花筏 | ナノ
13. はなかげ

イズナくんの葬式を終えてから、屋敷にはずっと線香の香りが漂っていた。こうして庭に出て井戸から水を汲む時ですら、身体に染み込む線香のにおいが鼻につく。線香の煙が肺に入り込む度にイズナくんを失ってしまった事実を突きつけられるようで、深い悲しみが底をつくことはない。桶の水へそっと手を浸した後空を仰ぎみて、その途方もない青さに恐怖を感じ背筋が冷えた心地がした。秋の空に、紅葉を迎えた町の木々が映える。こんなにも穏やかな昼下がりだというのに。

指の隅々まで纏う冷水の心地よさだけが救いだった。こうしていると、たまらなく落ち着く。大切な二人の目を抉り出すおぞましい感触ーーイズナくんの死後私が行った眼球の移植手術、その際のあの感覚を忘れられるのは、こうして手を洗っている時だけだ。

これでも医療を得意とする一人前の忍であるというのに、我が身の情けなさに嘲笑が溢れる。血なまぐさい戦場で戦い、味方の治療に駆け回り、数々の悲惨な現場を私は間違いなく経験したはずだ。それなのにどうしてもあの手術の感覚だけは未だ私の脳裏に焼き付いてこの身を蝕んでしまう。

死を覚悟したイズナくんの遺言。直々に手術の執刀を私に指名したあの時の、イズナくんの力ない悲哀の笑顔。事切れたイズナくんを目の前に悲しむ暇もなく、眼球の劣化が始まる前に一秒でも早く移植しようと、マダラに麻酔をかけ、道具を傍らに用意し、手を徹底的に消毒して、そしてマダラの眼球にーーー。



ハッと気がつけば、私は指一つ動かしていないというのに呼吸が乱れていた。紛うことなき胸の苦痛を感じ、私は嫌な記憶と感触を振り払おうと大きく頭を横に振った。

いつまでもこうして物思いに耽っている場合ではない。今日も一人部屋の中で佇む夫のことを思えば、このままでいることは許されなかった。私は今まで手を浸していた水を早々に土へとぶち撒け、新たに井戸から水を汲みなおす。桶にたっぷりと溜まった水を覗き込めば、覇気のないげっそりとした情けない顔が映った。駄目だ、こんな顔をしてマダラの前に出ては絶対にいけない。私は肺いっぱいに新鮮な外気を満たし、渡り廊下へと一段踏み込んだ。



一歩、また一歩と廊下を進んでいくごとに緊張で身体が自ずと強ばっていくのが分かる。夫婦の自室に近づくほどに辺りに漂う空気が張りつめていくような気がした。それでも当然歩みを止めるわけにもいかず、桶の水を零さぬように慎重に静かに廊下を進んでいく。いよいよマダラの待つ場所へとたどり着いた頃には、私の唇はすっかり潤いを失っていた。

「マダラ、いい…?」

控えめに障子の向こうへと語りかければ「ああ」と簡潔な返事が聞こえた。その場に膝を付き、桶を床において座ったまま障子を静かに開ける。その向こう、部屋の中央でぽつんとただ静かに座り込むマダラはこちらへと顔を向けるが――幾重にも巻かれた両目を覆う包帯が痛々しく、私はその姿を直視することができなかった。

移植した目が馴染むまでの短い期間とは言え、包帯で完全に視界を遮られた生活はさぞ辛かろう。優秀な忍として視覚以外の感覚が優れているマダラだがそれでも完全に視界が遮断された今の状態は辛いようで、こうして自室か自室の前の庭で佇んでいることが多かった。身体が鈍っていくのが恐ろしいのか、安静にしててと言う私の言葉も聞かずたまに筋肉鍛錬をしていることもあるが、長続きしないところを見るとマダラは相当参っているようだった。

参っている――目が使えないこともそうだが、何よりもきっと大事な兄弟を亡くしてしまったことが、今のマダラにとっての憂いだ。唯一無二の大切な、血を分けた弟。ついに迎えてしまった四度目のかけがえのない存在の喪失。一人残されてしまった彼の悲しみは、きっと私が想像するよりもずっとずっと、遥かに深いのだろう。身体的にも精神的にも苦しみ続けるマダラに寄り添うことしか出来ない自分が、たまらなくもどかしかった。こうして甲斐甲斐しくマダラの世話をしていたって、彼の悲嘆を和らげることは出来ない。これっぽっちも助けになんかならないし、どうすることもできない。そうとは分かっていても今の私にはその悲哀に満ちた背中に寄り添うしか――彼の世話に縋り付くことしか出来ないのだ。

