忍少年と碧血丹心 030

知らない顔。
知らない視線。
知らない、しなやかな体。

それは細身にしては意外にも筋肉の作りはしっかりとしていた。

知らない吐息の熱さ。
知らなかった忍の私生活。

けれど、本来は知らないはずだった唇の柔らかさだけは、覚えている。

不本意に奪ってしまった、本当は宝物のように大切にするべきだった『それ』を。
本当は、目で追いかけて、それを夢物語のように考えていた『それ』を。

まるで、幼い頃の初恋が破れた時の衝撃が空<ソラ>を襲った。

「…本当に、本当に…『白取』君、なの…?嘘でしょ…?なんで、貴方がこんな所に…」
「―――本当に、どうしてかな。偶然って酷いもんだね」

「それに…『初めまして』って…」

忍に攻め入るような陰は見当たらない。
ただ残念そうに受け入れる忍の様子が、空には辛かった。
その眼差しに、己の恥ずかしい場所を全て見られたと思うと、それだけで羞恥に顔が熱くなる。
今すぐ、忍の目を閉じさせ、何もかも無かった事にしたい。

こんな『自分』、忍だけには知られたくなかった。

「―――おい。持ってきたぞ―――って、あれ…どうしたの?空ちゃん、なんか震えてない…?」
「あ、ああ…」

悠然と余裕に満ちた空の姿の形欠片ももう見当たらない。
ただの弱りきった女のように、空は涙を目尻に貯めていく。

「空ちゃん?薬持ってきたよ…?」

男の一人が、空の異変を気遣うように、そっとその小さな肩に触れようとした時だった。

「触らないでよっ!」

その手を強引に振り払い、きっとその相手を睨みつける。
相手も驚きに体を跳ね上げ、その拍子に手に持っていた小さな封されたビニールの袋が床に落ちた。

「おいおい、空ちゃん。それは無いって…マジでどうしたのよ…」
「お望みの薬…だぜ?」
「嫌…いや…。見ないでよ、見ないでよ!!見ないでってば!!」

投げ捨てたはずのセーラー服を抱きしめて、空は体を丸くして縮こまってしまう。
『恐怖』に駆られ、今の彼女は完全に自我を失っている。
今更何を羞恥に嫌がる必要があるのか―――まったくその理由を知らない若者達は目を見合わせるだけだった。
忍の体の上で、声を押し殺して本気で泣いているのだ。
忍が突然の事態に困惑した連中から四肢を取り戻すのは容易いことだった。

「―――離して下さい」

冷淡にそう言えば、混乱した相手の束縛も弛む。
奪い返すように両手の自由を取り戻すと、掴んでいた相手を、流し目に似た視線で今までの怨恨を込めて睨んだ。
むろん、蛇にらみにあった男は文字通り跳ね飛んで、血相を変えてその場から逃げるように後ずさりをしていく。
ふと見れば、その手首にはきつく掴んだ後がくっきりと残っている。
どれだけ強い力で握り締めてくれたのかと、忍は不機嫌な様を隠そうともしなかった。
気だるそうに上半身を僅かに起こすと、今だ空が忍の下半身に乗りかかったままで起きあがる事が出来ない。
頑として退きそうにない彼女を―――退く事さえ考えられないぐらい追い詰められている彼女を思って、溜め息を零す。

「堪忍してなぁ、空さん。こないな風に、脅すつもりはなかったんやけど……でも、ウチはどうしてもやられる訳にはいかんかったし…ほんまこれ以上君の事、見とれんかった」

腹筋を使って体を起こし、片手を柱に自分の体を支える。
忍は直ぐ傍で踏みつけられて皺くちゃになった羽織を、片手で痛々しそうに拾い上げて、剥き出しになっている空の体へ、投げやるように掛けてやった。

その瞬間―――びくりと、空の体が跳ね上がる。

茶色の羽織は彼女の頭上から覆いかぶさり、屈辱に唇をかみ締める顔も露出した白い肩も―――肌の全てを覆い隠された。

誰にも彼女の醜態を見られないように。

勿体無いと素直に思えるその体を。
惨めなほど歪んだ、泣き腫らした顔を。

傷ついているであろう、その内側を―――

全てを覆い隠してやった。

ふっと安堵にも似た息をつき、忍は背筋を正した。
そこには既に親しげな色も何も無い。

不安を取り除かれた今、彼の心中に残っている感情は『ただ一つ』―――

轟を纏った烈火は、火の粉すら撒き散らすほどの荒々しさで、尚も炎上している。

―――それも当初より更に悪化して…

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