ゆくらくら恋ふ | ナノ
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06. いとせめて恋しき時

新緑の季節は過ぎ去り梅雨を超え、いつの間にか訪れた夏の盛り。なんとも早いもので、私が千手の元に住まうようになって数か月が経過していた。

太陽が沈んで大分時間が経ったというのに、未だ蒸し暑い。ささやかな夜風がそよりと店の戸口から吹き込む。気持ちいい。暑さのせいもあるが、酒で尚更身体中が火照っていた。大酒飲みというわけではないがこうして外に出てちびりちびりと飲んでみるのも悪くない。隣にあの人がいるのだから尚更だ。飲み屋に溢れる熱気も、右半身が妙な熱に浮かされる不思議な気分も、今の私にとっては何もかもが愉快だった。酔いのせいか自然と重たくなるまぶたを持ち上げて、隣に座る男に目を遣る。

「扉間、」
「…何だ?」
「なんでもなーい」

ふふふ、と気味悪く笑い始める私の姿に、扉間は眉を潜めながらも微かに口元を綻ばせた。綻ばせた、と言えば聞こえはいいが、この流れから見るにきっと呆れからの嘲笑だろう。それでもあの堅物がお咎めの一つも言わなかったのだ。きっと彼も酔いに浮かされているに違いない。

一緒に飲みに行こうと誘ったのは私だった。彼のスケジュールを柱間から密かに聞き、今晩は時間にゆとりがあることを知っていた上で誘ったのだ。快諾とまではいかないが、特に嫌がる様子もなく彼は頷いてくれた。二人っきりの酒盛り。浮き立たないわけがない。喜びに足を弾ませながら町まで下りて、この飲み屋にやってきたのである。初めのうちは彼を退屈させてはいないかと無駄に気を揉んでいたが、酒が入るにつれて次第に扉間も打ち解けてくれた。心から楽しい、勇気を出して飲みに誘ってよかった。ぼんやりとする頭の中で喜びを噛みしめた。平素よりも機嫌の良さそうな目元を見つめていれば、視線は再び絡み合う。赤い瞳。誰かに見つめられることがこんなにも心地いいだなんて知らなかった。

「淑やかになった、と以前お前に言ったが…これでは前言撤回だな」
「?」
「こんな気まぐれ女を淑やかだなんて評した俺が情けないわ」

小首を傾げる私へ嫌味を吐き出す扉間だが、その声音の軽やかさで本気でないことくらいは分かる。そして私を楽しげになじった後、ゆっくりとお猪口に口をつける彼。何故だか艶めかしく見えるその姿に目の奥が疼いた。ぴくりぴくりと震える自分の瞼を隠すように、扉間から顔を背ける。胸が、ときめいてしょうがない。

生真面目な男ではあるが、私と二人でいるときは微かに雰囲気が柔らかい気がする。冗談なんて滅多に口にしないはずなのに、辛辣な言葉ながらも私のことを度々茶化したりもする。数か月前に行われた祝言の折り、彼との接し方を大げさに取り上げて酷く思い悩んだ私だったが、結局今は惰性でゆるい関係を保ち続けていた。ああいや、然るべきところではわきまえているつもりだ。一族の上役達が集まる話し合いの最中とか、若い衆を携えて戦に赴く時だとか。つまり人目の有無に合わせて態度を変える、というなんとも都合の良い立場に居させてもらっているわけだ。これでいいのかと思う気持ちもある。しかし、居心地がたまらなく良い。こうして二人で外に出て、酒を呑み交わす仲になれたのだ。今更この関係を手放なそうだなんて思うわけがない。単純というか、現金というか。自分の情けない様を顧みて、小さく自嘲の笑みを浮かべた。

「酔っ払いなんだから、調子に乗るくらい許してよ」
「どうだかな。酒で化けの皮がはがれたのだろう」
「もう!」

そうして私はケラケラと笑い声を上げる。卓に肩肘をついて目を閉じれば、飲み屋の独特な雰囲気を尚一層感じた。上機嫌に笑いあう周りの声、カウンターの向こうから漂う美味しそうな料理の匂い。そして隣に座るのは昔恋い焦がれた幼馴染なのだ。とろりとした瞼の重さを感じつつ、紅に色づく頬を隠すかのように頬杖をついた。お行儀が悪いだとか、そんなもの構うものか。

「扉間とこうしてお酒が飲めるようになるなんて、不思議」
「不思議?」
「お互いお酒が飲める歳まで生き残れたことも、飲みに付き合ってくれる仲なのも」

感慨深さにほう、と息を吐き出した。扉間の方には顔も向けず、ただ卓を見つめて言葉を零す。

「あの頃では考えられなかったことだな」

あの頃、とはどの頃なのだろう。難しいことに思い悩むこともなく、ただ仲睦まじく過ごした時のことなのか、それとも例のアレで疎遠になってしまった時のことなのか。気になりはするが、問いただすことはできなかった。そう言えば扉間と再会してから、幼い日のアレについて話したことは一度もない。まあ、当たり前だ。記憶から消し去りたいほど恥ずかしい思い出を、どうして今更掘り返す必要があるのか。あの日のことをとやかく言って、万が一にでもまた険悪な仲に逆戻りしてしまったとしたら――。そこまで思いを巡らせて、私は身体を震わせた。ある種の恐怖だった。

「お前と居ると、そこはかとなく気が休まる。また今度、飲みに付き合えよ」

え、と私の口から小さな声がこぼれた。慌てて扉間の方に顔を向けてみるが、扉間は私を見ず、ただぼんやりと徳利と見つめていた。扉間にとっては何気ない一言なのだろうか。しかし私はひとつ、またひとつ瞬きを繰り返す度に頬が熱を帯びていく。心底嬉しい。彼は私を受け入れてくれている。なんて喜ばしいことなのだろう。私は再び顔を背け、もう一度頬杖をついた。胸の奥がきゅうんと縮こまる。扉間と二人でいるとき、度々感じるこの感覚から、もう目を逸らすことはできそうにない。