「…包帯を取り替えましょう」
「頼む」

桶とともに部屋に入り、静かな部屋にカタンと音を響かせながら障子を閉めた。そっと彼の直ぐ側へと桶を置き、私は棚においてある薬箱を取ってこようと立ち上がる。

「今日は綺麗な秋晴れよ」
「ああ」
「桜の木の葉もすっかり色あせちゃって…いよいよ秋めいてきたのね…」
「今朝はかなり冷えたからな。見えずとも、季節が移ろいでいくのがよく分かる」

何気ない世間話にマダラが応えてくれたことに安堵を感じながらも、そんな胸中を悟られぬよう淡々と会話を続けていく。イズナくんを失って間もないころの、深い悲しみに飲み込まれたマダラの様を思い出せば、こうして私とお喋りをしてくれるだけでも大きな進歩だった。私は取ってきた薬箱を座卓の上へと置き、そしてマダラの傍へと腰を下ろした。マダラが私の気配を探るようにこちらへと顔を向けた拍子、揺れる彼の前髪。私はそっと手を伸ばし、その前髪を彼の右耳へと掛けた。

彼の後ろへと手を回し、するすると包帯を解いていく。それほどきつく巻いてはいなかったがやはり圧迫感があったのか、マダラは細く長く口から息を吐き出した。

「もっとゆるく巻いたほうがいい…?」
「いや、これでいい。ずり落ちたりしたら困るからな」

そう、と小さく応えながら、使い終わった包帯をまとめていく。すると部屋の外、廊下の向こうから人の気配を感じ取る。一族の者の気配だ。マダラも同じように察したようで彼はすぐさま腰をあげようとしたが、私は小さく「私が出る」と伝え代わりに立ち上がった。マダラが大人しく再び胡座を組んだのを見届けたあと、気配がこちらに到着するよりも先に部屋から出た。

「ああ奥方様」

少しやつれてはいるが、真摯さを醸し出す面持ちは変わらないこの男。まだ若いながらも優秀なうちはの忍である彼ーーヒカクは私の姿を見遣り、一つ頭を下げた。

「マダラは今お休み中です、急ぎの用事でないのなら私が伝えます」
「…」

私の言葉にヒカクは少し困ったように沈黙のまま息を呑む。言葉に詰まった彼の様子に、これから知らされるのは良い話題ではないこと、そして更にそれがマダラではなく私へ伝えなくてはならない用事であることを察してしまい、私は憂いのままに唇を噛んだ。

「…奥方様、失礼します」

ようやく言葉を発したヒカクは、突然漆黒の瞳を写輪眼に変え私へとまっすぐと視線をよこした。一瞬驚きはしたが、賢く忠誠心の強い、マダラが心の底から信頼できるヒカクのことだ。何か意図があって写輪眼を使うのだろう。私はすうと鼻から細く息を吐きだした後、素直にヒカクと視線を絡ませた。

途端、足元が崩れ落ち、ぐわんと世界が回る感覚ーー私は彼の作る仮想世界へとその意識を飛ばされた。


ーもう無理だ、絶対に勝ち目なんてないー
ーなぜマダラ様は、降伏する覚悟を決めないんだ!ー
ーマダラ様が長である間は、負け戦が続くだけだ。それならいっそマダラ様を…!ー


ああ。なんてこと。
底知れぬ深い絶望感。やけに目眩のする私の前で広がったのは、ただただ無念の光景であった。ひと目を憚りながらも口々にマダラへの不満を吐き捨てる男たちは、紛うことなき見知ったうちは一族の者であった。彼らの声音から漂うひたすらに濃い闇は、嫌でも私の胸へと流れ込んで心を締め付ける。

ヒカクの見せるこの光景は、きっとヒカクが目撃してしまった場面を再現したものだ。泣き言から始まりついには謀反を匂わせるような物言い。当然ヒカクは上へとこの出来事を報告する必要がある。そうーー最愛の弟を失ったばかりで傷心の、あのマダラに伝えなくてはならないのだ。

