花筏 | ナノ
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16. 花筏

か細く繊細な線と線が合わさるように、ぴたりと重なる大切な記憶。
全身をぞっと震わせるのは、紛うことなき明瞭な既視感。

思い出さずにはいられない。まるであの日の夜が再び訪れたかのような状況だった。あまりにも偶然すぎる衝撃に瞠目して呆然としていると、ふと、マダラの呼吸の音が聞こえないことに気がついた。数秒した後も一向に呼吸を再開しない彼を不審に思い、ゆっくりと顔を上げる。マダラは私へと顔を向けていたが、しかしその左目の焦点は私に定められていない。どこか遠く、宙をみつめるような漆黒の瞳が小さく揺れて───。


「……あの時……初めてお前を泣かせてしまった。オレは…嗚呼そうだ…酷く後悔した」


私はマダラに痛いほど強く抱きしめられながら愕然として固まる。今度は私の呼吸が止まる番であった。

「ま、マダ、ラ……思い、出したの…?」

何とか声を絞り出して問いかけてみたが、彼は依然として目の焦点が定まらない。眉を歪ませて混乱をありありと示しているマダラらしくないその様子に私は確信したーーマダラの記憶が今この瞬間戻ったのだ、と。

念願の瞬間であった。マダラに乱暴に頭を踏み潰されてから今日までただひたすらに願ったことであった。私の知るかつてのマダラを取り戻したい。もう一度会いたい。触れたい。彼の記憶さえ戻りさえすれば、全てが解決して幸せになれるのだと信じて疑わなかった。

だと言うのに。



次の瞬間。私は持てる全ての力を振り絞り、マダラの身体を押しのけ、腕を振り払い、そして洞窟の出口へと走った。ただただマダラから逃れたくてたまらず、弱った身体に鞭を打ち全力で暗闇の中を駆け抜けていく。

今マダラが記憶を取り戻して、彼は一体どうするのか。記憶がない状態でも病に伏せるこの身を哀れみ、「お前を救った事自体が間違いだった」とまで言って私を里に返そうとした彼。そんなマダラが記憶を取り戻し、私を気遣う気持ちを再び手に入れたとなれば──尚一層、私を里に返そうという意思を強めるに違いない。そうとしか思えない。死にそうなほどに弱ってしまった妻を私欲で引き止めて見殺しにするだなんて、イズナくんの死で果てしない絶望を経験した彼にはできない。だってマダラは、とてもとても優しくて弱い人なのだから。

私は幻術の石壁の元へたどり着き、いつもマダラがここで行うことを思い返しつつ印を結んだ。例えこの印を知っていようと私がマダラから逃げ出すことなんてないだろうと思っていたのに。遣る瀬無さに胸を痛めながらも結界と幻術が解かれたことを確認して、眩く光る出口へと駆ける。何日、いや何ヶ月ぶりか。久しぶりの外の世界に始めは目が眩むが、やがて慣れて辺り一面の様子が私の目に飛び込み、そして息をのんだ。

澄んだ空の清純な薄青と、泣きたくなるほど淡く優しい桃色。

山桜が美しい満開の時を迎えていた。体内時計を信じて冬の終わりだとばかり思っていたのに、予想よりも進んでいた季節に驚嘆する。しかしこのまま立ち竦んでいる暇はない。私はこみ上げる吐き気を無理に抑え込んで、桜咲く山道へと飛び込んでいった。



淡い桃色の花びらが、この弱りきった虚しい身体へと容赦なく降り注ぐ。嫌でも思い出してしまうのは、私にとって命よりも大切な、愛おしいマダラとの日々。私とマダラの思い出にはいつだって桜が添えられていた。

マダラの視線を感じて一丁前にときめいた幼いあの日も、両思いになりたくて心臓が爆発しそうになるまで縋った若い日も、結婚を反対されて将来を悩みながらマダラに永遠の愛を誓った日も、イズナくんを失った悲しみに溺れるマダラへ寄り添った日も、狂気に誘われるマダラを引き留めようと言い争った日も、そしてあの──春に挙げた幸福な祝言の日も、すべて。

