どろどろの疲れ(卒暁後)

 久しぶりに休日がくると、なにをすればいいのかがわからない。千芳は途方に暮れる。この頃、働き尽くめだった。来る日も来る日も仕事が終わらず、寧ろ日常のルーチンが仕事と家事に追われていた。猿投山も手伝ったが、それでも人手は足りない。猿投山こんにゃく本舗にヘルプを出しても、支店のことは支店がやらなければならない。猿投山はこんにゃくの製造に追われ、千芳は店の対応に追われる。休みという休みがなかった以上、月初めに休みを取るのも無理はなかった。店仕舞いをし、シャッターに休店を張り紙したときの猿投山の顔は忘れない。ドッと全身に戻った疲れを押し戻すように、シャッターへ両手を付いていた。頭を垂れ「はぁーっ」とデカく大きく、深い溜息を吐く。そこに今まで蓄積していた疲労の度合いが、嫌というほど出ていた。その疲れは千芳も同じである。猿投山の溜息に釣られ、自覚した疲労で身体が崩れそうになった。互いに無言で帰路に着き、どうにか家に辿り着く。玄関に入った途端、千芳は靴も脱がず座り込んだ。座った場所が靴を脱いだ先であるから、まだ洗濯の暇はない。猿投山は隣で座り込んだ千芳を、疲れの滲んだ顔で見る。そのあと、洗面所を指した。
「風呂、張ってくっから」
 肉体も精神も鉛のように重いため、それ以上の言葉も気遣いも出てこない。それに千芳はコクリと頷く。なにも動かないよりはマシだった。のろのろと動こうとする。声をかければ余計に無理をしてしまうだろう。そう思い、猿投山は千芳を無視して洗面所に入った。洗面所は脱衣所と兼用している。髪を上げた手拭いを洗濯機に入れ、手を洗う。それから浴槽を軽く洗い──のところで、猿投山の膝が崩れそうになった。健勝な肉体でも疲労の限界が来ていた。しかし千芳を思い出したのか、グッと肘と膝に力を入れる。起き上がって、軽く浴槽を洗う仕事に戻った。泡を噴き、スポンジで汚れを落とす。適当に気になる水垢だけを擦って、シャワーで洗い流した。(早く入りてぇ)湯治が一番疲れた身体に効く。その一心で泡を残さず洗い落とし、綺麗になった浴槽に栓をした。蛇口を捻り、温度を確認してからお湯を張る。あとは待つだけだ。洗面所を出て、千芳の様子を見に行く。自力で動こうとしたからか、千芳は廊下へうつ伏せに倒れていた。靴を脱げただけ、まだマシを捉えるべきか。猿投山は気の抜けた声を出す。
「あー、大丈夫か? そう無理すんじゃねぇって」
「うぅ。面目もない。くそぉ」
(めっずらしいなぁ)
 口調が荒くなった千芳に、ぼんやりと猿投山はそう思う。横に抱いた千芳を両腕に抱え、リビングに入る。カーペットの上に下ろすと、千芳はゆっくりと横になった。クッションも引き寄せず、眠りに就こうとする。活動限界の千芳を見て、猿投山は口を出した。
「下着はどうする? 持ってくるか?」
「うー」
 本人は「うーん」と発したつもりだろうが、今は唸り声だ。疲れのせいで舌もろくに動けない。むにゃむにゃと口が動くことから、眠るのも時間に問題だ。
「む、っくぅ」
「おう。自分で持ってくるんだな?」
「んー」
 目を瞑ったままギュッと顔を顰めた。否定したがっているように見えるが、反論がない以上そうなのだろう。下手に問い詰めれば千芳の体力を奪う。のろのろと身体を起こし、自分の着替えを取りに自室へ入る。適当に寝間着と替えの下着を抱えて、カーペットへ投げるように置いた。「はーぁ」と大きく息を吐いて、千芳の上に寝る。猿投山の下敷きにされた千芳は、ムッと閉じる目に力を入れた。
「重い」
「一〇分経ったら起こしてくれ」
「無理、わかんないって」
 無責任に目覚ましを頼んだ猿投山に、千芳が重く瞼を開けた。のろのろとスマートフォンを出し、時間を確認する。何度考えても、一〇分前後で起きれる自信はなかった。覆い被さってきた猿投山を見る。近い。(そういえば、ここまで近付かなかったような)最近の御無沙汰を思い出し、奇妙な居心地の悪さを覚える。顔に血の気が戻った千芳と違い、猿投山は熟睡をしかける。寝息まであともう少しだ。開いた猿投山の口から出る涎を、どうにか拭く。下敷きになりながら、体勢をどうにか変えようとするが、できない。自分の下に空間を抉じ開け、腕を差し込んだ。そこを道にして、猿投山の顔を触る。(久しぶりだなぁ)丁寧に剃る暇もなかったのか、プツプツとした髭の感触が指に伝わる。(髭も緑色なのかな)髪が地毛である以上、体毛も同じ色である確率が高い。(ちょっと驚きそう)髭を生やすにしても、生え始めは口や顎、鼻の下周辺に緑のポツポツが出来る。中々に印象が強烈そうだ。興味深そうに千芳が撫でているからか、ムクリと猿投山の瞼が重く起き上がる。眠そうな眼で、千芳を眺めた。
