忍少年と一期一会 17



静まり返った部屋。
止まる事の無い秒針だけが、静寂の中で聴覚を刺激する。
明かりすらついていないその部屋に暖房器具の一切は無く、寂然とした空気がひんやりと流れている。
時刻はすでに深夜をまわっていた。

「…」

男は目を開き、仰向けの状態で古びた天井を見上げていた。
そこに一切の表情は無く、ただ黙って何をする事もせず、ぼんやりとしていたのだ。
その視線はまるで空を流れる雲を眺めるように穏やかであり―――もしもそんな姿を彼の知り合いが見たら、それこそ夢だとばかりに自分の頬を抓るに違いなかった。

今の男はそれぐらい無防備を状態を惜しげもなく晒していたのだ。

「…」

けれども―――…

軽く目を瞑り、男は息をつく。
ここは己の居場所では無い―――そう言わんばかりに、起き上がった。
上掛け布団と毛布が下半身の方へ滑り落ち、すぐさま温まった体が急速に冷えていく。
思わず身震いしてしまう寒さである。

男は何かを考えるように沈黙を保った。
時計の音だけが、漠然と静寂を支配する。
漆黒の闇に包まれた空間の中で、男の金色に輝く両目だけが爛々と光を放つ。
冷たく、何者も近づかせない否定の意を含んだ視線は、まるで今のこの状況を拒絶しようとしているようにも見えた。

やはりここは、己のいるべき場所では無い―――と

しかし―――

すっかり生温い湯に浸かりすぎてしまったと、そう気を引き締めようとした時だ。

「…」

男は動きを止めて、瞬き一つする事無く『それ』を見つめる。
その姿形を目の奥に焼き付けるように、無表情のまま凝視していた。
けれど男の心情を鮮明に写すが如く―――いつもは断固と動かない獰猛な瞳が、かすかに揺らぐ。

視線の先―――『それ』は冷たい畳に正座を崩して座り、寒さを凌ごうと毛布に包って眠っていた。

他でもない、この家の主にして男の恩人にあたる中学生・忍だった。

忍は壁に体の端を寄り掛からせ、男の方へ体を向けられたままだ。
その姿勢はまるで男の様子を見守っていた後、うっかり眠ってしまったような図である。
その顔には少し疲労が浮かんでいるのも、あながち間違いではなさそうだ。

思わず手を伸ばしかけ、はたりと我に帰る。
何か躊躇う様にしばらくその体勢のままだったが、溜め息と共に腕を下ろした。
しばらくその寝顔を見つめてから、再び視線を過ぎらせる。
部屋の片隅に、自分がここに辿り着いた時まで着ていた制服やアクセサリーが、折り畳まれた状態で置いてあった。

再び焦点を合わせるように目を細め、忍を見る。
しかし、忍が目覚める様子はなかった。
それを確認してから、既に馴染んでいる着物を正し、男はふらつく事も無く立ち上がると、畳を裸足で歩き、己の衣類を手に取る。
その触り心地を確かめるように手を動かし、そこで男は息を詰めた。

「律儀な奴だ。わざわざ縫ったのか…?」

破けたブレザーは申し訳程度に、繕われていた。
そんな事をせずともいくらでもブレザーの替えはあるというのに。
ブラウスもまた同じように修復されているようで、男は冷ややかに笑ってしまったものだ。

こんなもの―――不恰好で着れる訳が無いだろう。

破けたり壊れたりしたら修理をするという習慣が無い男には、それがしばし信じられない非現実の事の様に感じていた。
終始微動だにしなかった男だが、既に決めていたのか―――着物の帯を引き、着替え始める。

布の擦れ合う音。
アクセサリーがじゃらりとぶつかり合う音。

それが静かな空間の中に響いた。
ブレザーを羽織り、最後とばかりに締めたネクタイを軽く緩める。
そこにいた男は既に忍と過ごした男ではなかった。

何者にも平伏しない。

何者にも従わない。

抗う者は徹底的に潰し、従う者にはその背中しか見せない。

近づく事さえ許さない、文字通りの孤高の王者が君臨していた。
獰猛に笑むことも、冷ややかな笑みも無く、鼻先で笑う顔もしない。感情一つ無い真剣な眼はふらりと人を魅了し、しかし誰にも近よらせない拒絶のオーラ。

一息つき、残ったタバコの箱をポケットに仕舞い込んでから、男は踵を返した。
そのまま忍に目もくれず、障子を開けてから早かった歩みはぴたりと立ち止まる。

「…」

それは頭の中で逡巡させ、迷っているようにも見えた。

男はらしくも無く、また溜め息をつく。
それは重く苦々しく、自嘲にさえ思えたそれだった。


「―――世話になった…」


振り返らぬまま、小さくそう呟いて、男はそのまま去っていった。
どかどかと、まさに王様の名に相応しい歩きっぷりはいつしか静寂に溶け込んでしまう。

廊下を歩く音が聞こえなくなった頃―――

「…おやおや」

寝ているだろうと思っていた忍はそっと瞼を開けて、何度か目を瞬かせて少し口角を上げた。
おかしな事もあったものだと、嬉しそうに笑ったのだった。

「―――まさか『礼』を言われるなんてなぁ…」

嵐が過ぎ去ったように、忍は肺の底から息を吐き出すと小さく白息が漏れる。
ぶるりと身を震わせてから、いなくなった男の痕跡が残る布団に潜り込み、忍はその心地よさに目を閉じた。

久しぶりの、自分の布団。

泥だけで、傷だらけだった迷い犬はどうやら自分のいるべき場所を思い出したようである。

忍の助けた故の責任は、これで償われた。

同時に、二人を繋ぐ縁も―――ぷっつりと切れる。

まるで糸のように細い繋がりだった。

―――そう、そんな些細な繋がりも終いなのだ。

忍は満足げに息をつき、やがては意識を水底へ落としていった。

今日は気持ちよく寝れそうだ、と。

けれどそれがまさか―――

巨大な嵐の前の静けさとも知れずに―――…

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