14. 激憤 久しく外に出ていないが、体内時計の感覚を信じればきっともうすぐ冬も終わるころではないだろうか。ぼんやりと時の流れを思い描き、淡い桃色を恋しく思っていると、突然腹からこみ上げるいやに熱い何か。私は悪寒で震える身体を起こし、急いで傍らに置いてあった桶を抱え込む。ここ最近幾度となく繰り返していることとは言え、やはり嘔吐はつらい。しずかに胃の中のものを桶へぶちまけたが、身体は全くと言っていいほど軽くなってくれない。吐き気がおさまった後も身動きを取る気にならず、ただぼうっと桶を抱えながら寝台の上に佇んでいると、マダラが私の異変に気づいたのか向こうからやってきた。その手に持っていた水入りの杯を渡されるが、それを飲み下すことすら躊躇われて、私は小さく首を振った。 「辛いか」 「とりあえず吐き気はおさまったから大丈夫。水は後で飲むから、そこに置いておいて」 そしてそっと寝台の横に置かれた杯から、控えめにちゃぷんと音が響く。相も変わらずこの洞窟は冷ややかな静寂に包まれていた。 「ここ最近のお前は一気に弱った。ひどい顔だぞ」 言われなくてもわかっている。手を顔へ添えてみれば、頬肉はげっそりと痩けていた。顔色だってきっと悪いのだろう。もはやすっかり生気を失ってしまった我が身を思えばマダラの言葉になんと返事をしていいのかもわからず、栄養の行き届いていない頭でまたぼうっとしてしまう。 何故だ、私の身体は何故良くならないのだ。しかしどんなに考えあぐねても己の身が答えくれるわけもなし。私は為す術もなく無常にも日に日に弱っていってしまった。明確に体調不良を自覚した秋の日から確実に衰えてしまった身体にただひたすら恐怖を感じる。が、もはや恐怖に悩み怯える体力すらも私には残っていなかった。食事をしても戻してしまうことが多く、いよいよやせ細っていくその様に、さすがのマダラも不安を覚えているようだった。少なくとも私のことを案じてくれるくらいには私の存在を大切に思ってくれているーーそんな呑気な考えにうつつを抜かしてでもいなければ、もはや正気すら保てそうにない、そんな過酷な状態であった。 別に、特別生き長らえたいとは思っていない。もともとあの日、命尽きるはずだったこの身体。目前まで迫った死という現実が、少し遅れて再び訪れただけということ。達観しているわけではない。未練がないとは決して言えなかった。もっとマダラと二人この洞窟で暮らしていたかった。もっと愛しい彼と共に、若かりし頃のような淡い恋心を噛み締めていたかった。せっかくマダラが私に気を許し、歩み寄ってくれるようになったというのに、これでおしまいにしてしまうというのは後ろ髪を引かれる心地だった。 しかし、もうこの体では駄目なのだ。日々なんとか食料を得て生きるだけでも必死の生活の中、こんな重病人が彼の足を引っ張ってしまうことは火を見るよりも明らかである。マダラの足枷になってまで生きるくらいならば、いっそ潔く散ってしまいたい。 「ねえマダラ」 私の嘔吐物をかたして戻ってきたマダラに放ったのは、かすれた情けない声音だった。しかしマダラはしっかりとその黒い瞳で私を捉えてくれる。 「もう覚悟は出来てる。いつでも、殺めてくれていいから」 私の小さな小さな呟きのような言葉を聞いたマダラは、一瞬だけ眉を寄せた後しばらく何も言わず目を伏せた。その愛しい下がりがちな睫毛を、私は小さく震える身体でただぼんやり眺めていることしかできない。もしかしたら私の命もあと数秒で終焉を迎えるのかな、なんて他人事のように能天気な思案を続けていると、マダラが大きく空気を肺に満たす音が聞こえた。 