花びらが舞う中を走れば走るほど、愛おしい日々が脳裏で色鮮やかに蘇った。止まっていた涙は再び溢れ、花びらと共に地面へと落ちていく。込み上げる嗚咽をどうすることも出来ず、両手で乱暴に涙を拭いながら懸命に走り続ければ、突如木々が減り、視界が開ける。

あまりにも一生懸命で水のせせらぎの音にすら気づかないとは。我が身の情けなさに拳を痛いほど握り、そして足を止めた。雄大に流れゆく川を前に私は己の身の限界を察してしまった。この川を飛び越えていくほどの力はもはや残っていない。諦めの境地に至ってしまえば、身体からみるみる内に気力が失われていくのが分かる。ひゅうひゅうと苦しげに音が鳴る胸を抑えて不快感に悶えていると、川に数多の桜の花びらが流れる光景が目に入る。その花筏のあまりの美しさに唇を噛み締め、無力にがくりと頭を垂れた。

「もう、あなたに助けられてから一年も経ってしまったのね」

私が少し大きめの声で語りかけてみれば、すぐさま少し後ろに人が着地する音が聞こえる。がむしゃらに逃げてはみたが、あの忍の才に恵まれたマダラから私なんかが逃げ切れるはずがなかった。わかっていた。まして私は弱っているのだから尚更だった。しかしそれでも身体は勝手に動いていたのだ。無駄なことだとわかっていても、私の必死の抵抗でマダラが考え直してくれる可能性が僅かにでも存在するのなら、それに縋るほかに手段はなかった。

マダラは私に追いついたっきり、何も言葉を発しない。私は何とか息を整え、彼に背を向けて花筏を見つめたまま乾く唇を動かした。

「せめて許されるのなら、」

弱々しくかすれる声を懸命に絞り、マダラに語りかける。

「最後に全てを知りたい。二人で過ごした一年間に、あなたが思っていたこと全部。私の記憶がなかったマダラが、死にかけていた私の命を助けて洞窟に連れてきた理由も、私をどう思っていたのかも、何もかもを知りたい。…お願い」

温かく穏やかな風にかき消されてしまいそうなほど頼りない声しか絞り出せなかったが、マダラに届いただろうか。後ろへと振り向いてマダラと面と向かいたい気持ちもあるが、しかし向かい合ってしまえばいよいよ記憶を消されることを受け入れてしまうような気がして、私はすっかり身動きが取れなくなっていた。もはや今の私にはただ静かに彼の反応を待つことしかできず、しばらくの沈黙の中ぼうっと流れる花びらを眺めていると、ようやくマダラが口を開いた。

「一年前のあの日、目の前で血まみれで倒れるコマチを見て、一瞬胸が掻き毟られるような心地がした。うちはの家紋を背負い倒れる見知らぬ女というだけでも興味はあったが、あの刹那感じたそれは、興味だけで片付けられるような単純なものではなかった」

もっと簡潔にそっけなく返事をするだろうと思っていたのに、マダラは長く語り始める。これから全てを教えてくれる、全て知ることができる喜びを感じる反面、普段多くは語らないマダラが饒舌になるその意味を悟ってしまえば唇を噛みしめる他ない。

「オレはお前を洞窟へ連れ帰り、手当をした。不明瞭な記憶を補完したいからだと自分を納得させてな。意識を取り戻しオレの妻だと縋るコマチを見て、記憶の鍵としての興味はさらに湧いたが、しかしそれ以上にオレはお前自身の存在に惹かれた」
「…」
「可笑しなものだな。写輪眼を使ってまで己の記憶を消したというのに、その目つきも、声も、振る舞いもお前の何もかもがオレを魅了する。だがあのときのオレはそれが何故なのかわからず、性欲を持て余しているだけだと思って無理やりお前を組み敷いて身体の関係を結んだ。いくら交わろうとも、お前を求める気持ちは失せなかったが」

振り返ってマダラと向き合い、マダラがどんな表情で胸の内を吐露しているのか見てみたい。マダラに頭を踏み躙られ、望まぬ交合を迫られ、ただ疎まれ軽んじられているとばかり思っていたというのに。それがこんな真実を、あの物悲しい空虚な瞳の奥に隠していたなんて。なんて彼は哀れで卑怯なのだろう。

