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もうすぐ六月九日が終わろうとしている。時計の針の動きをぼぅと見つめながらもの思いにふけっていると、窓の外からカラスの鳴き声が聞こえた。真夜中の暗い部屋に響くカラスの声は恐ろしいほど不気味だ。柄にもなく恐怖を感じて隣で横になるイタチにぴたりとくっつく。彼の背に耳を寄せると、ひゅうひゅうと狭まった気管の苦しそうな音が私の鼓膜を震わせた。とても居た堪れなくなった。

「イタチ大丈夫…?息苦しくない?」
「…ああ」

と微かな相槌が聞こえた次の瞬間、イタチは身体を震わせて大きくせき込んだ。隣で聞いてるだけで心が掻きむしられる、突き上げるような酷い咳。いっそのこと現実から目をそむけるように耳を塞いでしまいたいとすら思うが、愛しい彼を裏切るようなことできるはずかない。上半身を起こした状態で未だせき込み続けるイタチを追って私も身体を起こす。その大きな背中を精一杯の愛情で上下にさすり、彼の容態を見守る。イタチは伸ばした右手で手ぬぐいを鷲掴み、口に蓋をするように宛がった。

やがて咳も収まり、イタチは長い睫毛を静かに下した。口から離れていく手ぬぐい。イタチは私から隠すようにすぐに折りたたんだが、色素の薄い布地によく映える赤い血は確かに私の網膜へ届いてしまった。私だって忍だもの。自分の血だって、赤の他人の血だって嫌と言うほど見る機会はある。今更なのだ。慣れっこなのだ。それなのに手ぬぐいにしみ込んだあの赤い血は何か別の、さらにおぞましく禍々しいもののような気がして。胸の奥を蝕む、縛り上げるような苦痛に自然と涙が滲んだ。

「何か飲む?…水とか持ってこようか」
「…」
「薬飲むんだったら、胃に少しでも何か入れたほうが良いでしょう。簡単なものなら今すぐ作れるけど…そうする?」
「いや。水も薬もいい」

…ありがとう、とそう呟いたイタチの声のもの悲しさ。儚げに憂いを帯びて揺れる瞳。

今まで騙し騙しに目を背けていたが、そのあまりに朧げな存在感に私の我慢はついに限界に達する。持てる愛情を全てぶつけるように彼の青白い唇へ性急に口づけた。吐血したばかりなのが憚られたのだろう、イタチは私の肩を押し返そうとしているがその力は強くはない。具合の悪さのせいで力が出し切れないのか、それとも私の愛情表現を拒みきれないだけなのか。他人の血を舐めて良い気分になれるはずもなく、思わずえづきそうなるのを必死に堪えながらイタチの身体に指をくいこませた。

「イタチ…愛してる、大好き」

背中を丸めつつも懸命に言葉を紡ぐ。なんとなく後ろめたくなって彼の顔を見る気になれず俯いていると、イタチの小さな笑い声が頭上から降ってきた。笑いが起きるような雰囲気ではないのに。不思議に思いながら顔をあげると、イタチは物柔らかな微笑みを浮かべていた。

「俺も愛してる」
「……知ってる」
「腑に落ちない表情だな」
「…」
「何かあるなら言ってごらん」

彼は穏やかな口調でそう言うが、私の胸の内を知ったらきっと気が気ではないだろう。唇をとじ合わせて逃げるように視線を逸らしてみるが、イタチはひたすらに私を見つめ続ける。言うべきではないと頭では分かっていながらも、やはり胸が苦しい。視線を寄越す彼に促されてしまったんだと自分に言い訳をしながら、ぽつりと声を出した。

「愛してるなら、ずっとそばにいてよ…」
「…」
「ずるいよ、イタチ…」

改めて口に出してみると、あまりに身勝手な言い様に反吐が出そう。今更襲い来る後悔に肩を竦めた。イタチの身体を掴む指から次第に力が抜け落ち、どうしよもなくなってその腕を下す。暗闇の中でも艶めくイタチの黒髪に視線を滑らせながら、どう弁解しようかと混乱する頭の中で考え込んだ。イタチに嫌われてしまったらどうしよう。我儘な女だと愛想を尽かされたかもしれない。……いいや。嫌われたからと言ってどうなるんだ。だってイタチはもうすぐいなくなる。いなくなったら、好かれていようが嫌われていようがそれっきりなのに。

イタチの呼吸の音が沈黙と共に部屋で響く。未だひゅうひゅうと鳴るそれの異常な音に尚更の後悔を煽られた。

「俺も、コマチの傍にずっと居たい」

私を宥めるために用意された気安め程度の言葉なのだろうか、ふと下衆な考えが目の前をよぎる。イタチの言葉を素直に受け止めきれない自分に嫌気がさして顔を顰めた。ただでさえ具合の悪い彼を追い込んで、気を遣わせてしまったんだ。あまりの自分の情けなさに虫唾が走り、半ば自暴自棄に乾いた笑い声を喉から絞り出した。

「あの、変なこと言って…ごめん。…おやすみ…」

そう言って彼から身を離し、ベッドに再び横たわる。タオルケットを必死にかき集め身体にかぶせた後で、彼と壁を作るように背を向けた。これ以上何もするべきではないと思い知らされたような気がして力強く目を瞑る。それでもちらつく罪悪感を振り払うことができず、苦痛に唇を噛みしめていると、隣でイタチがスプリングを軋ませた。イタチも横たわったのだと気づいたがこれ以上彼にかける言葉も見つからず、ただ黙ってその気配に耳を澄ませた。