「お前を、里に戻す」 虚を突くとはまさにこのこと。全くの予想外のマダラの言葉は、私の理解の範疇を遥かに超えていた。マダラはいつの間にか射抜くような視線で私をまっすぐ見つめているが、その顔はいつもどおりの愛想のないぶっきらぼうな様子だった。私はマダラが何を考えているのかさっぱりわからず、目を白黒させたまま彼を問いただした。 「…どういうこと…?」 「里に戻れば、少なくともここよりは整った環境で治療を受けられる。そうすればお前は助かるやもしれん。だがコマチ、お前は俺の存在も居場所も何もかもを知ってしまった。記憶は全て消させてもらう」 「じゃあそれなら、」 反射的に口から飛び出した言葉に引っ張られるように、寝台の上で身を乗り出した。 「私はもうここには帰ってこれないの…?」 混乱のあまり喉を詰まらせながらも何とか紡いだ問いかけ。まさか。お願いどうか、どうか、はっきりと否定してーーしかし私の願いも虚しく、マダラは私を真摯に見据えたままこくりと頷いた。その顔には、例えば迷いとか戸惑いとか悲しみとか、そんな私を惜しむような感情は微塵も存在しない。 これは提案なんて生ぬるいものなんかじゃない。マダラのこの物の言いようは、私への命令であり決定事項。 そう察してしまえばもはや冷静でいられるはずがない。私は依然うろたえながらも、悪寒のする身体に鞭を打ち何とか乾ききった喉から声を絞り出す。 「嫌、絶対に嫌。どうせ私はマダラに救ってもらって運良く生き長らえただけで、本当はあの時死ぬはずだったしその覚悟もできてた。何もかも忘れてマダラと離れるくらいなら、いっそこと今すぐ、」 「お前を救った事自体が間違いだった」 私の吐露を遮るようにはっきりと吐き捨てられたその言葉は、私とマダラの洞窟での日々を全否定するものであった。ただでさえマダラの決断に追い詰められているというのに、私の心はその一言でさらなる絶望へと堕ちていく。 何故そんな酷いことを言ってしまうの。そんな台詞あなたの口から聞きたくなかったーー。 「間違いなんかじゃない…!どんなに身体が辛くたって、私はマダラとこの幾月二人っきりで生きれて、すごくすごく幸せだった。それをそんな、全部後悔して否定するようなこと、言わないで…」 この長いようで短かった月日の中、マダラは私がどれほど幸せだったか知らないのだろう。大好きな幼馴染とようやく想い通じ合い、周囲の反対を押し切って夫婦になれた。これでもう私とマダラの間に障害はない、あとは一族の頭領の妻としての責務を忘れずに、マダラと睦まじく生きていけばいい。そう信じて疑わなかった祝言の日から一転、イズナくんの死を皮切りに、運命の歯車は狂っていった。気がつけばもはや私の手も届かないほどにマダラは闇にとらわれ、一族と里を裏切り、千手柱間と戦い死んだ。祝言の日こっそり思い描いた、夫婦二人仲睦まじい幸せな日々を、ついぞ私達は手に入れることができなかった。 しかし何のめぐり合わせか、二人はこの世で再会することができたのだ。マダラは何故か私の記憶を失っていたが、それでも洞窟暮らしの長い日々の中少しずつ心の距離を縮められた。二人で頬を赤く染めながら身を寄せ合うほどーーいい歳してなんて稚拙な関係なんだと馬鹿にされたって構わない。私とマダラは互いへと二度目の恋をした。私はこの小さな恋心がただひたすたに大切で、幸せに満ち満ちていた。 私の胸中を全てマダラに伝えれば、少しはこの遣る瀬無さも伝わるだろうか。しかしこの弱りきった身体で伝えるには、この胸の内の想いはあまりにも巨大だった。