聴覚からのグッバイ心眼通(在学中)

「ばっ」
 文月の開いた口が塞がらなかった。事は数分前に及ぶ。猿投山は流子との戦いを経て、新たに心眼通を開眼した。その結果、視力を失った代わりに他の五感が鋭敏となる。聴覚が音を拾い、触覚が全ての世界を伝える。味覚は舌を熱へ敏感にさせ、嗅覚が相手の情報を拾い、直観がさらに宇宙までを見渡した。恐るべき能力だ。だがそれも、一つを失うことでダメになる。
 巨大なシンバルの掻き鳴らした凶器に、猿投山の耳が潰れたのだ。たまたま吹奏楽部の前を通りがかった、悲劇である。指揮者兼練習指導者の文化部統括委員長蛇崩と話し込んだ文月が、その現場を見ることとなる。冒頭と同じ台詞を口にしたあと、猿投山の元に駆け付けた。既に、暗闇で歩く人のように猿投山は動いている。目の前で手を振ってみるが、心眼通開眼後のように動くことはない。自身に起きた異常に困惑しているだけである。すかさず伊織へ見せに行く。それでも、聴覚が治ることはなかった。
「一時的に、心眼通が失われた状態に近いな。しばらくすれば治るだろう」
 主治医代わりの伊織が診断をする。耳の聞こえない猿投山に伝えるためか、サラサラとペンを動かした。スケッチブックを見せる。文月と蛇崩に伝えたことと、同じことが書かれてあった。
「クッ! 猿投山渦、一生の不覚!! 皐月様にお見せする顔がない!」
「まぁ、心構えを新たにしたら、いいんじゃないんですかね」
「っつーか、私のせいじゃないじゃない!」
「間接的には関わっていたことになるだろう。フレンドリーファイヤーはやめてくれよ」
「やらないわよ! そもそも、あれくらいなら猿くんでも避けれたんじゃなくて?」
「ぐっ!」
 耳は聞こえないが、蛇崩の毒は伝わったのらしい。声が聞こえない故に中身を察するしかない。恐らく、自身の非をさらに追及するものに聞こえたのだろう。反論をしようとしてもできない。口をパクパクと動かすだけだ。
「まぁ、聴覚が戻れば心眼通も戻るんだ。放っておいても大丈夫だろう」
「ですって。よかったですね。先輩」
「あらぁ。今日の猿くんは大人しいのねぇ。お山にでも帰ったのかしら?」
「蛇崩ェ!! 今、北関東を馬鹿にしたな!?」
 ガタッと猿投山が立ち上がる。耳も目も働かないものの、雰囲気で察したのらしい。勢いよく椅子が倒れた。「まぁまぁ」と文月が宥める。
「それを踏まえて、ちゃんと反省すればいいのでは?」
「ですって。まっ、猿くんのチョンボは今に始まったことじゃないでしょ」
「な、んだと?」
「落ち着け。ともかく、極制服の調整もしておこう。ほら、脱げ」
「脱げですって。先輩」
「レディの前で服を脱ぐなんて、恥知らずもいいところじゃない」
「違う!! ところで、今なにか喋ったか?」
(野生の勘かなぁ)
 と思いつつ、猿投山の腕を取る。視覚・聴覚が抜け落ちても、触覚がまだ生きている。腕を裏に返し、裾を捲り上げた。(最初から聞いてないかも)そう考慮して、伊織のスケッチブックから説明をした。
 文月の伝えた要約に、ほうほうと猿投山が頷く。
「なるほど。しばらくすれば、戻るんだな?」
「そういう感じですね」
 といいつつ、腕に"yes"と筆記体で書く。そのやり取りを見て、伊織は一人頷く。
「あぁ、忘れていた。そういえば目も見えないんだったな」
「普段、見えてるように動いてるからね。早とちりするのも仕方ないんじゃない?」
「じゃぁ、どうやってここまで来たんだ?」
「千芳が連れてきたのよ」
「へぇ。で、ここにいる理由は?」
「一緒に原因を聞くよういわれたのよ! 一々報告書を上げるのも面倒臭いからって理由で」
「へー。で、文月はこのことをどうするつもりだ?」
「あとで犬牟田先輩に報告して、データに残しておきますよ」
「げぇ!」
「そう嫌な顔をしないでくださいよ。対生命戦維に役立つ情報かもしれませんし」
「なんだ? 今、なにを話した? 待て! 口が動いたような空気の形だけじゃ、まったくわからんぞ!?」
「耳に入れない方がいいぞ」
 伊織の助言も猿投山の耳に聞こえない。文月は無視をして、次の要約を記す。『極制服の調整をするから脱ぐように。伊織』と書き終えると、猿投山がキョトンとした。
「脱ぐのか?」
「極制服は精神から肉体へ影響する。気合いを入れて治りやすくなるだろう」
「馬鹿!? あっ、でも脳筋馬鹿な山猿にはおあつらえむきか」
「なんかいったかッ!? 蛇崩!」
 猿の勘は鋭い。もとい野生の勘は鋭い。喧嘩が始まりそうな雰囲気を察し、文月は猿投山を引き摺る。「はいはい、そういうことは後にしましょうね」と文月は口にするが、耳の聞こえる蛇崩と伊織以外には入らない。「勝ち逃げする気か!?」と猿投山がブンブンと腕を上下に振った。怒り心頭である。それを見て、蛇崩は伊織に話す。
「帰っていい?」
「同士討ちはやめろよ」
 そう釘だけを刺して、伊織は蛇崩を見送る。家庭科室に、裁縫部の面子しか残らない。試着室に押し込められた猿投山が、ペタペタと文月の頬を触る。
「見えねぇなぁ」
「ハンガー、着替え。掛けておきましたから。一人で脱げますよね?」
「おう」
(本当に聞こえたのかな)
 不安に思い、猿投山の背中に聞く。するすると指で書かれた文字に「おう」と猿投山は頷いた。これ以上の確認は不要であろう。文月は試着室を出た。
「じゃぁ、着替えたら呼んでくださいね。案内しますから」
「あっ、おい!」
「外で待ってますから」
 そういって、試着室のカーテンを閉める。中に取り残されたのは、猿投山ただ一人だ。
 視覚も聴覚もないまま、呆然と立ち尽くす。自分の手のある方を見て、軽く指を動かす。四肢の調子が変わらないことを見ると、手探りで動き出した。
 カタッと箱のぶつかる音と一緒に「いてっ」との声が漏れる。狭い室内で一人格闘する猿投山の声を聞きながら、文月はのんびりと待った。
 猿投山にペタペタと触られた熱は、まだ消えない。(もうしばらく、あのままでもいいかも)そんな不埒な考えまで抱いた。文月を呼ぶ声がする。それに釣られて試着室を覗き込むと、そのまま引き摺り込まれた。
 数分、中で小競り合いが聞こえたあと、しばらく静かになる。そのあと、ジャージに着替えた猿投山が出てきた。遅れて、文月が自分の襟元を引き寄せて顔を俯かせている。
 前を歩く猿投山が、ペロリと舌なめずりをする。それを見て、文月が勢いよく足を蹴った。
「いって!?」
「馬鹿っ」
「くっ、ところで、どこ向かうんだ?」
 覚束ない足取りで、辺りを見回す。うろちょろと動き回ろうとしたのを見て、文月は引っ張った。猿投山の腕が、リード代わりとなる。運動部統括委員長の極制服も抱えて、文月は伊織の元に戻った。


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