「コマチ、」

耳元に寄せられた唇でそう呼ばれてしまうと、反応しないわけにもいかない。沈みきった暗い顔でのっそりと振り向く。温和な眼差しで私を見下ろすその瞳。果てしない闇と見紛う程の黒と長く繊細な睫毛に引きつけられて顔を火照らせれば、イタチは目を細めそっと私の額に口づけた。

「コマチの傍で、毎晩こうして眠りにつきたい」

しっかりとした口調でそう話し始めるイタチを戸惑いながら見つめる。

「お前を抱きしめながら朝目覚めることができるのならこれ以上の幸せはない」
「…」
「ああでも、コマチが朝食を作る良い匂いに目を覚ますのも良いな」

何をいきなり言い始めるんだ、と黙って彼に視線を向け続けていると、イタチは私の訝しげな表情に気づいたのか、小さく自嘲の笑みを漏らした。

「可笑しなことかもしれないが、笑わないで、聞いてほしいんだ」

その落ち着いた声音、真面目な面持ち。決して彼は冗談を言っている訳ではないのだとようやく理解する。首だけで彼を見遣るのは失礼な気がして身体ごとイタチのほうへ向けた。彼は先刻からずっと私の頭を柔らかい手つきで撫でていた。その心地よい感触に心も何もかもを絆されながら、真っ直ぐに向かい合って彼の言葉を待つ。

「コマチの作る卵焼きが俺は好きだ。二人で時間も気にせずのんびり、朝の食卓を囲みたい」
「…?」
「美味しい卵焼きがあるなら白米も欲しくなる。味噌汁もあったら尚良い」
「……イタチ」
「それだけで良いんだ。健康な身体で、コマチと他愛もない話をして笑い合いながら毎日たらふくの飯が食えるのなら」
「…っ」
「それだけで幸せだ」

その形の良い唇で紡いだ言葉が私の鼓膜を震わせ、心を震わせ、涙腺を刺激した。飾り気のなさ過ぎるこの台詞こそが、彼の思い描く将来なのだろうか。悪名名高い犯罪者とは思えないような、希望に満ち溢れる物言いだったそれ。所詮私たちは堅気ではないのだ。人並みの幸せを貪る権利ですら、持てるはずがない。

それなのにイタチは。私と。

「馬鹿ぁ…」

病に蝕まれ、いつ命の灯が消えるかもわからないイタチの身を考えると涙が止まらなくなる。うまく動かない口を何とかこじ開けて声を絞り出せば、イタチは困ったように苦笑いを浮かべた。彼の服を皺になるほど強く掴み、むせび泣きに身体を震わせる。悲しくて泣いているのか嬉しくて泣いているのか、わが身のことながら見当もつかない。

私はいつだって絶望しかない将来を嘆いてばかりだった。彼の弟にイタチをとられてしまったと思っていた。弟に殺されるという誓いを初めてイタチの口から聞いたとき、途方もない怒りがこみ上げたのを覚えている。どんなに私が彼を愛そうとも大事に思おうとも、イタチの末路の果てには彼の弟しかいないのだ。愛の言葉を掛けてもらっても嬉しくなんかない。床に臥せることが多くなったイタチを看病しながら、所詮報われない思いだという現実に何度も打ち負かされそうだった。

でも違う。彼の中には確かに私がいる。
普段から多くは望まないイタチからぽろりと零れた、素朴で武骨な夢。

「…ごめんなさいイタチ……ありがとう…っ」
「何を謝っているんだ?」

そう言って私の目元に優しい口づけを降らせるイタチの笑顔は、ここ最近目にすることができなかった、清々しいほどに明るい笑顔だった。その表情を目の当たりにした瞬間、心の奥のつきものがパンとはじけて消えた。零れた涙で濡れる枕はひんやりと頬の火照りを冷ましていく。私の絡まった髪の毛にイタチの指が入り込み、梳かすように上下にうごめいた。私は依然涙を流しながらイタチにされるがままに目を閉じている。やがて首元まで下りた彼の唇がこそばゆくて身体を捻るとイタチは申し訳なさそうに顔を離した。

涙を拭おうと目尻に指を滑らせてみれば、爪先に血がこびりつく。イタチの口元に残った血が口付けでついてしまったのだろう。構わない。血だろうが涙だろうがイタチのものなら何もかも受け止めてしまいたいとすら思った。

「イタチ、あのね」
「…ん?」
「ほんとうは、言うつもりなかったんだけどね、…でも」

治る見込みのない病に伏せ、そして近い将来弟のために殺されようとしている人間に祝福の言葉をかけようだなんて、先刻までは思えなかった。壁にかかる時計に目を凝らせば、針は間もなく頂点へ達しようとしている状態。イタチ、ありがとう。心からの慈しみを込めてその頬に手を添え、微かに揺れる睫毛をまじまじと見つると、イタチは驚いたように目を見開いた。あんなに眩しい笑顔を見せられたんだもの、今なら言える。弟に嫉妬の矛先を向けていた醜い劣等感も、将来に絶望していた暗い気持ちももう消え失せた。プレゼント代わりにあなたの素朴な夢を叶えることすら私にはできない。その病を治すこともできなし、その弟を止めることもできそうにない。だからせめて、愛おしいあなたに、わたしからの素直なお祝いの言葉を受け取ってほしいの。


「お誕生日、…おめでとう」





彼の誕生日は疾うに過ぎ去った。やっと眠ったイタチの身体に、今一度ぴたりと耳をくっつける。ひゅうひゅうと気管が狭まった苦しい音に微笑みながら涙を零した。

彼はまだ生きている。