「幼い日に恋い焦がれた相手」だと騙し騙しに目を逸らしていた。一緒に居て無性に胸が高鳴るのは、あの時の感覚を引きずっているだけだと取り繕っていた。なんて苦しい言い訳だったのだろう――今でさえこんなにも、扉間のことが好きなのに。幼いころの気持ちと何一つ変わらないのだ。扉間の姿を目にするだけでときめきを覚える。扉間と二人で出かけるとなれば、普段の何倍も気を遣って着飾る。扉間に恋している証拠だ。今だってそう、幼い日のようにあなたに甘えたい。もっともっと近づきたい。

ごくりと生唾をのむ。途端にひどく乾きはじめる喉。早鐘を打つ心臓の音があまりにも煩わしくて、彼に目を遣ることもできそうにない。自由の利かない身体で、背筋をぴんと伸ばして座りなおした。きっと酒のせいで、わたしはどうかしているんだ。こんな歳になって、彼に甘えたいだなんて。いやしかし、全部酒に罪を擦り付けてしまえばいい。卑怯ながらにも逃げ道や言い訳に背中を押されてしまった。


「私も、扉間と二人でいると落ち着く」

落ち着いていられるわけがない。今にも暴れだしそうなほどに緊張しつつも、わたしはそうっと彼に寄り添い、その肩に頭を預けた。


酒のせい酒のせい、と頭の中でしつこく何度も繰り返す。カウンター席であること利用した、大胆な行動だった。脳髄まで熱に蝕まれているのか、もはや何も考えることが出来ない。彼に近づきたいと願った故の行動のはずなのに、心が満たされている場合ではなかった。酷く息がつまる。その多大なる緊張は、苦しみさえ感じるほどだ。

そして賑やかな飲み屋の雰囲気に似つかわしくない沈黙が長く二人を包んだ後、自ずと強張る身体に自分が今仕出かしていることの愚かさをようやく悟る。いきなりのこんなスキンシップに驚いて、また彼に疎まれるようになってしまったとしたら。後悔に苛まれるも今更取り返しがつくわけもない。だからどうか、どうか拒まないで。苦しみも不安も複雑に絡み合う胸の中、私は身体の痺れに堪えかねて強く目を瞑った。

――その時ふっと、頭に温かい何かが置かれる。扉間の大きな手。傾く頭を包み込むかのように置かれたその手に、私の呼吸は尚一層荒くなった。ああ、とびらま、とびらま。堰を切ったように愛しさが満ち満ちて零れゆく。十数年ぶりに感じた彼の身体の体温は、泣きたくなる程に穏やかで懐かしい。扉間の指がゆっくりと私の髪を撫でた。

「コマチ、お前大分酔ってるな…?」
「うん…」

そう言って扉間が店員に声をかければ、すぐに運ばれた一杯の水。飲め、と扉間に促されてしまったので、心ならずも彼から離れてコップに口づけた。酔っ払っていない訳ではないが、私がこんなにも弱っているのは断じて酒のせいではない。久方ぶりの色めき立った緊張に体力を奪われただけだ。氷で冷やされた水が喉を通る感触はとても気持ち良いが、それでこの熱が冷めるはずもない。緊張やら羞恥やらで未だぐったりしている私を心配しているのか、扉間が眉をひそめて顔をのぞき込んでいる。その視線にさえ心踊るのだから、私は本当にどうかしていた。

それから彼は懐から銭を取り出し席から立ったかと思えば、あっという間に二人分の会計を済ませてしまった。私が飲みに誘ったんだから、と慌てて追うように立ち上がるが、彼は私からの金を受け取ろうとしない。ここで食い下がる気力もないし、そうしたとしてもきっと扉間は頑なに拒み続けるだろう。今更どうしよもないことだと結論付けて、渋々扉間に頭を下げた。

「おい、真っ直ぐ歩けるか」
「…歩けるよー…」

と、口に出したところで後悔する。まともに歩けないふりしていれば彼と手をつなぐくらいはできたかもしれないのに。店を出て隣を歩く彼の姿をまっすぐ見据えるが、眉根を寄せた顔で見つめ返されるだけだ。向こうまで長く貫く店先らの光に照らされる扉間の顔は、日の照る真昼に見るそれよりも格段に大人びていた。沢山の赤ちょうちんに囲まれ夜風でそよりと揺れるその銀髪は、自らきらめいているようにも見えた。

「とびらま」

はにかみながらただ名前を零す私に扉間は何も答えなかったが、向けられる眼差しは似つかわしくない程柔らかい。まだ彼が少年だった頃の姿を自ずと重ね合わせ、一段と胸をときめかせた。疎いながらにもいつの間にか大人になったわたしは、立派な大人の男への成長した扉間に恋をしている。自分の胸の奥底で確かに息づく感情があまりにも照れくさくて目を伏せた。恥ずかしくて恥ずかしくて、前すら見れそうにない。そんなどうしよもない理由で背中を丸め、とぼとぼとのろまに歩く私の背を扉間は力強く叩く。途端、跳ねるよう背筋を伸ばした私を見て、扉間はおかしそうに笑みを浮かべている。冗談半分で頬を膨らませつつ、私は相変わらず歩調の速い扉間に負けじと通りを突き進むのだった。


ちなみに扉間は私を律儀に部屋まで送り届け、真っ直ぐ彼の自室へと帰った。何と言うか、複雑である。