未だ呼吸をするたびに胃酸の匂いが鼻から抜ける。私はそれ以上台詞を続ける事ができず、口を柔く閉じた。マダラを視界に捉えることすら悲しみを煽ってしまいそうで、頭を抱えるかのように顔面を両の手で覆う。酷い寒気を依然身体に感じながらも沈黙に耐えていれば、マダラがスッと迷いがちに口を開いた。 「…今のコマチの状態は…、かつての俺の意に反する」 「…!」 かつての俺。それってもしかして、つまりーー。 私は手で覆われたまま驚愕に目を見開く。 「俺はおそらく、お前に関わる全ての記憶を己で消した。その理由も今ならうっすらと分かる」 「…」 「お前が大切だからこそ、お前を遠ざけるために記憶を消したのだろう。今ならコマチを愛おしく思う気持ちも多少は理解できる。ならばコマチを愛していたかつての俺なら、今お前が病に苦しむ様を望んではいない」 記憶を己で。 消した。 愛おしく。 愛していた。 この幾月、喉から手が出るほどに欲していたマダラの記憶錯誤の答えは、まさかの形であっけなくも私の目前へこぼれ落ちた。 もはやこのちっぽけな脳みそは、あまりの衝撃の重なりに悲鳴をあげていた。 戦いによって頭部を損傷したための一種の記憶喪失か、あるいは千手扉間がマダラの脳を弄り回し記憶を削除したものだとばかり思っていた。マダラが己で私に関する一切の記憶を消しただんて、そんな可能性露ほどにも思わなかったのだ。マダラと共に生きてきた数十年の記憶は、例え悲しみの終末を迎えたとしても、何ものにも替えがたい大切な大切な思い出。それだと言うのに、マダラはそれを、自分から捨てたと言う。 目前のマダラはその理由を、大切な私を遠ざける為だと言った。私のために、あの宝物のような日々の記憶を捨てたというのか。それがかつてのマダラの、私への愛の形だと言うのか。愛しているからこその、選択だったというのか。 ぐるぐるとマダラの放った単語が、私の頭の中で迷子のように彷徨い続けていた。驚きのあまり呆然としていたが、何度も何度もその台詞を反芻しているうちに私の胸の中で芽生えたのは、鮮明に燃え盛る激しい憤怒の感情であった。 「…愛してたのなら、なんで私に何も言ってくれなかったの。なんで私に何も言わず里を抜けたの…ッ。なんで、なんで…私を一人残していったの!」 静かだか確実に怒りを滲ませた私の声を耳にして、マダラは珍しく驚きに瞠目している。彼を困らせたいわけではないと言うのに、一度胸中を口に出してしまったが最後、私の中でずっと澱んでいた不安や悲しみが今この時形を変えて決壊し溢れ出した。 「どんな思いがあって一族と里を裏切ったのかは知らない。でもなんだって良い、どんなことでも頼りにしてほしかった!深い深い悲しみだって気が狂う程の苦しみだって、マダラのものならどんな思いだって受け止める覚悟だった、あなたを愛していたからこそよ!」 ついには怒りのあまり声が大きくなる。しかし次の瞬間、憤怒のせいかあるいは無理に声を張っているせいか、治まったはずの吐き気が今一度胃の底からじわじわの湧き出てくる。身体を苛む不快感にもはやマダラと面と向かう余裕も一瞬で失せ、私は力尽きるように頭をたれ、締め付けられるような心地がする胸元を利き手で抑えた。あまりの苦痛に掻き毟りたくなるのをなんとか抑え、カラカラに乾いた唇を血がにじむほど強く噛み締めた。目頭はじんわりと熱くなるが、泣いたらもうこれ以上何も胸の内を伝えられなくなってしまう。怒りの力に後押しされている今のうちに口にしてしまわなければ、まともに会話する活力はこの惨めな身体にもう二度と湧いてこないかもしれない。 