「扉間…!」

もう最善の方法をじっくり考えるだなんて大人びたことが出来る筈もなく、唐突に愛しの扉間の首へ腕を巻きつけた。
肩に掛けていたはずの良き香り纏う上着は、なんの役に立つこともなくパサリと畳へ落ちた。

「なんかもう、どうしたら良いかわからない。すごくすごく緊張してて、私、その…」

みるみるうちに燃えるような熱を持つ身体の感覚を厭わしく思いながら何とか声を出してはみたが、それ以上何を伝えたら良いのかも分からず、言葉は続かなかった。
扉間はやはり、何も言わない。もともとおしゃべりな人ではないし、沈黙を破ることを彼に期待するのは野暮だと、微かに残る理性でぼんやりと思う。
だんまりに耐え切れず、しかし頭がいっぱいで何も言えない私ができる事と言えば、扉間への抱擁に尚更力を込める位だ。
抱擁というよりは体当たりに近いかもしれない。それほどに突拍子もなく性急な私の行動で、この思いの丈をぶつける他、思いつかなかった。
気が狂いそうな緊張に呼吸は酷く乱れるが、音を立てながら呼吸をするのはあまりにも下品なように思えて、私は大急ぎで顔を彼の首元に埋めた。
すうすうと私が緊張しているさまをよく表す荒い呼吸音が、無理とは分かっていても扉間の耳に届かないことを願うしか出来ない。

「俺とて、緊張していないわけではないのだがな」

ようやく鼓膜に届いた扉間の声に、ハッと我に返り、埋めた顔を彼の赤い目へと向ける。

「お前の誘いには正直心躍った、男として当然のことだ」
「…!」
「コマチ、お前案外大胆なのだな。もうお澄ましに取り繕うのは止めだ」

と、次の瞬間くるりと呆気無く視界が転がる。彼に、ついに押し倒されてしまった。私の意に反しこの身体は横たえられたが、後ろには布団が準備してあったのだから当然痛みなどない。
上にいそいそと覆いかぶさる扉間は、布団に肘をつきながらその逞しい両の手で私の戦慄く肩を掴んだ。
上着をとっくに無くした、薄い襦袢しか身に纏わない私の身体に、彼の手のひらの温度が飛びきりに伝わる。熱い、とても。その温度は私の不安を彼方へ飛ばしてしまうには十分だった。

「今一度問う。良いのだな?これより先、後戻りは無しだ」

そう言う扉間の目が先刻とは打って変わった、射抜くように激しい情熱を秘めていたので私はつい視線をそらしそうになる。
そうだ、私の知らない、扉間の情熱的な一面。先ほどまであんなにも追い求めていたはずのその様。
いざ再び目の当たりにして、恥ずかしさのあまり逃げ腰になる自分。それを情けなく思う余裕すら、今の私にはないのである。

「扉間に抱いてほしいから、誘ったの。大丈夫」
「ならば良い。加減する余裕なぞ今のこの俺に期待できぬからな、十分覚悟しろよ」

そしてフッと嘲るように、しかしどこか楽しげに鼻を鳴らす扉間に釣られて、私も零すように口を綻ばせた。すぐさまその唇は、彼に奪われてしまったが。







「っ、…コマチ」
「扉間っ」

私の名前を呼ばう扉間のその声があまりに心地よく鼓膜を震わせるので、彼に応えたいと私もまた彼の名前を呼ばい。