再び強い目眩を感じた。ふと気づけば私の意識は現実世界へと舞い戻っていた。

眼の前のヒカクの神妙な面持ちーーそれは「どうしましょう」という私への問いかけをありありと示していた。ヒカクは障子の向こうのマダラに知られないように私へこの出来事を知らせるため、わざわざ写輪眼の幻術を使ってくれたらしい。いささか乱暴ではあるが、音を発さず、そして的確に物事を報告するには良い手段であることには間違いない。彼の気遣いに感謝の気持ちを感じるが、しかし「ありがとう」の言葉一つ言おうにも、私は半開きの口から声を発することができなかった。ありありと困惑を呈する自分を認め、戸惑いに視線を揺蕩わせた。しかしいつまでも沈黙を長引かせるわけにはいかない。おそらく隣の部屋で私とヒカクの会話を聞いているであろうマダラが不審がってしまう。私は軽く目をつむり、冷静になろうと静かに、しかし大きく肺に空気を満たした。

「警戒を、怠らぬように。今の状態で事を大きくするのは得策ではないと判断します。まさか万が一にもこちらが負けることはない、大丈夫だとは思いますが、それでもあちらの様子だけはしっかり把握しておいてください」

はっきりと対象を示さないを曖昧な台詞だったが、優秀なヒカクは十分に私の意図を察してくれただろう。私からの言葉を聞いた途端に、ヒカクはいつものよう引き締まった表情でただ「はい」と了解の意を示した。それから後は何も言わず、再び深く私の前で一礼をする。頭を上げた彼と一瞬視線が合い、私は彼への信頼を示すように深くゆっくりとうなずいた。すぐさまその場から立ち去ったヒカクの背中を見つめながら、私は胸の内の悲壮感を確実に追い出すように長く静かに息を吐き出した。できるだけ早く、動揺を悟られないようマダラのもとへ戻らなければ。冗長なため息も終わった頃、私は覚悟に口を固く結びながら今一度障子を開け放った。

「うちはの集落の周りで、不審な気配があるって報告。巻物に長々と報告がまとめられていたけど、まあでも、千手一族の者の気配ではないみたい。こっちの一族の戦力が弱まってきたのを期に攻め込もうとする輩が他の一族にいるんでしょうけど、でもまさか、うちは一族が負けるわけないわ」
「…」
「ごめんなさい、マダラの意見も聞かずに私の独断でヒカク達に警戒を厚くするように指示したけど、どうかしら」
「…その判断でいい。気を使わせてすまないな」

さらりと大嘘をつきながらも私はマダラに不審がられぬよう、途中のままであった包帯交換に手をつけた。何食わぬ顔で軽やかに手ぬぐいを水で浸し彼の目元を拭きながらも、マダラに嘘がバレてはいまいか内心は焦燥感にはらはらしていた。

大丈夫だ。皆マダラの戦闘力がどれほど桁外れか知っている。口では謀反を示しながらも、実際に行動に移そうとする馬鹿はいないだろう。今は視界が奪われているとは言え、マダラが本気を出してしまえば一族の野郎たちが束になってこようとも敗北はありえない。マダラを討ち取ることがどれほど非現実的か、私達うちは一族の人間ほどよく理解しているのだから。

だからマダラには今回の報告は隠しておきたかった。ただでさえ心労が大きいというのに、これ以上彼の悩み事は増やしたくない。こんなふうにマダラを庇おうと平気で嘘をつく私を知ったら、彼はその人一倍ご立派な自尊心を傷つけられて「俺を馬鹿にするな」と激怒するだろうか。しかし、今マダラを労り守るのがうちは一族頭領の妻である私の責務、なのだと思う。いやあるいは偽善。独りよがりの思いやりなだけかもしれない。本当はこんな気遣い、必要ないのかもしれないーー。

ぐるぐるととりとめのない考えが、このちっぽけな頭の中で巡っている。私の胸中とは真反対の、のほほんとした小鳥のさえずりが外から聞こえた。マダラも私も何も言葉を発さず、沈黙に気まずさを感じはするが、私は努めて平静に振る舞わなければならない。清潔な手で彼の目の様子を丁寧に観察した後、私は新しい包帯を手に取り、さあ巻きなおそうとしたーーその瞬間。

「ああ…よく見える」
「マダラ…」
「よく見えるぞ…イズナ…!」

ぎょろりと蠢くのは深い漆黒の瞳。ああもはや懐かしさすら感じる、イズナくんの目。

突如目を見開き性急にあたりを見渡すマダラの姿を目の当たりにしてしまった瞬間、私の包帯を携える手は途端に力なく垂れた。

「見える…見える…ッ」

なにか感情を噛み締めるような堪えるような声音で、彼は頭を右へ左へ忙しなく向けながらこの部屋の様子を一つ一つ目に焼き付けているようだった。生気と光を取り戻したその眼球は、不気味な程にぎょろぎょろと依然うごめいている。私の許可なく勝手にまぶたを持ち上げ視界を取り戻してしまったマダラを、本当は咎めなくてはならない。しかしこの無邪気な子供のような喜びよう。マダラの目は移植前から大分視力が落ちていたのだ、それが今なんの陰りもなく明瞭にこの世界を見渡せるようになった。それはそれはこの上なく嬉しいはずだろう。