何とかえづきそうになるのを我慢して大きく深呼吸をした。泣いてたまるか。 「今でこそ、生きながらえるその理由を私に教えてくれない。ねえ。なんで一人で全部抱え込んでしまうの、マダラ…」 もはや先刻の激しい怒りは見る影もなく、頼りない声音で何とか言の葉を紡ぐことが精一杯であった。ひゅうひゅうと気管から苦しみが滲んだ音が聞こえる。もうこれ以上マダラに想いを暴露する元気はない、あとは、彼がどう出てくれるか――そうしてもう一度深呼吸をしようとしていたところに。 「お前に何が分かる…」 あっという間の出来事であった。突如両肩にに何かが食い込むような痛みが走る。何事かとすぐさま顔を上げれば、マダラはこちら刺し殺さんばかりの恐ろしい視線で私を見据え、私の強ばる肩をその大きな両の手で鷲掴みにしていた。全く遠慮のない力加減、そしてマダラのその顔は、私以上の大きな怒りをありありと示していて――。 「お前になど背負いきれるはずがない。俺の決意も夢も、お前が背負い込めるようなものではない…!」 「…ッ」 「女なんぞ所詮貧弱な存在だ。弱いお前に俺の使命を全うする力はない。受け止めるだの覚悟だの笑わせてくれる」 凍てつくような嘲笑をその綺麗な愛しい顔に孕み、マダラは私へと言葉を吐き捨てた。 「コマチ、お前の存在は足でまといだ」 ――本当は、いつだって脳裏でちらついていた。 マダラほど忍の才能に恵まれたわけでもなく、果てしない努力ができるほどの頑丈さもない。うちは一の優秀な忍である彼と比べてしまえば自ずと劣等感は湧き出てくる。なんとしてでも彼に追いつきたくて戦闘力とは別の分野で努力は積んだつもりだが、それでもマダラの存在はあまりにも遠かった。 私なんかが、マダラの側にいて許されるのだろうか。彼との長い月日の中で数えきれないほど頭に浮かんだその迷い。しかしマダラはそんな私を好いてくれたし、人生の伴侶として傍においてくれた。マダラ自身が、私と生きることを選択してくれた。だからきっと私はマダラに頼りにされているんだ、信頼されているんだ。そう思えばどんなことだって苦ではなかった。なかったはずなのに――。 目の前のマダラは目じりを釣り上げ、眉間に深い皺を刻み、凄まじい怒りをその顔全体に湛えていた。両肩に食い込む彼の指が、私の毛細血管を容易く破裂させる。 どこかで聞こえる骨が軋む音。 ーー嗚呼そうだやはり私は弱い。マダラにとっての足でまといに過ぎない。 それはこの世の真理のように自ずと私の脳に入り込み、じわりじわりと滲み広がっていく。頭を埋め尽くしていく。何一つ反論できない。愛しいマダラからついに聞かされた、己の存在の全てを否定される言葉を、私は認めざるを得なかった。生きる活力すら今この瞬間私の身体から消え失せていくというのに、ぼろぼろといつの間にかこぼれ落ちる涙は嫌にぬるく頬を濡らしていく。己が泣いている様すら醜く滑稽で、何とか泣きやもうと再び唇をきつく噛む。しかしそれでも涙は止まるどころか次から次へと溢れ続け、横隔膜の痙攣につられ情けなくも肩が大きく揺れた。 ーーその時。 マダラはハッと我に返るかのように小さく息を飲んだ。その瞳から憤激の色が一瞬で消えたかと思えば、次の瞬間には泣き震える私へと先刻のような温い心配の眼差しを向ける。 「コマチ…俺は…ッ」 マダラは痛む私の肩から手を離し、しばし歯を食いしばりながらその掌を見つめ、困惑したように視線を揺蕩わせた後ーー勢いよくそして力強く私を抱きしめた。その大きな胸板に頭を押さえつけられ、彼が頭を垂れたのか私の額にはらりとマダラの髪がこぼれ落ちる。 (mainにもどる) |