「もはや理屈では表せないこの感情が、どれだけ俺にとって疎ましく、理不尽で不快であったかお前には分かるまい。だが今思えば何もかも自業自得だ。俺は自分の強い意志で記憶を消した」
「私を、守るためでしょう」
「…先刻までオレ自身もそう思っていたが、真実は違う」
「…え?」
「ただ、お前の愛から逃げたかっただけだ。否応なしに脳裏に蘇る愛しいお前との輝かしい日々が、今のこのオレにはあまりにも重荷だった。お前のためではない。オレはオレだけのために、オレの精神を守るためだけに記憶を消した。どうだ、あまりにも女々しく情けなさ過ぎて笑えるだろう」

マダラはそう言って嘲笑を己に向けたが、私はそんな彼の様があまりにも悲しくそして哀れで、涙をぽたぽた流したままやるせなく目を伏せた。どれだけ月日を重ね立場や性格が変わろうとも、マダラの弱さはそのままであった。ずっとマダラに愛されていた事実を知った今ではただただ、そんな繊細な心と釣り合わないような強大な力を背負ってしまった夫を、彼の命尽きるまで支えていきたかったとひたすらに思う。

「お前を助けさえしなければ、この一年間オレはきっと心乱されることもなくあの暗がりで静かに暮らせたのだろう。だが、度々ふと思う。あの日偶然あの場を通らなかったら、もう少し到着するのが遅かったら、お前はあの場で血まみれの中ボロ雑巾のように憐れな姿で死に絶えていたはずだ」

マダラはそこまで早口で零した後少し間を置き、そしてどこか戸惑いがちに、か細く言葉を紡いだ。

「その場面を考えると、オレは今でも、気が狂いそうなほどに怖くなる」


ほんの少し、微かではあるがその声音は震えていた――。

そんな儚い夫の声を鼓膜に受け取ってしまった瞬間、私の身体は衝動的にマダラへと振り返り、駆けて、そして勢いよく彼の胸へと飛び込んだ。

私はかつてマダラから愛されていたことを思い出し、そして今この瞬間も尚愛されていることを知った。小さい頃もマダラが里からいなくなるまでも、そして再会してからこの一年間も、マダラは私を愛してくれた。一度はこの手からこぼれ落ちたものが、淡く息づいている。確かに私たち二人の間にある。それがどれだけ私にとって尊い宝物か。どれだけ大切なものか。どうすれば愛おしく哀れなマダラに、ありのままのこの胸の想いを伝えられるのだろう。

写輪眼を見ないようにと顔をそらしながらも、大きく逞しい彼の腕の心地を懐かしんでまた涙は私の目から溢れた。

「知ってる、知ってるよ。マダラが人一倍寂しがりやで、情にもろくて、愛情深いこと」

もうこれが最後であろう愛おしい人の温もりをひたすらに感じながら、詰まりがちな声を必死に絞り出した。

「なのに全てを捨てて、再会できた伴侶の記憶すらも消して、そしてまた一人ぼっちになって、それでもこの世に生き続けるその意味は、なに…?」

さああ、と穏やかに春の温い風が二人を通り抜けた。川の流れる音は嫌味なほどに清らかでのどかだった。先刻まであれほど饒舌だったというのに、待てども待てども今回の私の問いに答えようとしないマダラ。

答えられないという事実こそが、私とマダラの関係の全てなのだと、そう悟った。マダラが私に愛情を感じていることは確かだが、しかし信頼はされていない。彼の心の拠り所になるには、私はあまりにも非力であまりにもちっぽけだった。これから全ての記憶を消し去るというのに、最後に真実を全て教えてはくれないのは、きっとそういうことなのだ。

「ねえお願い、お願いだから消さないで。恥ずかしかったことも辛かったことも、喜んだことも悲しんだことも全部、ぜんぶ…私の大事な思い出なの。私からもうこれ以上大切なものを奪わないで。マダラに愛されていたことを覚えたまま、この幸せの中で死んでいきたい」

