34-1

ショットバーのカウンターに座った私は、ゴホンと咳ばらいを一つしてからさりげなくワンピースの裾を直す。深呼吸して、震えそうになる手をそっと押さえてから、周囲に目をやった。

薄暗い店内の、4〜5席離れたカウンターには、私より先に来ていたカップルが一組座っているだけで、他には客はいない。
仲睦まじそうに膝を寄せている男女は、年の差があるようで、年下らしい女性のほうは初めて来たショットバーに緊張ぎみ、といった感じだ。

カップル……付き合ってるのかな?いや、まだ一線は超えていないというところだろう。
それでも、時折そっと女性を見つめる男性の瞳には熱がこもっていて、彼女を欲しがっているその温度に気づいていないのは当の本人だけということだろう。

…そんな風に気を紛らわすようにカップルを観察しながらも、つい目線をやってしまうのはバーの入口。

もう、ここまで来たら後は引き返せないというのに。

「…次、何か飲まれますか?」

ハッと顔を上げると、優しそうなバーのマスターがニッコリ微笑んでこちらを見ていた。完全に上の空だった私は、「あ、すみません、えーっと…」と頭を巡らせながら、隣のカップルが最初に注文していたお酒を思い出す。

「…じゃあ、アップルシードルください」
「はい。今日はなんだかシードルが人気ですね」

悪戯っぽく微笑んだマスターがシードルのボトルを取ると、グラスに半分ほど注いでくれる。
…そんなにお酒は強いほうではないから、早く「相手」が来てくれるといいんだけれど。

グラスに唇を付けて、一口飲んだところで、ちょうど隣のカップルが席を立つ。
静かに、穏やかに、でもあと少しで火が付きそうな温度を秘めた二人を横目で見送ると、入れ替わりにずっしりとした体形の男が入ってきたので背筋に一気に緊張が走ってしまった。

「…おい」

男は連れのスーツ姿の部下にそう一言合図すると、部下はマスターに目線をひとつ。眉を上げてから肩をすくめたマスターの反応を肯定と捉えた部下は、店のドアにかかるプレートを「CLOSE」にひっくり返してそのままドアの前に陣取った。

ツカツカと、歩み寄ってくる男は高そうなコートを着ていて、横に撫でつけた髪と太めの眉毛は一見すると優しそうなおじ様にも見えるけれど、その眼光は鋭く、只者ではないことを思い知らされるようだった。

私の隣に腰かけた男は、チラリと私のグラスを見てから、「彼女と同じものを」とマスターに声を掛けて、ふと「…いや、やっぱりカルバドスをストレートで」と言い直して私に向き直った。

「…秘書っていうから真面目を絵にかいたような眼鏡の堅物が来ると思ったら、こんな美人が来るとは驚きだな」
「…それはどうも」

カウンターに滑らされたグラスをキャッチして、それを掲げた男がニヤリと微笑んで、「とりあえず乾杯といこうか」と私を真っ直ぐ見るので、私もグラスを上げて男を見つめ返す。

乾杯、と小さく言い合ってからぐいっと口に含んだシードルは、少しだけ、酸っぱく感じるようだった。

「…改めて、俺は若山だ」と名乗る低い声を聞いて、やっぱり…と唾を飲み込んで動揺を抑え込んだ。資料で確認したから顔は分かっていた。だけど、まさか本人がここに現れるとは思ってもいなかったのだから。

彼は、この辺りを仕切っているヤクザの中でも一番大きな組の、まさに親分本人だ。

「…よく知ってます。…それにしても、こんな小さなことに親分本人が出向いてくださるなんて、意外です」
「…そうか?」

キョトンと意外そうに笑った若山さんの笑顔に思わず自分もつられて口角が上がってしまうと、「…『こんな小さなこと』じゃないことくらい、お前も分かっているんだろう?」と返されたその声の冷たさに、一気に肝が冷えるようだった。

震えそうになる声をなんとか落ち着けて、「…じゃあ、早いところ終わらせましょう。こっちは、そちらの要求をすべて飲む条件なのはご存知でしょう?」と鞄に手をかける。

「…まあな」

ふと、鞄から小切手を出そうとする私の手元をニヤリと見やる若山さんの視線に気付いた私は、「…『写真』を先に確認してからです」とその動きをストップする。

「…面白い女だ」
「…そう思っていただけるのなら、早く見せて信用させてください」
「…なるほど」

面白そうに眉を上げた若山さんが手を挙げると、部下の男が茶封筒を持ってきて、若山さんにそれを手渡した。それをチラッと覗いて中身を確認した若山さんは、ジッと私の瞳を見据えてから、一瞬ためらったあとその封筒をカウンターに滑らせる。

「…お前のボスもいい趣味してるぜ」
「……」

嫌味を一つ投げてくる若山さんを、唇を噛んで睨み返したら、ゆっくりと封筒から引き延ばされた写真を取り出した。

…ああ、きっと、これは正真正銘の本物だ。本当に、こんな…。

「……こんなのよくある話だが、時期が悪かったな」
「…そうですね」

……写真に写っていたのは、私が政策秘書を務める国会議員だった。

品行方正、質実剛健、中堅の中でもトップであることが世間にも知られているその人が、写真の中では若い女と痴態を演じている。
それ以外にも、安っぽいホテルの入口で撮影された何枚も何枚もあるその写真に写る彼のスーツは様々で、その写真が長期に渡って撮影されたことは明らかだった。

妻帯者である彼の、一時の火遊びとはとても言えない写真なのは確実だ。

選挙を目前に控えた、こんな時期に…。
苦い感情がこみ上げてきて、歪む表情を悟られないように伏せて、鞄から小切手と万年筆を取り出した。
上等なこの万年筆はスイス製で、秘書になった当初に議員から頂いたもの。しっかりやりなさい、との言葉と一緒に渡されたこれを、こんなことに使うなんて誰が予想したことだろう。

「…約束の金額です」
「…確かに」
「データの消去については信頼しています。こちらも約束どおりの金額を支払ったのですから」
「それは信じてくれ」

カウンターから拾い上げた封筒が、ズシンと重く感じるようで、手に取ったあと数秒固まってしまった。この写真がこれからどれほど人を動かしていくのか…もう、自分一人では抱えきれないくらいだったのだから。

「…では」
「…待て」

踵を返してそこから立ち去ろうとした私の腕が、いきなりガッシリ掴まれるのでびっくりして振り返ると、「…お前、本物か?」とうっすら微笑みを浮かべる若山さんが、ゆっくりと私の身体を引き寄せたのだった。


つづく

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