それが何故。どうしてマダラはこんなに、悲しい笑みをその愛おしい顔に浮かべているのだろうかーー。




「……どう?目に痛みとか不快感はない…?本当はもう少し安静にしてなじませておいたほうがいいとは思うけど、マダラが大丈夫ならもう…」

あえて事務的にマダラに話しかけようと障りない言葉を紡いでみるが、しかしその声は震えてしまっていた。目前の夫ーー歓喜と嘆きがぐちゃぐちゃに入り乱れたような得も言われぬ笑顔のマダラが、あまりにも痛ましく気の毒で仕方がなかったからだ。

今は亡きイズナくんのその目によってついに視力を取り戻し救われるだなんてあまりにも皮肉だ。様々な文献を読み漁り、思いつく限りの治療を施し、どんなに手を尽くしてもマダラの視力を回復させる方法は見つからなかった。いつか訪れるであろう失明という恐怖を晴らしたのが結局は最愛の弟の死だなんて、マダラにとってはただただ無念だろう。しかしそれしか手段はなかった。彼の眼球は数多の戦いの中で酷使され、もはや失明間近だった。あまり時間の残されていないマダラは、その方法を受け入れるしかなかった。だって彼は、どんな手を使ってでも千手柱間に勝たなければいけないのだ。

「…コマチ、見ろ。もう失明に怯えることはない。この目があれば、もう怖いものはない…!」
「そう、ね…」
「これでやっと、あいつと対等に戦える。柱間を、この手で打ち負かすことが出来るんだ…!!」
「……、まだしばらく部屋の中で目を慣らしてて。外は明るすぎるから。ちょっと桶に新しい水汲んでくるね、すぐ戻るわ」

不自然にこの場を立ち去ろうとする私の声は、きっと彼に聞こえてはいないのだろう。それならそれで都合がいいと、私は興奮したマダラの姿から目をそらしたままそそくさと桶とともに部屋を出た。哀れ。その一つの単語が、障子を閉めた途端に頭を埋め尽くす。悲しみも喜びも隠しきれないまま、新たな目に勝利を誓うから元気なマダラも、そしてそんな彼の様を見ていられないと部屋から逃げ出す私も、何もかもがひたすらに哀れだ。

渡り廊下をずんずんと早足に進む私にとっては、秋の爽やか風ですら疎ましい。乱暴な歩みのせいか、ちゃぷんと桶の縁で水が跳ね返り、僅かだが床に水をこぼしてしまった。木目の上にぱたぱたと無情に広がる水たまりーーそれをこの目で認めた瞬間、私の中で張り詰めていた心の糸は弾けるように切れた。

「…マダラ…イズナくん…!」

本人達に届くはずが無いというのに、助けを求めるようなすがる声で大切な二人の名前を呼ぶ他なかった。そうでもしなければ、腹の中でここ最近膨れ上がり続ける漠然とした恐怖に体中を飲み込まれてしまいそうだった。

一族の多くの仲間を失い、戦力を大きく喪失し、仲間からマダラへの信頼は揺らぎ始め、謀反まで思いつめる者も現れ、そしてイズナくんを失った。
途方もなく積み重なった不安の最中、マダラが視力を取り戻したという出来事は喜ばしいことなのだろう。しかしあんなマダラの姿ーー間違いなくまともな精神状態ではなかったあの様子を目の当たりして私は悟ってしまった。破滅だ。紛うことなき破滅の影がマダラの向こうに見えてしまった。

一族の頭領の妻として、そして愛おしい夫の伴侶として、マダラの勝利を信じなければいけないと頭ではわかっている。わかっているというのに、何故かマダラを失う恐怖が脳裏で絶えずちらつくのだ。

イズナくんを失いそしてマダラまで失ってしまったとしたら、私はこの虚ろで血まみれな世界の中どう生きていけば良いのだろう。誰も見ていないのをいいことにその場で膝から崩れ落ち、怯える幼子のように身体を小刻みに震わせた。怖い、怖い。ただひたすらに怖い。助けてよイズナくん。

穏やかな秋の昼下がり、床にこぼれ落ちた冷ややかな井戸水は、私の灰色の着物へと無情に染み込んでいくのだった。