ただただ悔しくて歯を食いしばりすすり泣けば、涙は私の頬を伝い、そして桜の花びらと共に地面へと落ちていく。こんなにも近いのに果てしなく遠い存在だと思えば、彼にすがる手には尚一層の力がこもった。出来ることならば永遠に彼を抱きしめたままでいたいと思うも、無慈悲にマダラの両手が私の頭部を捕らえた。私の顔を上へと向かせようとしていることに気づいて、無意味な抵抗だとは思いつつも慌てて固く目を閉じる。


──しかし。唇に燃えるように熱く柔らかい感触。


息が止まる。初めはのうちは一体何をされているのか分からなかったが、口付けされていることに気づいて身体は自ずと強ばった。深く重なろうとするマダラの唇を拒むことなど今の私にはできず、みぞおちを細糸で締め付けられるような心地のまま、貪るような熱い口づけを受け入れる。

情熱的に唇を翻弄されながらも、マダラは一体何を思って私の唇を奪ったのだろうかとぼんやり考えてしまう。妻との別れを惜しみ、最後に触れ合いたかったのだろうか。こんな熱く熟れたような口づけを今更してみても、何も形として残らないというのに、マダラも感傷的になっているのだろうか。

最愛の人との口づけだというのに、私の心を襲うのは喜びなどではなく、果てしない悲しみと虚しさだけだった。この口付けがどれほど続くかはわからない。しかしそれが終わってしまえばきっと次は――いよいよ別れの時が間近に迫ったのだ。そう察してしまった私は縋るようにマダラの唇の感触を胸に刻み、少し迷い、そして───。





ドン、と。

この病に冒された身の全ての力をこめて、彼の胸を押しのけた。今こそマダラが一番油断している時だと理解してとった行動は、未だ諦めきれぬ逃亡だった。マダラとの記憶を失ってしまったら、私はもはや私ではなくなってしまう。そんなもぬけの殻で生きていくくらいならば死んだほうがマシなのだ。美しい花筏を抱く清らな川に、このまま身を投げよう。きっとマダラはすぐに私を引き上げるだろうが、しかしこの満身創痍の身体には未だ冷たいであろう川の水はかなり堪えるはず。そのままうまく溺れるなり衰弱するなりして絶命してくれる可能性にかけるしか、もう他に道はない。

だが誤算だったのは――突然強い目眩に苛まれたこと。

立っているのがやっとなほどの強烈な目眩とマダラを強く押しのけた反動が合わさり、予想以上に後ずさりしてしまったその瞬間、崖を踏み外し身体が後ろへと倒れる。ひゅっと自分の意志に反してあっけなく落ちていく感覚にわずかに心乱され、私は図らずも閉じていた目を開いてしまった。

――視線が絡まる。愛しい夫の、ずっと昔からよく知る、あの赤い瞳。



目から脳をぐちゃぐちゃに掻き回されるような惨い感覚。写輪眼の術中に堕ちると共に意識が無情に遠のいていく。

私に瞳術をかけたマダラは、珍しく狼狽の色を顔に浮かべながらこちらへ腕を伸ばしていた。大きくたよりがいがあって大好きな手だった。私を守り、導いてくれてその手を、もう握ることはできない。私が死んだとしても、生き延びたとしても、もう二度と私達は言葉を交わすことだって視線を交わすことだって出来やしない。これで一生のお別れだ。


「コマチ…ッ!」


落ちる、ああおちていく。声を出そうとしてみても、喉からは何の音も絞り出せない。その声に応えたかったのに。
でも最後に私の名を呼ぶ貴方の声が聞けて良かったな。

ねえマダラ。あなたは明日からどう生きていくの。
またあの暗い洞窟でひとりぼっちで、長い長い時間を過ごしていくの。

洞窟暮らしで手に入れられる食料なんて限られているけど、ちゃんとご飯を毎日食べてね。健全な心身をたもちつづけるために、しっかり太陽も浴びてね。何が生きる目的かはわからないけど、ただただマダラが健康に長生きしてくれれば良いと思う。

全部記憶を消してしまうから無駄な一年だったかもしれないけれど、でも、最後に私にかけがえのない思い出を授けてくれてありがとう。私を妻に選んでくれてありがとう。私のこと好きになってくれてありがとう。ずっと一緒にいてくれてありがとう。


──ほんとうにありがとう、マダラ。

─ずっとずっといとしい、だいじなひと。


─。