「なんだよ」
 寝起きの声である。それに千芳はなんてこともなさそうに答えた。
「いや、別に。剃り残しがあるなぁ、って」
「あ? あ、あー。急いでたんだよ」
 朝は時間がない。それはわかる。千芳が返事をする間もなく、猿投山の頭が落ちる。千芳の頭上から首と肩の間へ落ちる。スーッと、空気を吸う感触が肌に伝わった。耳にもその音が伝わる。
「なーに」
 質問に一切答えない。猿投山は千芳の首に顔を埋めたまま、息を吸ったり吐いたりしている。それ以上のことをしてこないから、千芳も放置した。スマートフォンでアプリを開き、SNS上で起きたニュースを収集する。ハートのアイコンを押し、リツイートもする。時間を見て、猿投山を起こしにかかった。肩を上げて、猿投山に刺激を与える。
「お風呂、張れたって」
「あー、やっべ」
 名残り惜しさを第一声に発してから、猿投山は起き上がった。のろのろと身体を起こす。自前の着替えも抱えて浴室に向かった。千芳も、寝間着を取りに自室に入る。(面倒臭いから、パンツだけでいいや)下着を一種類だけ取り、寝間着の間に隠す。猿投山は既に入っているようだ。千芳は曇る浴室の扉と脱衣カゴの間で迷う。(一人で入らせた方がいいかな)誰だって、一人で寛ぎたいときはある。千芳はもう眠りたかった。ベッドに入りたい。うとうとと立ちながら舟を漕ぐと、浴室から呼びかける声が聞こえた。
「入らねぇのか?」
 強制力はない。千芳が踵を返しても責める気もない顔だ。曇りガラスで見えないものの、声色だけでわかる。少し目を閉じ、眠りかけた。
(うーん)
 正直いうと、明日は休みだ。それに、もう少し猿投山と一緒にいたい気持ちもある。後者を優先して、千芳は服を脱いだ。洗濯は、明日かければいい。脱衣カゴに脱いだものを入れ、下着は洗濯盥に入れる。なに一つ身に着けない状態になると、小さく浴室の扉を開けた。中を覗き込むと、猿投山が全裸の状態で風呂に浸かっていた。足をギリギリまで伸ばし、腕を浴槽の縁にかけて寛いでいた。千芳の視線に気付き、視線だけ投げる。
「どうした?」
「見ないで、くださいよ?」
「へいへい」
 ジト目の念押しに猿投山は適当に答える。その誓約を守るように、ギュッと目を瞑って顔を背けた。完全に壁へ向いたことを見て、千芳は浴室に入る。扉を閉め、身体を洗い始めた。自分のシャンプーで髪を洗い、トリートメントをつける。やはり、猿投山も男なのか。チラッと薄目で千芳を盗み見た。疲れが限界に達しているからか、千芳は気付かない。
(あー)
 なだらかに前へ曲がる背中のカーブを見て、心の中で生唾を飲む。欲情が顔を出すところだが、今は疲れが強い。猿投山は目を閉じ直し、軽く仮眠に入った。うとうとと舟を漕ぐ。千芳がボディソープで身体を洗い、泡を流し終えた。洗った髪をキュッとタオルで包む。ピチャっと、足の爪先からお湯に浸かろうとする。音と気配を感じ、猿投山が腕を伸ばした。千芳の腰を掴み、ゆるゆると自分の膝へ誘導する。それに従い、千芳は猿投山に凭れかかった。(なんだか、こういうのも久しぶりだな)緊張の緩んだ胸板に寄り掛かり、重く瞼を上げる。湯治は疲労を癒すが、同時に眠気も誘う。猿投山の肩に頭を預け、千芳は手を動かした。ピチャっと水滴が湯面に落ちる。リラックスして柔らかい胸の筋肉を千芳が触った。ビクッと猿投山の肩が跳ねる。
「やめろって」
「んー」
 猿投山が注意をするが、やめる様子はない。言葉で会話しても、千芳は今のように答えるだろう。話は平行線だ。ザバッと浸かった湯から腕を出す。鷲掴みする手の形を千芳に見せるが、なんの効果もなかった。ただ、猿投山の胸に頬を寄せるだけだ。
 疲労が性欲を凌駕する。猿投山は毒気を抜かれて、腕を浴室の床へ下ろした。「はーっ」と息を吐いて、全身の緊張を解く。風呂に浸かって、今まで溜め込んだ疲れを落とすことにした。


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